不思議空間
「……それ、何だい?」
モーリスの第一声は、ちょっと引き気味だった。
「屋台です! これは素晴らしいですよ! コンロがふたつと簡易流し台がついてるんです! 作業台は広めで、ものを置くところも多い! 何よりボタンを押したら自動できれいにしてくれるっ……! 油汚れも! 床に落ちたソースも! このボタンさえあれば怖くない! これが格安で借りられるなんて、バルカ領はすごいですね!」
この屋台は本当にすごい! バルカ領に屋台が多い理由がわかる! わたしも、最初は屋台から始めようかなぁ!
「……それでカリーを作るのかい?」
初めて見たモーリスのちょっとドン引き顔に、こほんと咳をする。この屋台のすばらしさを語ってしまったけど、貴族で男性のモーリスにこの良さがわかるはずがない。
「わたしが泊まっている宿でカリーは作れないので、借りてきました! ここからちょっと行ったところで作っていいと許可がもらえたので、そこに行きましょう」
いつも話している広場から、目的地へ移動する。
そこにはたくさんの騎士さま達が隠れていて、モーリスを捕まえてくれる手はずになっている。
ここにいるのは、ロアさまとシーロとエドガルド。研究所にいるのは、アーサーとレネとロルフだ。
研究所にはすでに忍者夫婦が忍び込んでいて、自爆装置を優先的に解除してくれているはずだ。あと三時間、頑張ってねばるぞ!
モーリスに歩くのが遅いと言われながらたどり着いたのは、市役所的な建物の近くにある、小さな空き地だった。
昔、土地の所有でもめた結果小さな土地が余ったが、小さすぎるので購入する人がいないままらしい。
人が住んだり店をするには小さすぎる、微妙な大きさだ。貴族学校のトイレより小さい。
二畳くらいはあるから、寝るだけはできそうだけど、ここらへんは土地が高い。ちょっと行けば、同じ値段でもっと大きな土地が買える。みんな同じことを考えたんだろうな。
「屋台は入ったけど、ぎりぎりですね……。申し訳ないですけど、屋台の中で作るところを見てもらえますか?」
屋台が空き地に本当にぴったりと収まったので、屋台の外で見るにはモーリスが潰れるしかない。
「……まあ、仕方がないね。だけど僕にはマリーアンジュがいるから」
「ヒッ! 気持ち悪いことを言わないでください!!」
「えっ……でも、僕にはマリーアンジュが」
「だから何ですか!? わたしがあなたに惚れるとでも思ってたんですか!?」
「……違うのかい?」
「うっ……!」
……気持ち悪い。本当に気持ち悪い。
両手で口を押さえる。ちょっと吐きそう。
確かにモーリスの顔は整っているけど、わたしはイケメンは苦手なのだ。
この男がモーリス・メグレだから、ダイソンにつながるから話しているだけだ。そうでなきゃ一目散に逃げている。
「……そんなに嫌がる?」
しょぼんとしながらこっちを見てくるモーリスから逃げそうになって、必死にこの場にとどまる。
……わたしは、ロアさま達のために、自分ができることをする。
モーリスをこの場にとどめておくのは、わたしにしかできないことだ。吐き気なんて気にしない! なんとかなる! ひどい乗り物酔いの時よりはマシ!
「本当に嫌なので、もう言わないでもらえます? あなたに惚れるだなんて、何があってもありませんので」
「それはそうだね。僕も有り得ない」
「ですよね? だから、そんなこと言わないでください。カリーが作れなくなります」
大きなステップに軽々と脚をのせ、モーリスが屋台の中へやってきた。大きいから威圧感がすごい。
この狭い場所でモーリスに殺意を持たれたら、ロアさま達が来る前に死んじゃうだろうな。
「まずは、わたしが一番好きなカリーを作っていきますね。ちょっと時間がかかりますから、座っていてください」
木でできた簡素な椅子を出すと、モーリスはしげしげとそれを眺めた。
「これ、椅子かい?」
「そうです。クッションはいらないと言われたので、用意していません」
「……そういう意味で言ったんじゃないけど。まあ、座るよ」
「借り物なので汚さないでくださいね」
「……これ、本当に椅子なの? 固すぎるよ」
「我慢してください」
鍋をコンロに置いて、バターを入れる。バターが溶けるあいだに、昨日用意しておいた玉ねぎを取り出した。
下ごしらえくんにチンしてもらっていたものだ。それを鍋に入れて炒めると、いいにおいが漂った。
おっと、しょうがとかを入れるのを忘れてた。これ、多分テンパってるな。
少し落ち着くために、目を閉じて深く息を吸う。
わたしには人の気配なんて感じ取れない。わからないだけで、危ない時には絶対に助けてくれる存在が近くにいる。
みじん切りにしたニンニクとショウガ、クミンシードを加えて混ぜる。
ちょっと炒めれば、多少の順序なんて関係なくおいしい香りと音がしてくる。すべてを包み込む、それがカレーだ!
「いい匂いがしてきましたね」
「そうだね。でも、カリーの香りではないよ?」
「それは今からです」
時間を引きのばすために、たっぷり時間をかけて玉ねぎを炒める。
意外なことにモーリスは文句も言わず、黙って鍋を見ていた。後ろに立たれて、ズオオオッという感じで覗き込まれるのは、かなり嫌だ。
嫌だけど、そうは言えない。たぶんモーリスは、毒を仕込まれるんじゃないかと疑っているから。
自分がしていることは、他人もしているって思うよね。
だが残念、こっちはただ捕まえるだけなのだ! わたしが作っているのはただのおいしいカレー!
「楽しそうだね」
「えっ? ああ、すみません。いいにおいなので」
「女性は、香水とか花の香りを好むんじゃないの?」
「わたしもそういうのは好きですけど、炒めた玉ねぎの匂いも好きですよ」
「……そう」
玉ねぎが飴色になったので、ここでトールとマリナが作ってくれたカレー粉を加える。
一気にカレーの匂いになったので、モーリスが驚いている。
カレー粉が混ざったら、昨日湯むきしてカットしておいたトマトをどっさり入れる。
少し水気がなくなってきたので、昨日ヨーグルトに漬け込んでおいた鶏もも肉を、ヨーグルトごと入れた。ちょっと混ぜて様子を見てから水をくわえ、火を弱める。
「これから煮込みます」
「どれくらい?」
「一時間くらいですね。そのあいだに、ほかのカリーを作っていきます!」
時計を見ると、モーリスと会ってから一時間くらい経っていた。
最低三時間、ということは、もっと伸ばせたら、それが一番ってことだ。もちろん、不自然にならないようにしなきゃいけない。
「これはカリーの香りだ。すごいね、本当に作れるみたいだ」
「何言ってるんですか、本当に作れますよ。ちょっと一息つきますね」
モーリスと並んで座って、冷たいジュースを飲む。不思議空間すぎるよなあ……。