新たな扉
「背筋を伸ばして、脚を組む! 少し気だるげに……そうです! ティアンネは左手の小指を立てる癖がありますよ」
「はいっ!」
ティアンネとは、わたしがなり切るご令嬢の名前だ。
甘やかされてきたちょっと我儘な他国の令嬢は、留学という名目で、この学校へやってきた。帰ったら政略結婚が待っているので、拗ねて少し荒れている。ティアンネの家名は伏せられているので誰も知らない。
というのが設定だ。
「ティアンネには三つの癖を作ってあります。それを完璧に行えば、疑う人間はほぼいないでしょう。ティアンネと深く関わっている人はいませんから。あとは、姿勢と立ち振る舞いですね……」
こればかりは、すぐに身につかない。
「私が使っていたコルセットを持ってきましょう。これは同じ姿勢を強制的に取らせるものです。これを着ければ、服から出ている部分に注意を払えばいいだけになるので、少しは楽になるはずです」
しばらくして戻ってきたクリスが持ってきたのは、コルセットというよりボディスーツだった。通気性のよさそうな黒い生地で作られており、さわると意外にも固かった。
デコルテの部分がないだけで、手首から足首まである。
……このボディスーツは、着るものを綺麗に見せるのではない。着た者をすべて同じ体型と姿勢にするのだ。
そんな威圧を感じる一品だ。
「私が着用していたもので申し訳ございませんが」
「いえ、ありがたいです。少しお待ちくださいね」
さっそく私室へ戻って、デイドレスの下に着てみる。
「あれ、少し緩い……?」
不思議に思いつつも着終わった途端に、きゅうっと締め付けられた。強制的に姿勢を正され、脚はきゅっとくっついて楚々とした佇まいになる。
慣れない感覚に苦労しながらデイドレスを着る。が、後ろのファスナーが上げられない。
このボディスーツは可動域が狭い……というより、いいところのご令嬢がしない動きは出来ないようになっているのだろう。肩より上に腕を上げることすら出来ない。
「駄目だ、孫の手でファスナーを上げられない……」
しばらく格闘して諦めた。
ボディスーツのおかげでちょこちょこと姿勢よく歩きながら、指先を意識してドアを開ける。
「着られましたか?」
「ドレスの後ろのファスナーが上げられません……」
「失礼いたしました」
少し慌てた様子でクリスがやってきた。ドアの陰でファスナーを上げてもらって、ようやく完成だ。
ドアを閉めてもらい、特訓の続きをする。ソファに腰かけ、ティアンネの癖と動きをたたき込み、また立つ。
これは学校でティアンネがする主な動きの流れだ。教室へ行き、自分の席に座り、授業を受けて帰
る。
できれば他の人の噂話を聞いたり、お茶会に参加してほしいらしいのだが、今までのティアンネが滅多にしていなかったので不審に思われるかもしれないことと、わたしの教育が追い付いていないので、追々ということになった。
「おはようございます……」
お昼前に、わたしの私室があるのとは反対方向にあるドアが開いた。
目をしょぼしょぼとさせたエドガルドが、やや寝ぼけまなこでやってきた。黒いシャツとパンツに、白いベスト。アーサーと同じ侍従の服装だ。
まだ成長する青年独特の、少し薄い胸板。すらっとしたパンツ姿は脚の長さがよくわかる。
「エドガルド様、おはようございます。眠れましたか?」
「おはようございます、アリス嬢、クリス。ぐっすり眠れました」
いつもと違う、ふんにゃりとした顔で微笑むエドガルドは大変に貴重だ。トールを思い出して、懐かしくなると同時に少し怖くなる。
トールは可愛い可愛い弟だけど、わたしに関してはちょっと壊れているところがある。学校で見かけても、話しかけないようにしよう。話したらバレるかもしれない。
「ようやく休めたのですから、もう少し寝ていてもいいのではありませんか?」
「もう十分です。それにしても、アリス嬢は一気にご令嬢らしくなりましたね。見違えました」
「口調も指導されていますから」
前は令嬢らしくなかったと、遠まわしどころか直球に言われてしまった。
「もしかして、以前のわたしは不敬だったでしょうか?」
「いえ、そんなことは」
エドガルドは何かに気付いたように顔を上げた。半分閉じていた目がぱっちりと開く。
「そんなことはありません! 僕は前のアリス嬢も好きです!」
「まあ、ありがとうございます」
しまった、言わせてしまった。
慌てるエドガルドに微笑んでみせる。
「ティアンネは少し意地悪なご令嬢なので、そう振舞えるように練習しているんですよ。エドガルド様、こちらへ来て、見ていただけませんか?」
「は、はいっ」
駆け寄ってきたエドガルドを、ティアンネらしく睨む。
「……いつまで立っているつもり?」
「もっ、申し訳ございません」
慌てて跪いたエドガルドの喉仏から顎のラインを、すうっと撫でる。
「わたくしが今ほしいものがわかって?」
ここでティアンネの癖、少し目を細めて首を左にかしげる! 左手の小指をたてるのも忘れない!
「お……お茶でしょうか」
「よくわかったわね。わたくしに給仕する褒美を与えるわ」
まだ顎に触れたままだった指先にわずかに力を込めると、エドガルドが察して顔を上げた。
「……こんな感じです。いかがでしたか?」
「あっ……その……とても、いいと思います」
エドガルドの顔がやや上気して目が潤んでいたのは、気付かないふりをしておこう。
……もしエドガルドの新しい扉が開いていたらどうしよう。責任が取れない。最初からこういう性癖だったと思いたい。
助けを求めてクリスを見ると、とてもいい笑顔でにっこり微笑まれた。
……助けを拒否された。
「エドガルド様、朝食はどうしますか? わたしはもう少ししたら昼食を食べますが」
「あ……いただきます」
名残惜しそうなエドガルドのことは、気付いていないことにした。
開いてしまいました。