エドガルドの道
……心臓が速い。
全身に緊張を運んでいる音がやけに大きく聞こえて、手足の先は冷たい。
「エドガルド、大丈夫だ。なにかあれば俺が殴ってやる」
わざと明るく言ってくれるロルフの心遣いが嬉しいのに、緊張がちっとも抜けない。
……ついに、父と対峙する。
幼い頃から僕に祖父の姿を押し付けて強要した、あの父と。
父は、僕を愛していないわけではない……と、思う。第四騎士団に行って、すこしだけわかった気がする。
父に反発したかったのに、その勇気もない僕に、父が言ったことがある。
「グリオンになれ。そうすれば失望されない。エドガルドの心を突き刺そうと狙う言葉が、矢のように飛んでくることもない。陛下の覚えもめでたくなるだろう」
あの時はよくわからなかったけれど、父は、そういうことで傷付いたのだと思う。
グリオンのような働きを期待され、失望され、それでも生き方を変えられずに固執し、僕に強要した。父の人生を僕に押し付けるのはやめてほしい。けれど、親に生き方を決められることはよくあると、第四騎士団で知った。
僕にとって嫌なことは、父にとっては愛情だった。
第四騎士団で過ごすうちに、前ほど父が恐ろしくはなくなった。僕は父が嫌いなのではなく、怯えているのだと気付けたからだ。
「……ありがとう、ロルフ。いざとなれば一緒に殴り込みに行こう」
「言うようになったな」
ちょっと驚いたあと、ロルフは嬉しそうに笑った。
「バルカ領のことだからな。僕がしっかりしなくては」
バルカ領が好きだ。僕をそっと支えてくれた使用人も、民も、幸福に過ごしてほしいと願う。
あれだけ父が恐ろしかったのに、バルカ家を継ぐ決心だけは変わらなかった。たぶん、それが僕の最初の意志だったのだと思う。
ロルフと連れ立って下へおりてすぐ、アリスとテルハール嬢がおりてきた。
今日バルカ家へ行くのは、僕とライナス殿下だけだ。祖父は変身の魔道具をふたつ持ってきてくれた。
貴重なものなので、あるだけありがたい。
父に協力を要請するために、ライナス殿下は自ら行きたいとおっしゃった。あとは、屋敷のことをよく知っている僕。
「では、いってくる。みな、留守を頼む」
「ライナス殿下の守りは私に任されよ。別行動はするが、屋敷内であればすぐに駆け付けられる」
「防犯の魔道具も持っていきます。いってまいります」
3人で馬車に乗り、バルカ家へと向かう。街の隠れ家で別れて、別々の馬車で行く予定だ。
バルカ家についたら、人がいないところで父に話をしたいと告げる。
「そう緊張するな。ロルフも、よく見なければエドガルドだとは気付けないと言っていただろう? 疑問を持たれるころには、もうイアンに話し合いの件を伝えている。そこまでいけば、むしろエドガルドだと気付かれたほうが、イアンにも話し合いの重大さが伝わるはずだ」
ライナス殿下は緊張をやわらげようとしてくださるが、父と対面するだけで、冷や汗がじっとりと出てしまう。第四騎士団に行く前は、これが日常だったというのに。
第四騎士団に行き、僕は随分と変わった。自分の意志で、グリオン・バルカの模倣はやめると誓った。ライナス殿下の力になりたいと思った。
それでも怯えているのは…………甘いものを大量に食べてしまっているからだ。
言い訳ができないくらいに。
今朝はパンケーキにたっぷりのシロップとホイップクリームを添えて食べた。おいしかった。チョコレートマフィンも食べた。おいしかった。ココアも飲んだ。やはり飲み物といえばココアだ。
父の教えを振り払って、エドガルド・バルカとして生きていきたいと思っているのに、幼い頃から刷り込まれた「悪いこと」をしているのが露見するのが恐ろしい。
最近はアリスにも「すこし糖分をとりすぎですから、甘さ控えめのものを作りましょうね」と言われてしまった。
ロルフにも賛成されたので、今朝のココアにはマシュマロもホイップクリームものっていなかった! それがどんなにショックだったか……!
