エドガルドの道3
「……長くなるが、私の話を聞いてもらえないか。もちろんライナス殿下はお部屋でお休みいただいて構いません。愚かな男の戯言ですから」
「イアンさえよければ、聞かせてくれ」
「……かしこまりました」
……あの父が、しおしおとしている。僕より大きく、力が強く、当主である父が。
絶対に適わなかった存在が、今は小さく見える。
……いつの間にか、父の背を追い越していることに気がついた。
第四騎士団に所属するためにこの家を出た時から、一年ほど経った。その間に、父は変わったというのだろうか。
「……私は後悔していた。エドガルドに、自分の叶わなかった夢を押し付けていることを。心の奥底では……間違っていると感じていたのだと思う。それを認めるのが怖かったのかもしれない」
「そんな……間違っていると思いながら、僕にあんなことをしたのですか!」
「……そうだ」
「ふざけないでください! 間違っていると思うのなら、どうして……いまさら、どうして!」
魂の叫びが口から吐き出された。泣きそうな声なのに、瞳はやけに乾いて父をにらみつけている。
もっと早く、祖父の真似をさせるのをやめてほしかった。
そうすれば、こんなに苦しまずに済んだのに!
衝動に任せて、父の胸に拳を叩きつける。
「ぐふっ……!」
「っ、あ……すみ、ませ……!」
「い、いい。気にするな。こうされて当然なのだから」
僕の痛みはこんなものではないのに、痛みに顔をゆがめる父に、罪悪感が押し寄せてくる。
祖父が立ち上がって移動し、父の背中をなでた。労わるような……どう接すればいいかわからない、不器用な手。
「……すまぬ、エドガルド。すべては私が原因だ」
「やめてくれ! あんたにそうされると、私もそう言わなければならない! すべての原因は私にあるのだと! やめてくれ!」
……父の悲鳴のような声を、初めて聞いた。
祖父は口を開けては閉じ、結局はなにも言えずに唇を噛みしめた。
「……口をはさんですまない。イアンの考えを……イアンの人生を、聞かせてくれないか。このままでは何もわからない」
「ライナス殿下……そう、ですね。かしこまりました」
父はすっと背筋を伸ばし、一瞬胸の痛みに顔をしかめてから話し出した。
「……私は幼い頃から、グリオンのようであれと言われ続けていました」
「なっ! 私も妻も、そんなことを言ったことはない! むしろそうしなくてもいいと言い続けたはずだ!」
「言ったのは家庭教師と使用人です」
「なんだと……!?」
「私が当主になった時、家から叩きだしました。家庭教師にも相応の罰を与えています」
「そう、か……。して、誰だ? 大丈夫だ、殺さないぞ」
「その話は後ほど。……私は、グリオンになれないと価値はないと言われ続けました。両親にそれを否定されて愛情を注がれても、そのすぐ後に使用人に、そんなわけがないだろうと言われました。イアンを愛していないがそう言ってやらないといけない、面倒くさいと、父が言っていたと……」
……父に、そんな過去が。
想像してもいなかった告白に、心臓がドッドッと嫌な音をたてる。
「グリオン・バルカのようにならなければ捨てると。もちろんそれを悟らせてはいけないと、父が言っていたと。それをこっそり教えたのだと、使用人は言っていました」
「そんなことは一度も言ったことがない!!」
「……はい。今はそう、思います。けれど小さい頃は……それが、真実でした」
貴族の子供は、両親よりも使用人や家庭教師と接する時間が多い。その時間がすべて洗脳に費やされていたとしたら……。
「ほかの貴族にも同じようなことを言われることがあった。だからみんな、私にグリオン・バルカを求めているのだと思った。本当は、何度も……何度も、両親に尋ねようと思った。私を愛しているのかと。私が出来損ないなら捨てるのかと。だが……だが、肯定されたらと……思うと……」
「イアン!」
たまらなくなった祖父が、力強く父を抱きしめる。ぼきっと嫌な音がしたのに、父は抵抗しなかった。
「今も昔も、生まれた時から……いや、愛しい妻のお腹に宿った時から! イアンは私たちの一番の宝物だ! 愛している!」
「……この、言葉を……聞くために……」
父の声の輪郭が滲む。
「随分……時間がかかってしまった……。母はもういないのに……」
「何を言う! 妻は今もイアンを見守っている! 今こそ、妻の死に際の言葉を伝えよう」
「母上の言葉……?」
「私の拳は、死してなお固い。以上だ」
「……ん? え?」
「覚えているだろう、あの鉄拳を」
待ってくれ、祖母はファイターだったのか?
