ボクの選んだ道
「フライパン、返さなきゃ……」
「ああ、俺が持っていくよ。最初から見てたから、このフライパンをどこで借りたかわかる。嬢ちゃんの無事も伝えとくよ」
「ありがとうございます。お願いします」
白い歯が爽やかな好青年が、フライパンとおたまを返すと申し出てくれた。立ち上がれるようになったとはいえ、おばちゃんのところまで行って帰るのは脚が大変なことになる予感がするので、ありがたく頼る。
好青年は最初から見ていて、何かあれば助けようと思って、ついてきてくれたらしい。
「あの人、わたしがどこに泊っているか知りたがっていたので、知っていても教えないでくれませんか? 市場以外のところでわたしを見かけても、遠くから半開きの横目で見てほしいんです」
「わかったよ。こんなことがあったなら、泊まっているところを知られたくないのは当たり前だ」
「ちょっと他の人にも言っとくよ」
周囲の人は快く頷いてくれ、災難だったと言いながらちょいちょい食べ物をくれ、徐々に解散していった。
ここは屋台が多いから、店主さんが自分のところの商品をくれたらしい。
「……本当に、ありがとうございます」
この国では、深々としたお辞儀なんてしない。前世の癖が抜けず、ついお辞儀しそうになるのをこたえた。その代わりに手をあげる。
みんなのおかげで元気になったと見せるために、大きく手を振って、笑顔で広場を後にした。
……さて、どうしよう。
モーリスに見張られていたら、別荘に帰ればわたしがバルカ家と繋がりがあるとバレてしまう。
でも、ホテルに泊まるのもなぁ……。モーリスが夜中に押し入ってきたらアウトじゃない? はっきり言って、寝ている最中に襲われても抵抗できない。
勝手に決めるわけにもいかないから、どうするべきか指示がほしい。
途中のお店で、つばの大きな帽子を買ってかぶる。気休めだけど、ないよりマシだ。
防犯の魔道具を確認して、再び歩き出そうとすると、後ろを誰かが通った。
「大丈夫だよ、アリス。馬車へ行って」
レネだ!
振り向きそうになるのを寸前で止めて、馬車に向かって歩く。よかった、やっぱりふたりは側にいてくれたんだ!
馬車を止めている家の中に入り、ドアを閉めて、なんとなく端っこで息をひそめる。誰もいない静かすぎる空間は、少し怖い。
しばらくして、レネが滑り込んできた。すぐにドアと鍵を閉め、わたしを視界に入れる。
「レネ様!」
「アリス! 無事でよかった……!」
駆け寄ってきたレネに、きつく抱きしめられる。いつもなら慌てるかもしれないけれど、今はわたしもレネの背中に腕を回し、抱きしめ返した。
勝利と安堵の抱擁だ。
「ボクとシーロの心臓が、何回止まりそうになったか……!」
「すみ、ません。でも、答えないと、ずっと追ってくるって思って」
「アリスの判断は正しいよ。……ごめん。助けに行かなくて、ごめん」
「怖かったけど、レネ様が姿を現すほどのことじゃないです。ふたりが来なくて、ほっとしました。わたしだけがバレてるならそれでいいって」
「よくない!」
視界の端っこで、レネの染めた赤茶色の髪が揺れる。ピンクがレネの色のように思っていたから、未だに違和感がある。
「よくないよ……いっつもアリスに助けられてばかりだ」
「レネ様の力になれているなら、よかったです」
シャツ越しに、心臓の音が聞こえる。本当に心配してくれていたと伝わる、とくとくと速い心臓。生きている音。
レネの体温がじんわりと溶けてきて、冷えていた指先に血が通った。
「……建国祭でも、こういうことがありましたね。怖いことがあって、生きていると実感するための、平常心を取り戻すためのぬくもり。あの時も今も、レネ様は助けてくれました」
背中に回された腕に力がこもる。レネは格好いいというより可愛くて、話しやすいけど、やっぱり男性だった。
