どんなホラー映画より怖かった
優雅に見えるぎりぎりの速さで歩いて学校へ行き、談話室へ入ると、そこは異様な気配に満ちていた。
部屋の隅に立っていたトールは、アイスピックのようなものを持っていた。お腹のあたりで武器を構え、素早く前に突き出す動作を繰り返している。
マリナはこれ以上ないほど眉毛を下げて、トールのまわりをうろうろしながら心配していた。
……弟が、人を殺す練習をしている。
「トール!」
悲鳴のような声が漏れた。トールはさっと武器を隠し、顔を上げた。
「ティアンネ様、大丈夫です。僕がなんとかしますから」
いつもと同じ笑顔なのが怖い。
「トール、落ち着いて。いい? 落ち着いて、その武器をこちらへちょうだい」
トールは微笑んだまま動かない。
「トール、お願いよ。あんなクズのせいで、トールに前科がついて、手を汚してしまうのは耐えられない。トールにそんなことをさせるくらいなら、わたしがあのクズのブツを臼で挽く!」
めらめらと怒りが燃え上がってきた。
女性を食い物にして、いろんなことをしているクズが、まだのうのうと生きているなんて!
「ここであいつを逃がせば、前と同じだわ。トール、お願い。わたしのために、それをちょうだい。その武器じゃ生ぬるいわ」
動かないトールに近づいて、武器を取る。トールは、まったく抵抗しなかった。
後ろに控えてくれていたレネに武器を渡すと、後退して距離を取ってくれた。
この部屋に入った時に凍りついた心臓が、ようやく動き出す。
「トール」
なだめるように名前を呼んで抱きしめると、トールの目から大粒の涙がこぼれ出た。
「だ、だって……! だってあいつ、姉さまにあんなことをしておいてっ……生きてるだけで許せないのに! また現れてっ……!」
「そうね、許せないわ」
「姉さまが知る前に、消さなきゃって! 姉さまを守らなくちゃって……!」
トールはずっと、わたしを守ると言ってくれていた。しがみついているトールの涙が、肩にしみこんでいく。
「ありがとう、トール。でも姉さまは、姉さまの苦しみをトールに肩代わりされても、嬉しくはないの。どんなことがあっても、絶対に姉さまの味方でいてくれる。あたたかく迎えてくれる、帰れる場所がある。そして、姉さまを大好きでいてくれる。それだけでもう、姉さまを守ってくれているの」
「ぼっ僕は、あのとき、なにもできなかった……!」
「いいの。ありがとう、トール。大好きよ」
しがみついて本格的に泣き出したトールの背中をなで続ける。
トールは、子爵家の跡取りとして、きちんと育てられた。長年の友人の前ではいろいろと我慢しないけれど、人前で泣くことはない。
トラウマを刺激してしまったらしいトールは、わたしにしがみついて、わんわんと泣いた。嗚咽の合間に、ごめんなさい、姉さまの言葉を信じられなかった、気付けなかったと何度も言う。
それに返事をしながら、もうすっかりわたしより高くなってしまった頭をなでた。
何歳になっても、わたしにとっては可愛い弟だ。
「……申し訳ございません。お見苦しいものをお見せしてしまいました」
しばらくして落ち着いたトールは、目を真っ赤にはらしながら、みんなに謝罪した。
「気にせずともよい。姉がそのような目に遭えば、無理もない。落ち着いたか?」
「はい。ありがとうございます」
ロアさまが代表して言ってくれた言葉には、労わりが込められている。みんな優しい目をして、トールを責めないでいてくれた。
「マリナ嬢。これは他言無用だ」
ロアさまの視線を受け止めたマリナは、どこか申し訳なさそうだった。
「わっわたくし、知っておりましたんです。なので、大丈夫だっすです」
「……普通に話して構わない」
「……かしこまりました。おら、ティアンネ様がトールの姉様じゃないかって、なんとなく思っとったんです。トールが姉様のことを話す時と、ティアンネ様のことを話す時の顔が同じなんで」
「……申し訳ありません。できるだけティアンネ様のことは話さないようにしていたんですが……」
縮こまるトールを、ロアさまは責めなかった。
「失敗は反省すべきだが、後悔はするべきではない。申し訳ないと思うのなら、これから挽回すればいい。相手を殺さないでほしいが、約束できるだろうか? 今までの罪をつまびらかにし、償わせなければならない。被害者ではなく、我々が勝手に裁いて殺してしまうのは、違うのではないかと思う」
「……はい。僕は姉さまの意思に従います」
「殺さないで、トール。姉さまには未遂だったし、きっちり反撃もした。もし私刑が許されるのなら、それは、今までの被害者の方々に決めてほしい」
「わかりました。姉さまがそう言うのなら」
うーん、トールがブレない。
「マリナ嬢、ここにいてくれて感謝する。あとは我々が対処しよう」
「いいえ、マリナもここにいるべきです」
トールの主張に驚く。
「あの商人は、マリナを狙っています」