客人や父から語られるのは、優しくはつらつとした祖母だったのに。祖父も父も、祖母に殴られたことがあるような口ぶりだ。
「あの拳は覚えてるけど……え? それが最期の言葉?」
「イアンが間違ったことをするのならば、死んだあとであろうと殴る。そういうことだ」
「確かに殴られそうだけど。幸せだったとか、息子が心配だとか、そういうことを言ったんじゃなくて?」
「妻が幸せなのはゆるぎない事実だ。わざわざ口にすることもあるまい。イアンのことも心配していなかった。イアンならば大丈夫だと。ただ、自分の死を悲しまないでほしいと願っていた」
「そんなの……無理だ……」
「イアンはまだ妻に殴られていないのだろう? ならば、頭を、背中をなでられているはずだ。春の風に、夏の陽射しに、秋の雨に、冬のにおいに。毎日、ずっと、絶え間なく。イアンは愛に包まれている。生まれる前から、ずっと」
父はしばらく顔を上げなかった。
ようやく祖父の腕の中から出てきたときは、鼻も目も赤かったが、誰もなにも言わなかった。
「……このような姿をお見せして、申し訳ございません。話を続けます」
ちょっぴり鼻声の父は、最後に流れた涙をぬぐった。祖父が離れないため、抱きしめられたまま話すようだ。
「自分自身のあり方に疑問を持ったころ、妻と出会いました。妻は私を愛してくれ、この人とならば、私は私のまま生きていけるのではと思いました。イアン・バルカとして生きていくのだと……。しかし妻は、少しずつ、私をグリオン・バルカに変えようとしたのです。愛する人の言葉ならばと盲目になってしまった私は、再び父の模倣をするようになってしまった」
「なぜ……そんなことを……」
「妻は、グリオン・バルカが好きなんだそうです」
空気が凍った。
「愛情ではなく尊敬だと言っていましたが、私を父にしようとしていましたから、本心はわかりません。その後母が亡くなり、私は追い込まれました。家庭教師はもういなくなっていたものの、妻が新しく雇った使用人に、お前のせいで死んだ、グリオン・バルカにならなかったからだと毎日責め立てられました」
「……そいつらは、誰だ?」
「それはまた後で。妻も同じように言い、私は自分が悪いのだと思い込みました。その中で生まれたエドガルドを、グリオン・バルカにしなければいけないとも。そうしないと……不幸が。エドガルドが不幸になってしまう……」
父のことを許せるわけではない。未だ胸にくすぶっている怒りも、反発も、恐怖も、消えてはくれない。
けれど、こんなことを聞かされたあとに父を責める気には……とてもなれなかった。
「私に失望した妻が去ったのは、私が父になれなかったせいでした。すべてのことは、私がグリオン・バルカになれれば丸く収まった。けれどそれは為せなかった。
だからエドガルドが……そうすれば丸く……そうしないと不幸が。エドガルドが結婚したら愛されない可能性がある。エドガルドがグリオンになりさえすれば、エドガルドの人生は光に満ちていると……私は……
……私は、愚かだ……」
ためらって迷って葛藤してから、まだ祖父に抱きしめられている父の手にふれた。あれだけ怖かった手が、今は小さく震えている。
「どうして……僕が出ていった後にそれに気付いたんですか?」
「エドガルドを私から離さねばと、思った。だから第四騎士団の誘いはちょうどよかった。エドガルドが消えてから、思い出すのは小さい頃からのエドガルドの泣き顔だけだ。私に笑顔を向けてくれたことが、どれだけあったか……」
幼いころ父に会う時は、怯えていた。成長してからは、無表情でいるよう心がけた。
笑顔を向けたことはなかったかもしれない。
「妻の雇った使用人は全員罰を与えて家から追い出していたので、残ったのは信用できる、私のことを励まし支えてくれた使用人だけだった。その使用人が全員やめると言い出したんだ」
「全員? どうして……」
「みんなエドガルドが好きだったからな。私は謀反をおこされた。鞭で叩かれ、私が悪かったと、エドガルドを愛している、謝罪したいと本音を引き出された」
「鞭……え? 鞭ですか?」
「鞭だ。妻にもよく叩かれた」
「…………そうですか」
知りたくなかった。
「エドガルドを長い間苦しめたのだから、私が楽になるためだけに謝罪するわけにはいかない。エドガルドが帰ってきて、話し合うところから始めたかった。納得いかないのは当たり前だ。怒るのも当然の権利だ。その時は鞭を使ってもらえばいいと思ったんだ」
父はもう話すことはないようで、部屋は再び沈黙につつまれる。
もう重苦しいものではなかった。不思議と、爽快感すらあった。
「僕は……まだ、父を許す気にはなれません。許せる日が来るかもわからない。僕はずいぶんと苦しみ、この家にはいい思い出があまりない。だから……」
少し考えて、笑顔で父を見た。歩み寄りの第一歩として。
「過去の怒りや苦しみを思い出したら、父様を鞭で叩きます! 思いきり! 何度でも!」
「……っああ! そうしてくれ! 本当に……本当に申し訳なかった! 間違った愛情表現をして、本当にすまない……! 私はただ、エドガルドを愛していたんだ……それだけでよかったのに」
「父様……」
「うおおおおお、イアン! エドガルド!」
ガシィッ! と祖父にまとめて抱きしめられ、背骨がボキボキと鳴る。痛いけれど、それが嬉しい。
「みな、よかったな……」
向かいの席で、ライナス殿下がもらい泣きをしている。
みんな揃って鼻が赤い夜は、父に愛されていたという安堵と共に、静かに更けていった。