「……アリス。ちょっと、うめいててくれる?」
「え? あ、はい?」
よくわからないまま、レネの手で両耳をふさがれた。ゾンビみたいにうめけばいいのかと思ったけどゾンビの真似をしたことがないので、難易度が高い。
仕方なくそれっぽい声を出している向こう側で、レネの口が動いた。
「……学校に逃げ込んだ時、アリスは言ったよね。建国祭でボクと一緒にダイソンの密会を目撃した時、靴で攻撃しようと思ってたって。それを聞いてボクは飛び上がるほど驚いて……すごく、嬉しかったんだ。アリスはボクと一緒に戦ってくれるんだって。だからこそ思った。アリスを守りたい。笑顔でいてほしい」
「レネ様、もういいですか?」
穏やかな笑顔で首をふられた。
レネの声は聞こえないのに、レネにはわたしの声が聞こえているのは、不公平な気がする。読唇術を勉強していればよかった。
「ボクは自分の気持ちを、わざと考えないようにしていた。いろいろ入り混じった複雑な感情の名前は、今でもよくわからない。
ボクが、それを望んだ。ボクは、それを選んだ。
つまり……アリスの恋人じゃなく、騎士でいるってことをね。アリスと恋はできなかったけど、その代わり、素敵なものをたくさんもらった。信頼とか友情とか、一番に相談してくれる関係とか。ボクが第四騎士団に馴染めたのも、こうしてライナス殿下の側近になれたのも、アリスのおかげだよ。どれもボクの宝物だ」
レネの手が離れていき、口を閉じる。あわわわわ、と言っていたのがよかったのか、レネはすっきりした顔をしていた。
「ボクはちょっと気になることがあるから、街に残るよ。明日には帰るから。アリスが住民に口止めをお願いしたから。シーロは今、ダイソンを追ってる。これ、シーロとボクからのメモ」
両肩に手が置かれ、ぎゅっと力が込められた。
「……ひとりで別荘に戻れるよね?」
「はい。レネ様……気を付けてください」
心の中で、シーロにも念を送る。
無事でいてほしい、怪我をしないで、モーリスに見つからないでほしい、命大事に! 命が一番!
「アリスは先に馬車で出てね。別荘に着いたら、状況説明をお願い」
「はい」
レネはしばらくわたしをじっと見て、迷うように少しだけ視線をずらした。いつもはっきりしているレネにしては珍しい動作だ。
「……目を、つむってくれる?」
「え? はい」
「……素直すぎるよ。ほかの人に言われても、すぐに言う通りにしちゃ駄目だからね」
「わかりました」
レネが着替えるのかと思ったけど、よく考えたらそんなことはしないな? さすがにわたしが家から出てからか、別の部屋で着替えるよね。
「そのまま動かないで」
気配が近づいてきて、おでこに、やわらかい何かがふれた。
……覚えのある感触だ。
小さい頃にしてもらったおやすみのキスによく似ている。
「レネ様!?」
「あはは、アリスでも焦るんだね!」
「なっ、なにを!」
「なにって、お守り。ないとは思うけど、モーリスに襲われたら、ボクも勝てるかわからないから。短剣って、扱いなれてないんだよね。大丈夫だよ、もうしないから」
そういう問題か?
おでこを拭くのは悪い気がして、手のひらで消えない感触を押さえる。顔が熱い。
「アリス、ありがとう。ごめんって言いたいけど、謝らない。怒ったっていいよ」
「怒りませんよ」
こんなことをした理由は謎のままだけど、レネは意味もなくこういうことをしない。もしかしたら、本当に危ないのかも。
「無事に帰ってきてくださいね。みんなで待っています」
「うん! 帰ったら何かおいしいもの作ってよ」
「レネ様が好きなものを作りますね」
馬車に乗る前、レネは眩しい笑顔で、大きく手を振ってくれた。手を振り返す前に、ドアが閉まってしまったのが、なんだか寂しくて、変に心に残った。