ぎゃふん!
クリスの特訓は、本当に大変だった。貴族学校の時の比じゃなかった。
表彰式に出てもわたしが恥をかかないようにしてくれているのはわかっているから、こっちも必死だった。
今まであまり覚えていなかった貴族の顔と名前を覚え、歩いたり笑顔の練習をしながら、とにかく毎日頑張る。
「お嬢様は貴族について疎いようですが、覚えないとお嬢様が困ってしまいます。ライナス殿下のお顔も存じ上げないようでしたし」
「さすがにもう知っていますよ! 見たことのあるロアさまの肖像画は、もっと幼い頃のものだったから、ロアさまの正体になかなか気付けなかっただけで……」
「確かにライナス殿下の肖像画は少ないですが、それでもこの国に住む貴族として知っておかなければなりません」
「はい……」
「お嬢様は、人の顔と名前を一致させるのが苦手なご様子。しかも、顔が整った男性はさりげなく目をそらしていますね?」
「……もう、大丈夫です。騎士さまのおかげで、きらめいている顔にはかなり慣れました!」
「その調子です」
表彰されるまでの一連の動きをとにかく綺麗に見せる! 誰かに話しかけられた時は黙って微笑む! すぐに口を開いてボロを出したりしない!
夜はよく寝て肌荒れしないよう気をつけながら、クリスとふたりきりの時間は過ぎていった。
「クリス、わたしの結婚のことですが……」
「コレーシュ陛下からうかがっております。お嬢様を狙う者は多いでしょうが、お嬢様が嫌がる輩には決して触れさせませんのでご安心ください」
「……わたしが望めば、誰とでも結婚できると思いますか?」
「はい。国内でしたら、コレーシュ陛下と既婚者以外なら誰とでもできますよ。コレーシュ陛下は側室をもたないと明言されておりますので」
「釣り合わないとか、分不相応とか……」
「お嬢様のお相手に、その言葉が合う方はいらっしゃるかもしれませんね。お嬢様はご自分で思うより、ずっと偉大なことをしておりますよ」
「……相手が、ロアさまでも?」
これを言うには、だいぶ勇気が必要だった。喉の奥が緊張できゅっと締め付けられ、呼吸が浅くなる。
クリスは何も言わず、やわらかに目を細めた。
「ライナス殿下がお相手でも、です」
コレーシュ陛下には、わたしが誰と結婚しても問題ないと言われたけれど、気になるものは気になる。
存在さえ知られていなかった下流貴族のわたしが、随分と偉くなったものだ。
いやでも、ロアさまの気持ちをはっきり聞いたわけじゃないし! 心変わりしているかもしれないし!
「うっ……!」
「お嬢様、どうなさいました?」
「大丈夫です……」
ロアさまが誰かを好きになって仲睦まじく並んでいるところを想像するだけで、かなりのダメージだ……!
自分で勝手に想像して、勝手にショックを受けている!
