自覚の前
「……アリスにとっては、聞きたくない、不必要な話だろう。軽蔑するかもしれない。だが、私はアリスに言わなければならない」
重なっていた手が優しく振りほどかれ、ロアさまは真剣な顔をした。
「私には……婚約者がいた」
遠慮なく頭を殴られたような衝撃だった。
目の前が、頼りなく揺れて歪む。耳から入る音が、ぐわんぐわんと反響して気持ち悪い。
「こ、婚約者、って……あの婚約者ですか……?」
「その婚約者だ。話せば長くなるが、最初から話さなければ伝わらないだろう」
いやだ、聞きたくない。
ロアさまが誰かと愛をささやきあって微笑みあうなんて、そんなこと想像したくない。
「彼女は、病気を患っていた。私の婚約者にならねば薬を渡さないと脅され、おそらく家族の命も人質にとられていた。だが彼女は、それを知ってなお、婚約を辞退しようとしていたのだ。私はそれを知り、彼女と婚約関係になった」
「……すごく、凛とした人なんですね」
「ああ。人助けと思って了承したのだが、後で責められた。弱点を作ってどうするのかと」
……人助けなんて、ロアさまらしいな。
「彼女と婚約したが、あまり仲がいいとは言えなかった。彼女に恋愛感情をもてば……いや、同情でさえ利用される。彼女の言った通り、自分から弱点を作ってしまった。だが、死を選ぶとわかっている彼女を見殺しになどできなかった。お互い冷たく接しているように見えていただろうが……私は、戦友のように思っていた」
穏やかな顔のロアさまに、少しほっとした。
学校に連れてきた騎士さまたちは、ロアさまの友達というより、配下に見える。ロアさまに友達がいてよかった。
「婚約者を変える動きもあったが、それは阻止した。そのうち、彼女と私の従者がお互いに想い合っていることに気が付いた。私のやるべきことがわかった瞬間だった」
組み合わせていた手に力を込め、ロアさまは力強く言いきった。
「ダイソンの罪を白日の下にさらした暁には、婚約を解消する。彼女と従者が結婚できるよう取り計らう。誰かの欲望のために、誰かが犠牲になるのは許されない。しょせん綺麗事だが、それでも……理想を口にしなければ、何を目指すというのだ」
下を向いていたロアさまは、不意に顔を上げ、わたしを見た。
真剣な顔をしたロアさまは、少し怖い。鋭くて、逃げることのできないオーラのようなものを浴びせられた感覚だ。
「そして、そこには私の幸せが入ってはいなかった。それを望んでいなかったからだ。私自身の幸福を含めると、難易度が上がるのだが、諦めずに足掻くと決めた」
「それがいいと思います。誰かが犠牲になるのは嫌なんでしょう?」
頷いたロアさまは、顔を曇らせた。
「……先ほど、連絡が来た。婚約者は行方不明になったことにしたと」
「えっ!? まっ、まさか亡くなって……!?」
「いや、生きている。居場所も知っているが、表向きには行方不明となった。しばらくして婚約解消となるだろう。婚約者の家族も、ダイソンに捕まって操り人形になることを恐れ、逃げるそうだ。反王派の件が解決すれば、何とかすることはできる。できるが……長らく続いた家門を、一時とはいえ手放す選択をさせてしまった……」
おそらく上級貴族のロアさまは、血筋が大切なんだろう。家を捨てさせたことを悔やんでいるみたいだ。
「……私的な意見ですけど、その方たちは、最良の選択をしたと思っているのではないですか?」
「そう、だろうか……」
「私の家族ならば、誰かの命が脅かされている時に、命よりノルチェフ家を選ぶことはしません。貴族として失格かもしれませんが……。その婚約者の方の場合、家門を捨てなければ自分たちが死んで、血が途絶えることも有り得そうです。その方たちは、家と家族を比べ、大事なほうを選んだだけではないでしょうか。子供を大切にしてきた家門ならば、ご先祖様も、文句は言わないと思いますよ」
しばらく考えたロアさまは、薄い笑みのようなものを顔に貼り付けた。
「家族を何より大切にしている家だ。きっと、家門よりも家族の命を取ったのだろう。だが……やはり、その選択をさせてしまった罪は重い」
「なら、さっさとダイソンをとっつかまえないとですね! そうすればその方たちは家に帰れて、命を狙われることもなくなって、家門を取り戻すことができます! 婚約者の方も、好きな人と結婚してハッピーエンドを目指せますね!」
目を丸くしたロアさまと見つめ合う。しばらくして、ロアさまは、おかしそうに笑い始めた。
「……ふ。ふふ。はははっ、そうだな。そうなれば一番いい!」
「そうなるように努力するんでしょう? ロアさまは努力の君ですから」
「そうだな。努力しよう」
ロアさまの手が伸びてきた。見慣れた姿より一回り大きな体は、わたしよりも大きい。
恐怖や嫌悪感はなく、驚きと共に、ロアさまに抱きしめられた。
わたしがいつでも抜け出せるようにゆとりをもって、丸みのない直線でできた体に抱擁されている。
……いい香りがする。わたしよりもいい香りがする。かたい胸板から、なぜいいにおいが……?
「アリスと話すと、いつも前向きになれる。きっとアリスがいつも前を向いているからだ」
「あ、ありがとうございます……?」
「私も幸せになれるよう、努力していいんだろう?」
「いいと思います……?」
「ははっ、さっきからなぜ疑問形なんだ」
「な、なぜかいい香りがするので……」
「衣類の管理をしてくれているクリスのおかげだな」
「そうですか……」
かろうじて返事はしているものの、何も頭に入ってこない。
クリスが帰ってくるまでの結構な時間を、抱きしめられて過ごした。その後のことは記憶にない。
これから年度末までじんわり忙しい日々が続きますので、更新が不定期になることもあるかと思います。
ブクマ、評価、コメントなどいつもありがとうございます!