マッサージ
のどが渇いて目が覚めると、もう午後のお茶の時間だった。気だるさのなかで寝返りをうって、うとうとと二度寝との境をさまよう。
「起きなきゃ……」
わたしが起きてもなにが出来るかはわからないけど、お茶を淹れたりご飯を作るくらいは出来る。
ベッド横のテーブルに水差しが置いてあったので、ありがたく頂くことにした。冷たい水とあたたかいお茶が、それぞれ魔道具の水差しに入れてある。
何杯かおかわりをしてのどを潤してから、浴室を覗いた。
よかった、誰もいない。いまのうちに顔を洗ってしまおう。
「……あれ? これってデイドレス?」
吊るされていたのは、サーモンピンクのドレスだった。
スカートの部分に薄布が何枚も使われていて、ふんわりと広がっている。襟元には緻密な刺繍と、極小の宝石が散りばめられている。袖口には、薔薇の飾りボタンがつけられていた。
ドレスの前にメモが置いてある。
「ノルチェフ嬢へ。こちらのデイドレスを着てください。化粧品はご自由にお使いください」
ご丁寧に、ドレスを着るときの孫の手まで置いてくれている。
「このメモはメイドさんが書いてくれたのかな? 可愛いうえに気が利くなんて、すごいなぁ」
高そうな服を着るのは怖いけど、ネグリジェで出るわけにもいかない。
顔を洗って、軽く化粧をする。
新品の化粧品だったので使うのをためらったけど、逆の立場だったら新品を用意するので、ありがたく使わせてもらうことにした。
いつもは薄化粧だけど、気合いを入れて濃いめにメイクする。ばっちりアイラインは、自分を奮い立たせるための鎧だ。
そうっとドアを開けてリビングを覗くと、アーサーが座っていた。
黒を基調とした、侍従の服を着ている。黒いシャツとパンツに、白いベスト。太い紐のような金色の刺繍糸で、全体的にふち飾りがされている。
シンプルだからこそ、アーサーのスタイルと顔の良さが存分に発揮されていた。
「おや、ノルチェフ嬢。休めましたか?」
アーサーの顔色があまりよくない。いつもは綺麗に整えられている髪が、やや乱雑にかき上げられている。
「おかげ様で、ゆっくり休めました。アーサー様こそ……」
休めたか聞こうとして、言葉が不自然に消える。アーサーはたくさん動いてくれていた。
代わりがいない存在だから、休めないのだ。
「休むよう言われたのですが、気が高ぶってどうにも寝付けなくて」
苦笑したアーサーは、脚を組み替えた。
「楽観するのは得意ですが、ひとりだと……いろいろ考えてしまいます」
これからのこと、これまでのこと……それに、シーロも見つかっていない。わたしの何倍も不安なはずだ。
「すこし待っていてくださいね」
浴室へ行き、何個かタオルを取って、水で濡らす。それをキッチンへ持っていき、ここにもいた下ごしらえくんに温めてもらった。
熱々なタオルをトレイに乗せて戻る。
「アーサー様、長椅子に横になってください。少しでも休まないと、パフォーマンスが落ちますよ」
「それは……確かに、そうですね」
優雅な曲線を描く背もたれとひじ掛けに手をかけ、アーサーが横たわる。長椅子の近くに合ったソファに座り、テーブルにトレイを置いた。
「目の上に、ホットタオルを置きますね。熱いと思いますが、すこし我慢してください」
目にかかる前髪を、素肌にさわらないように、そうっとどけてタオルをのせる。
「ああ……これは、気持ちいいです」
「でしょう? 冷たくなってきたら、あたたかいタオルと代えますね」
ここでマッサージでも出来たらいいんだけど、疲れていそうな脚や腰を、令嬢が揉むのはよろしくない。
貴族のご令嬢がさわってもいいところ……。
「そうだ! 手のマッサージでもしましょうか。手を触られるのは嫌ですか?」
「まさか。光栄ですよ」
「痛かったら言ってくださいね」
タオルをあたたかいものに取りかえて、アーサーの手を取る。曖昧な知識でツボを押していくうちに、アーサーの手から力が抜けていった。
「なんて心地良いんだ……」
「それはよかったです」
アーサーはずっと斥候をして、途中からわたしを抱えて走ってくれた。いまは少しでも休んでくれればいいと、そう思う。
皮膚がかたく、厚くなっている大きな手を揉む。しばらくしてアーサーの寝息が聞こえてきて、揉んでいた手を静かにお腹の上に置いた。
もう片方の手も揉んでいるうちに、眠たくなってきた。
ここには、わたしとアーサーしかいない。勝手に動き回るのはよくないが、暇をつぶせるものはない。
……情報がほしい。どうなっているか知りたい。
焦る心をなだめて、長椅子の背もたれに寄りかかった。
「母さま、父さま。トール……どうか無事でいて」
祈る気持ちで、家族の名前をつぶやく。
大丈夫と言ってくれたロアさまの言葉を疑うわけじゃない。自分の目で家族が無事だと確認するまで、不安なだけ。
のんびり過ごしていた下級貴族の我が家が、いきなり反王派の争いに関わることになってしまった。
証拠を掴んでみせると言ったけれど、自信はない。これからどうなっていくんだろう。
落ち込みかけたところで、ぶんぶんと頭を振った。
「……ううん。わたしはロアさまを信じる。わたしの大切な人たちも、ロアさまを信じてる。それにロアさまは、わたしを安心させるために嘘をついたりなんかしない」
状況が悪かったら、はっきり言ってくれるはずだ。
目を閉じると、家族の顔が浮かんだ。きっと、大丈夫。ハッピーエンドを信じよう。
「ノルチェフ嬢。起きてください」
ゆっさゆっさと体を揺さぶられ、まどろみから浮上する。長椅子の背にもたれ、いつの間にか寝てしまっていたみたいだ。
「アーサー様……。寝てしまってすみません」
「お疲れでしょう。今晩もゆっくり眠れそうですよ」
「アーサー様も、少しすっきりした顔をしていますね。よかった」
笑うと、アーサーはなぜか目を見開いた。
「そのような笑顔は初めて見ました。寝起きのノルチェフ嬢は可愛らしいですね」
「恐れ入ります」
リビングで寝てしまったのを、からかわないでほしい。
つんとすまして顔を背けると、アーサーはおかしそうに笑った。
「そろそろ、みんなが帰ってきます。ノルチェフ嬢の寝顔を見るのは私だけにしたかったので、起こしてしまいました」
「では、さきほどのアーサー様の寝顔も、わたしだけの秘密にしておきますね」
言い返すと、アーサーがちょっと驚いてから笑った。アーサーがこれだけ笑顔ということは、学校は安全だと確信が持てたのかもしれない。
洗面所の鏡で寝起きの顔をチェックをしていると、誰かが帰ってきた気配がした。どんなことがあったかはわからないけど、せめて笑顔で迎えたい。
「みなさん、おかえりなさい! お疲れ様でした」