後ろめたいことがあるから、父に会うことを恐れているのだ。けれど、それを乗り越えなければならない。
「……第四騎士団に行って、僕は僕だと、当たり前のことに気付けました。父にもわかってほしいと願っています」
結局は、それに尽きる。
父には父の意志があり、僕には僕の意志がある。祖父にも、誰にでも。
だから、分かり合えるとは思わないけれど、尊重しあえるようになれればと……そう願う。
ライナス殿下とふたりでバルカ家についたのは、ちょうどいい時間だった。
毎年バルカ家では、祖母を慕って尋ねてくる人をお茶会でもてなす。本来ならば当主の妻である母がするが、主催は父だ。
母は幼いころに遠くの別荘へ行ってしまい、それから会っていない。
少しだけ寂しかった記憶があるが、すぐにその感情も薄れてしまった。母とはあまり会話をしなかったし、声をかけてもらえなかった。
母が父とうまくいかず、僕のこともあまりよく思っていないことだけは、よくわかった。
「行こう。エドガルド。グリオンは先について、何かあれば私たちを助けてくれるはずだ。もちろん、エドガルドにも期待している」
「……はい。ご期待にこたえてみせます」
「頼もしい。一緒にいるのがエドガルドでよかった」
ライナス殿下は、僕にはもったいない言葉をかけ、馬車をおりた。僕も、もたもたと続く。
僕は顔を変えるだけでは気付かれる可能性があるので、体に布を巻き付けて少しばかりふくよかな人間に見せかけている。これが非常に動きづらい。
久しぶりにバルカ家へと入ると、懐かしい使用人が案内してくれた。僕に気付いた様子はなさそうだ。
今日は天気がよく、お茶会は温室で行われる。温室にたどり着く少し前、父が……イアン・バルカが、客人を出迎えているのが見えた。
「行くぞ」
「……はい」
客人が温室へ入り、父の顔がこちらへ向く。あの目が僕たちをとらえる。
僕たちは、初めてこの茶会に参加する貴族だ。その設定もきちんと頭に入れてきた。
……それなのに。
「……エドガルド」
父の口から出たのは、僕の名前だった。
「何をしている、エドガルド」
「エドガルド? それはご子息の名ではないでしょうか。人違いですよ」
ライナス殿下が少し前に出て否定してくれたが、父は確信しているようで、表情も息遣いも、なにも変わらなかった。
今回の魔道具は顔を変えるだけで、声までは変えられない。ライナス殿下がいつもより高い声で、もう一度否定した。
「ご子息は、このような顔と体格ではなかったと記憶しておりますが」
「……いいえ。エドガルドです」
父の視線が、僕を射抜く。
「……自分の子供をわからない親はおりません。少なくとも私は、その青年がエドガルドだと確信しております」
息すらできない緊張のなか、父は張り詰めた空気をふっと和らげた。
父は武に向いている体ではないが、祖父のように鍛えてきた。それを目の当たりにした気持ちだった。
「このように来られるということは、何か話があるのでしょうか? 部屋を用意させますので、そちらでお待ちください。それとも、茶会に参加されますか? 私はどちらでも構いません」
「……では、部屋で待っているとしよう」
ライナス殿下の声で正体がわかったのか、父は少しばかり目を見開いたあと、軽く頷いた。
「夜にお伺いいたします。……こちらの客人は、長旅で気分がすぐれないそうだ。客間へ案内してくれ」
「かしこまりました」
ここまで案内してくれた使用人は、僕がうまれる前からバルカ家に仕えてくれている。こっそりと遊んだり、慰めてもらうことも多かった。
父に気付かれないよう、あくまで「こっそり」とだが、たくさんの使用人が「こっそり」と色々してくれたおかげで、僕は卑屈にならずにすんだ。
「大きくなられましたね」
聞き逃してしまうほど小さな声が、風に乗って耳をくすぐる。父との対面の前に、少しだけ勇気をもらえた気分だった。