建国祭~陽炎~
「申し訳ございません、部屋を間違えました」
言ったあとに、ここは部屋じゃなくてバルコニーだと思ったけれど、口に出してセルフツッコミする余裕はない。
「待ってくれ」
どこかを掴まれたわけではないのに、声だけで動きが止まる。逃げ腰のへっぴり腰のご令嬢らしくない姿勢なのに、動けない。
「楽にしてほしい。私がノルチェフ嬢と話したいと願ったんだ」
腰が痛いので、言葉を素直に受け取って立つことにした。視線を合わせられないので、失礼にならないようにやや下を見ているのだけれど、これも失礼だったかもしれない。視線の先が鍛えられた胸板だ。
「座ってくれ」
促されるまま、バルコニーに置いてあった一人用のソファに座る。2メートルほど離れたソファに王弟殿下も座ったのを確認して、こっそり息を吐く。座って正解だったみたい。
ソファはまっふりとした柔らかさだ。ロアさまの息抜きに付き合ったときに座ったソファを思い出す。王弟殿下が座るソファに似ているってことは、あれも高級だったんだな。
「ノルチェフ嬢、まずは謝罪と感謝を。急に呼び出してすまない」
「王弟殿下……が謝罪することはございません!」
「名乗るのもまだだったな。私はライナス・ロイヤルクロウ。ああ、座ったままで構わない」
相手は本当に王弟殿下か? という動揺が伝わったらしい。
王弟殿下は気にした様子もなく、むしろ楽しそうだ。そりゃあ「こいつは王弟殿下か?」と疑われつつ慌てられることはないだろう。王弟殿下が接する人は、みんな自分の顔を知っている。
バルコニーの端と端に置かれたソファは向かい合って置かれてはいるけれど、顔はよく見えない。間にあるガラスのドアから漏れる光が眩しくて、それに目がくらむ。光を越えて顔を見ようとしても、王弟殿下が暗がりにいるように感じられて、よく見えない。
「薬の件だ。そなた達家族から手紙をもらい、非常に励みになった」
「そ、それは恐悦至極でございます」
「騎士団にいるときのように、のびのびと話してほしい。私はただ、ノルチェフ嬢と話したいだけなんだ。不敬だと罰したりしない」
「……罰がご褒美だとか、そういう……」
「それはない。この場で何が起ころうとも、決して何もしない」
王弟殿下の、抑えた低い笑い声が響く時間が過ぎる。なんだこれ。
「以前、同じようなことを言われたことがある。その人は、その時も至極真面目に言っていたのだな」
返答に困っていると、笑いの波が去った王弟殿下が、いい声で話し始めた。
「純粋に喜びを綴ったのは、そなた達の手紙だけだった。それが嬉しかったのだ」
王弟殿下の声にはわずかに苦悩がにじみ出ている。
わたしたちは母さまが今も生きているから喜べるけれど、もし母さまが亡くなってから特効薬の支援が告げられたら、もっと早くしてほしかったと思わずにはいられないだろう。そんな心ない言葉や、支援自体にも何か言われたのかもしれない。
「……きっとわたくし達の家族以外にも、喜んでいる者は大勢います。王弟殿下まで声を届けられないだけで、本当にたくさんいます。絶対に。だってわたくし達家族は、王弟殿下が支援してくださると知った日から、毎日希望を持って過ごしています。いくら感謝しても足りることはありません。本当にありがとうございます」
「そう……だろうか。私が出せるのは、わずかな金銭だけだ」
「その少しのお金で出来ることが増えるのですもの。少しでも救える命が増えるのなら、それはきっと、絶対にいいことです。と存じます」
「ふっ、ははっ。かしこまらなくていい。私は、今のノルチェフ嬢を好ましいと感じる」
いまの笑い方、誰かに似ている。あたたかくて優しくて、わたしを無条件に助けてくれるのではなく、辛いときに支えてくれる人。
「ありがとう。その言葉でまた頑張ることが出来る。……ところで、そのドレス、よく似合っているな」
「ありがとうございます」
自分で明るい色を選ぶのはなんとなく抵抗があったが、ロアさまのおすすめならばと思いきって選んでよかった。意外にもわたしは、レモンイエローが似合う顔だったのだ。
「誰かに贈られたのだろうか?」
ロアさまの名を出そうとして止まる。王弟殿下とロアさまは知り合いだと聞いたけれど、どれほど親しいのかわからない。
「……名を知らない方にいただきました」
「え?」
しまった、言い方を間違えた。
「お互いに愛称のようなもので呼び合って……おらず、わたくしだけ愛称で呼んでいる方がいるのですが、その方からいただきました」
王弟殿下は何とも言えない顔をした。さすがに自分でも説明が下手すぎるとわかっている。これではロアさまが不審者になってしまう!
「とてもいい方なんです。不審者じゃありません。努力家で、それをひけらかさない優しい方なんです」
「……そうなのか。ノルチェフ嬢は、その者を大切に思っているのだな」
「はい!」
王弟殿下はそれ以上何も言わず、ただ黙ってわたしを見ていた。と思う。暗くてよくわからなかったけれど、姿勢は崩さないでおいた。
「残念ながら時間だ。そのドレスと靴は、ノルチェフ嬢に本当によく似合っている。それを選んだ者も、ノルチェフ嬢を大事に思っているのだろう」
さっと立ち上がった王弟殿下は、意外にもわたしに優しい眼差しを向け、光のカーテンの中に消えていった。
「また会いたい。それまで息災で」
声をかける間もなく、王弟殿下は行ってしまった。しばらくぼうっとカーテンを見つめていると、後ろから抑えた声が聞こえた。
「アリス、ボクだよ。大きな声は出さないでこっちに来て」
「もしかして、レネ様?」
「うん。こっち」
わたしが座っていたソファのさらに後ろの暗がりに、こっそりレネがいた。
「レネ様、どうしたんですか? お腹痛いんですか?」
「違うよ。今から人目に触れずアリスをここから移すから、ついてきて」
バルコニーは地面から1メートルほどの高さがあったが、途中に足場があり、レネに助けてもらいながら地面へ降り立った。こんなアクロバティックにパーティ会場から退場って有りなの?
「ボクと散歩してたように見せかけて。誰に聞かれてもそう言ってね」
「はい」
レネにエスコートしてもらいながらしばらく歩くと、王城で有名な薔薇園が見えた。パーティ会場から離れた端っこだけれど、これで道なき道を歩いている不審者だと思われない。
ずっと緊張しっぱなしだったので、体から力が抜ける。
「大丈夫……じゃないよね。お疲れ様。よく頑張ったね」
支えてくれたレネにお礼を言って、低い生け垣を乗り越えて薔薇園へ入ろうとした時、くぐもった声が聞こえた。
「……首尾は」
「滞りなく」
レネは素早くわたしを抱きかかえ、そっと近くの茂みに隠れた。わたしを押し倒し、上にレネがかぶさってくる。耳元でもよく聞こえないほど抑えた、レネの緊張しきった声がした。
「動かないで。できるだけ気配を消して。見つかったら消される」