「とにかく今は表彰式のことを考えるのみ! そういえば、表彰式にキャロラインは来るんですか?」
ロアさまのことを無理に頭から追い出し、気になっていたことを聞く。
キャロラインは大事な情報を教えてくれた。モーリスの居場所を教えてくれたからこそ捕まえることができ、ダイソンを牢屋に入れることができた。
「キャロライン嬢は表彰を辞退されたそうです。本格的に情報屋を始めることにしたのに、表彰されそれが知られてしまうと、もう情報屋などできませんから。キャロライン嬢は、褒賞すら必要なく、ライナス殿下と関わったことを知られないのが一番の褒美だとおっしゃいました。陛下はキャロライン嬢の意志を尊重し、本当に何もなさいませんでした」
「キャロラインにとっては、それが一番の褒賞なんですね」
「ええ。ですが表彰式にはいらっしゃるので、初対面のふりをして友人になるのがよろしいかと」
「変身の魔道具を使っていない状態でキャロラインと会うのは、初めてです。そうですよね、また友達になればいいんですよね」
キャロラインに会えると思うと、元気が出てきた。しばらく会っていない友人たちにもきっと会えるはずだ。
「あと少し、頑張ります!」
「かなりよくなってきています。表彰式まで頑張りましょうね」
「はい!」
それから筋肉痛になったり、情報をつめこみすぎて頭痛に苦しんだりしながら、表彰式の日を迎えた。
今日着る礼服は仮縫いしかしていなかったのだけど、スーパーメイドのクリスがいつの間にか受け取っていて、本縫いまで終わらせてしまった。
きれいにお化粧をしてくれ、髪も複雑に結いあげながらハーフアップにしてくれた。王妃様からお借りしたネックレスと、それと対になっている髪飾り。
服から出ている部分には粉がはたかれ、白く艶めく肌になった。光を反射して控えめにきらきらと光るのだそうだ。
今日のクリスは男の姿だ。わたしとお揃いの色の礼服を身にまとい、長い金髪を後ろでひとつに結んでいる。
この姿のクリスにも慣れたつもりでいたけど、自分の長所をきっちりと理解しているクリスがめかしこむと、きらめきで目が痛くなる。
「お嬢様……いえ、アリス嬢。本当によく頑張りました。今のアリス嬢ならば、表彰式に出てもご立派にふるまえるでしょう。ここからは私以外も護衛がいますので、ご安心を」
ほぼひと月、ふたりでずっとこの部屋に閉じこもりきりだった。クリスには本当に多くのことをしてもらった。
「クリス、ありがとうございます。ずっとふたりきりで、物覚えのよくないわたしに教えるのは大変だったでしょう。貴族学校の時も、今も、クリスがいなかったらどうなっていたか……」
「その時はきっと、ご自分でなんとかしていたと思いますよ」
「無茶を言わないでください」
ふっと微笑んだクリスにぎこちなく微笑み返して、背筋を伸ばす。歩くと、ヒールが床を蹴る音がした。
「さあ行きましょう」
クリスがドアを開ける。
その向こうには、わたしの礼服と同じ空色が広がっていた。
「ロアさま……! それにみんなも!」
ロアさまを筆頭に、アーサー、エドガル、ロルフ、レネが勢ぞろいしていた。
驚くわたしを、みんながいたずらが成功したとばかりに笑って見ている。少し痩せたように感じるロアさまが、ちかちかと光る星を目に浮かべ、子供のように笑って手を差し伸べてきた。
「ご一緒してもいいですか、レディ?」
さっきまでガチガチに緊張していた体が、適度にほぐれていく。自然と笑みが浮かんだ。
「エスコートされるのは、すごく上達したんですよ」
「それは楽しみだな」
「ぎゃふんと言いますよ、きっと」
「ぎゃ……ふん?」
ぎゃふんを知らないロアさまの腕に手を置く。さっそくドレスの裾が邪魔になったけれど、クリス直伝の笑顔で歩き出す。
笑いをこらえた声が、後ろからさざなみのように聞こえてきた。
「……わたし、ぎゃふんと言ったほうがいいですか?」
「言わなくて構わないさ。さあ、一緒に行こう」
「表彰式が始まるには、まだ時間があるのでは?」
「時間に余裕はあるが、控室にいるのは危険だ。表彰式まで安全な場所にいよう」
これから控室に行って最終確認をすると考えていたのだけど、違ったようだ。
久しぶりに見たロアさまの笑みがあまりに眩しくて、とっさに目をそらす。後ろからクリスの鋭い視線が突き刺さったので、さりげなく前を向いた。
「アリスが変わらなくて安心したよ」
……ロアさまの声は安心したものだったけれど、わたしとしては不甲斐ないばかりである。
みんなで周囲を警戒しながらたどり着いたのは、非常に立派な部屋だった。
ずっと引きこもっていた部屋の外もかなり上流貴族向けのものだったけど、ロアさま達がいた驚きで、周囲を見れていなかった。
クリスに椅子を引いてもらって座り、さりげなく部屋を確認する。わたし達以外誰もいない、豪華だけど静かな部屋。
わたしだけ、ここがどこかわかっていないようだ。
「ロアさま、ここはどこでしょう?」
「ここは王妃の宮殿だ。アリスはずっとこの宮殿にいたんだ」
「なっ……」
なんだってーーー!!?