美術は2だった
私の荒ぶる内心はさておき、学校生活はそう変わらなかった。
エドガルドとロルフも、適度な距離間でいてくれる。わたしを尊重してくれているのが言動から伝わってきて、ちょっとむず痒い。
表面的には平穏な生活が続いていた日、わたしはレネを自室に引っ張り込んだ。ほかに誰もいないことを確認してから、鍵もかける。
「ちょ、ちょっとアリス。どうしたのさ。いくらなんでも、鍵をかけた部屋にふたりきりはまずいって!」
顔を赤らめながら叱ってくるレネに、静かにとジェスチャーしてみせる。
そんなふうに言うレネだからこそ、信頼して話そうとしているのだ。
「ちょっと私的な問題がありまして。みんなに伝えたほうがいいか、レネ様に判断してもらいたいんです」
エドガルドとロルフに言うことも考えたけれど、わたしのことを好きだと言っている人に頼るのは、ちょっと違う気がする。
わたしのことが好きなら協力して当然でしょ? という感じがするのが嫌なのだ。
アーサーは、前にダジャレとわたしが婚約うんぬんと言っていたし、ロアさまに言うのは……何となく嫌。
レネに椅子をすすめ、ふたりで座る。お茶も出していないことに気が付いたけど、ふたりになる時間は今しかない。
「今日、マリナの研究室に行ったら、窓からよろしくない商人を見かけたんです。裏口から学校に入っていて」
「裏口って、業者が出入りするところだよね? 学校に来れる商会とかは決まってるはずだけど、よくない商人って?」
これを話すには、わたしのちょっとした過去を話さなきゃいけない。
「以前、わたしを襲おうとした商人です」
「……は?」
地を這うような、低い声が聞こえた。
「うちに出入りしていた商人です。家の前で具合が悪そうにしていたので、助けたんです。恩人だと言って品物を安くしてくれたんですが、ある日襲いかかってきまして。フライパンで下半身を滅多打ちにしました」
「……下半身を?」
「まあ、主に脚の付け根あたりを」
「そう。それで、アリスは……何も……」
レネが言いにくそうに口をつぐんだので、大きく頷いた。そこを誤解されたら困る。
「出入りするようになってしばらくしてから、目つきがいやらしくなっていったんです。だからもう来ないでほしいと言おうとしたんですが、向こうはそれがわかったんでしょうね。その前に襲ってやらぁ! 最初からこれが目的だったんだよゲヘヘ! となったので、フライパンと包丁の二刀流で頑張りました」
「……そっか。アリスが無事で、よかった」
レネが褒めるように優しく腕をなでてくれたので、ほっとした。
このことを打ち明けたら、汚らわしいとか言われる可能性もあった。
レネはそんなことは言わない、ここにいる騎士さまたちはそんなことは考えないと思って口にしたのだ。
「……レネ様なら、わたしが悪いとか、汚いとか、言わないと思いました」
「そんなの、言うわけないじゃん! 悪いのは、その商人でしょ!? アリスは何も悪くないよ!」
「そんな風に怒ってくれるレネ様だからこそ、打ち明けたんです」
緊張が、体からゆるやかに溶けだしていく。
ノルチェフ家によくない印象を持たれるかもしれないことを言うのは、なかなか勇気が必要だった。
「その商人をやっつけたんなら、どうしてここにいるんだろ」
「逃げられたんです。縄で縛っていたんですが、隠し持っていた刃物で切られて、戻った時には、もう……」
あの時は、本当に悔しかった。
「家族は怒り狂って、その商人をどうにかしようとしたんです。でも、名前も所属していた商会も、全部嘘で……。顔と体格くらいしか手がかりがなかったんです。それに、わたしも一応は貴族の令嬢ですから、大事にするのは止められたんです。傷物だと広まるからって……そんなの、どうでもよかったんですけど」
わたしだけならね。
「そうしたら、足元を見て結婚しようとする無礼な人が増えるって言われたんです。ノルチェフ家の名にも傷がつくって。……手がかりはなく、奴を見つけられる可能性は低いのに、家族を好奇の目にさらして傷つけるだけなんて……その道は、選べなかった」
わたしはクズに慣れていたから平気だったけど、あの時の家族はそりゃあ取り乱していた。
父さまは普段は温厚なのが嘘のように怒り狂っていて、母さまはどうして気付けなかったのかと自分を責めた。
商人の本性に気づかなかった、同じ家にいたのに、もしわたしが反抗できなかったら……と考えたみたい。後悔しすぎて体調を崩し、病気が悪化してしまった。
姉離れしかけていたトールは、以前よりわたしにべったりになり、立派なシスコンに成長した。
「……商人の手口は、巧妙で、慣れていました。おそらく、今まで同じようなことをしてきたんだと思います。そして……今度はこの学校に来た」
誰かの手引きなのは間違いない。
「……よく、頑張ったね。言いにくいことをボクに言ってくれてありがとう」
「ロアさまたちには関係のないことなので、言うか迷ったんです。でも、学校で令嬢が襲われるかもしれないと知っているのに、黙っていることはできなくて……」
「アリスが言ってくれてよかったよ。これでボクたちも対策ができる。学校でそんなことが起こるかもってわかっているのに、自分たちには関係ないからって知らん顔できないよ」
力強い言葉が嬉しかった。
……レネは信用できる。信頼するべき人間だ。
「みんなが揃ったら報告するよ」
「奴のブツをちょん切りましょう」
「絶対にそうしよう。それにしても……」
一度言葉をきり、レネは複雑な顔をした。
「アリスがボクに相談してくれたのって、恋愛が絡んでないからでしょ?」
「はい。ほかの人を信用していないわけじゃないんですが、なんとなく相談しにくくて」
「だよね。密室で鍵までかけて平気な顔してさ。こうして頼ってくれるのも、全部それが前提。役得なんだか貧乏くじなんだか……」
ぶつぶつ言っていたレネは、ぱっと顔を上げた。
「どの程度まで、みんなに伝えていい? アリスが言いにくいことは隠しておくよ」
「全部伝えて構いませんよ」
「えっ……いいの? アリスはそれが原因で男嫌いになったんでしょ?」
あいまいに頷く。
誰にも前世のことを話していないので、家族はそれが原因で男嫌いになったと思っている。
結婚しなくていいと言ってくれるのは、あの事件があったからだ。
「できれば捕まえて、家族を安心させてあげたいんです。わたしは気にしてないのに、ずっと引きずっているので」
「……わかった。その商人の似顔絵とか描ける?」
描いた。笑われて、ボツになった。