繊細な乙女
まばたきも、呼吸もできなかった。
エドガルドの目も、声も、かすかに震える手も、すべて熱を持っている。
後で、この感情は思い込みや勘違いだったと、エドガルドが後悔する日が来るかもしれない。それを指摘するべきだろうか。
……でも、今のエドガルドを邪険にすることはできなかった。
「……突然、申し訳ありません。ですがこのままだと、いつまでもアリス嬢の弟のままだ」
頬を包んだままだった指が動き、頬をゆるくなでられる。愛しさをもって素肌にふれられるのには慣れていない。
「そんな顔もできたんですね」
エドガルドが嬉しそうに目を細める。
自分がどんな顔をしているか、考える余裕もない。わかっているのは、顔が真っ赤なことと、血液が体中をすごい勢いで駆け回っていることだけだ。
「……きちんとエドガルド様を見てくれる女性は、これからたくさん現れます」
「今のところアリス嬢しかいませんが」
「それは、たまたまです」
「偶然だろうと何だろうと、最初はあなたです」
初めては、どんなものでも忘れられなくて、特別になるのもわかる。ガツンと脳みそが揺さぶられるような感覚には、覚えがある。
「自分で言うのも複雑ですが、わたしの顔は平凡で、スタイルだってよくありません。実家のノルチェフ家は貧乏です。子爵だから身分差もあります」
「それらは諦める理由になりません」
「そ、うですか……」
わたしが勝手にエドガルドの気持ちを決めつけていいのかという気持ちが湧き上がる。
……そんなの、よくないに決まってる。エドガルドにとても失礼だ。
これは……わたしに恋愛感情を持つ人がいる事実を、信じられないだけ。好きだと言われたって、それを無条件に受け入れられない。
エドガルドはバルカ侯爵家の跡取りで、17歳と若くて、顔も性格もいい。そんな人が、どうして平凡なわたしを好きになるんだろう。
「突然で、信じられなくて……でも、わたしは」
「待って」
親指で唇をふさがれた。
わずかに、優しくふれているだけの指の感触で、言葉が紡げなくなる。
初心で可愛いと思っていたエドガルドは、意外と肉食だった。
「まだ……悪あがきさせてください」
端正な顔が、どこか悲しそうに微笑む。
「アリス嬢にとって、僕が恋愛対象になるまで頑張ります。そのあとは、選んでもらえるよう、さらに努力します」
親指が離れていって、エドガルドとの距離が遠ざかった。
ゆだるような熱量が離れて、ようやく呼吸ができた気がする。赤い顔を隠しながら後ずさろうとしたけど、後ろは壁だった。
3メートルくらいエドガルドと離れて、落ち着く時間がほしい。
「あ、あの……その」
赤くなってどもってばかりで、うまく話せない。
「今日はアリスの様々な顔が見れて、とても嬉しいです」
「か、からかわないでください」
「からかっていません。本心ですよ。信じられないなら、いくらでも言いましょう。……アリスが好きです。僕の最愛の人」
「もう信じました!」
今度はからかった証拠に、エドガルドが喉の奥で笑っている。
「本心ですよ。アリスが可愛いので、つい微笑んでしまうんです」
「……やけになっていませんか?」
「いいえ。ただ、遠回しな態度や言葉では、僕の気持ちは伝わらないと、腹をくくっただけです。曖昧なままのほうが平穏だったのでしょうが……戦う前に棄権することだけは出来なかった」
「はぁ」
気が抜けた返事をしたのに、エドガルドは咎めなかった。
「ふたりきりの時、アリスと呼んでいいですか?」
「……はい」
もう呼んでるじゃん、とは言わなかった。わたしだって空気くらい読める。
「返事は、僕があがいた後にください。ふたりきりではない時は、今まで通りの関係でいましょう。僕がどんなにアリスを好きでも、ここを出て反王派を一掃することを第一にしなくては」
ためらってから頷く。
「最後に教えてほしいんです。……僕に愛を乞われて、嫌ではなかったですか? 嬉しかったですか?」
即答できなかった。
混乱はやや落ち着いてきて、少しは動くようになった頭で考える。
エドガルドの告白が信じられないという気持ちより、どうしてわたしを好きになったのかという疑問のほうが大きくなっている。
エドガルドに変に期待させないよう、よくよく考えて、言葉を選んで舌にのせた。
「……嫌では、ないです。衝撃がすごくて、驚いています」
「アリスの熟れた頬を見られたのだから、悲観しないでおきます」
「それは……だって、こんなふうにされたら」
「では、学園に通っている令息に同じことをされても、同じ反応をするんですか?」
「うえっ」
思わず素直な反応をしてしまい、エドガルドが声を出して笑った。
「だから、僕は希望を捨てられないんですよ」
「見ず知らずの人とエドガルド様を一緒にできませんよ」
「そうですね。初めてアリスと会った日、そして僕の秘密が知られた日……あの時は、この学校に通っている令息と同じく、ただ同じ空間にいるだけでした。それから、これだけ変わりました。だから……」
エドガルドは言葉を切って、微笑んだ。
「もう寝ましょう。明日に響きます」
「あ……はい」
部屋まで送るという申し出を断って、足早に私室へ飛び込む。閉めたドアにもたれて、うるさい心臓を押さえた。
エドガルドのことは、弟のように思っていた。もしわたしに気になる人がいるのなら、それはエドガルドではない。
それなのに、どうしてエドガルドにこんなにドキドキするんだろう。
浮気はしたくない。でもこれは浮気ですらない。
「……心変わりもしたくないのかな」
好きな人に恋人がいても、その人がわたし以外の人と結婚してしまっても、死ぬまで一途に思い続けることは、おそらく出来ない。
ただわたしは……恋愛はもうしないと思っていた心に、わずかに芽生えたかもしれない感情を大切にしたいだけだ。
この感情が、受け入れられずに枯れるだけだとしても。
「……今夜は寝れないだろうな……」
繊細な乙女を気取っていたのに、ベッドに寝転がって、エドガルドのことを考えているうちに眠っていたらしい。
寝不足の目に、朝日が眩しかった。