もう始まっている
アーサーの言った通り、秘密通路を走っている時間は、前ほど長くなかった。
いくつかの秘密通路を通り、最後は家の中に出る。レネが窓から家の周囲を探り、さっと合図をする。
シーロが家の外へ駆け出していき、数分で帰ってきた。
「確認できました。行きましょう」
できるだけ素早く、家の裏に止まっている馬車に乗り込んだ。ドアを閉めると、すぐに馬車が走り出す。
ふう、と小さな息が漏れた。
馬車の中には、大きなソファが向かい合わせでふたつ置いてあった。ちょっと電車の中に似ている。
ロアさまが座ると、シーロがさっと側に立って控えた。
「レディは座っていてくれ。王都を出れば乗り換えがあるが、しばらくは休んでおいたほうがいい」
「お言葉に甘えさせていただきます」
少し顔色が悪いエミーリアは、ロアさまの向かいに座った。その隣に腰かけて、背中をさする。
「ありがとうございます……。座ればなおりますわ」
「無理をしては駄目ですよ。薬を飲みますか?」
「学校を出る前に飲んできたから大丈夫ですわ」
「お水はどうです?」
「今は結構よ。ありがとう」
飲んだら吐いてしまうと思っているのかな。
こんなところで貴族令嬢が吐くのは、たぶん耐えがたい屈辱なのだと思う。体調が悪かったり車酔いなら、はやく吐いたほうが楽になると思うけど……。
誰にも見られないように移動している状況で、外に出て吐くなんてできない。この空間で吐くのは、わたしも嫌だ。
数人は立って警戒するようで、交代して座って休んでいる。
ロアさまは、いつもの声でエドガルドに尋ねた。
「エドガルドの領地までは、二日だったな?」
「はい。王都を出て魔道具に乗り換えれば、そこからは移動速度が速くなります」
王都は馬でしか移動しちゃいけないけれど、王都を出れば、車のような魔道具で移動できる。
領地のあいだには、高速道路のようなものが通っているらしい。王都から出たことがないので見たことはないけれど、なんとなく想像はつく。
汽車はもっと速いと聞いたけど、大勢の人が乗車する。人目にふれる可能性が高くなるので、今回は車で移動だ。
窓もない密室で、二日。うーん、トイレはどうすればいいんだろう。
その疑問は、魔道具に乗り換えると、あっさり解決した。
小型のバスのような魔道具は、入ってみると見た目より大きかった。
全部で三部屋あり、ソファやテーブルがあるリビングのような部屋に、寝室、もうひとつは小さなトイレだった。
寝室には簡素なベッドが5台並べておいてあり、ぎゅうぎゅうだった。ベッドは小さめで、できるだけ眠れる人数を増やそうとしてくれた努力がうかがえた。
こんな状況なのに、少しわくわくして見ているわたしを見て、ロアさまは微笑んだ。
「アリスは、このようなものに乗るのは初めてなのだろうか? マジックバッグのようなものだと思ってくれればいい」
「あのマジックバッグの中にわたしが入っていると思うと、変な気持ちですね」
「珍しいものだから、なかなか乗る機会がない。私も乗るのは初めてだ」
「外から見たらそんなふうに見えないのに、すごいですね!」
「振動も少ないから、快適に過ごせるはずだ。警戒を怠ってはならぬが、必要以上に緊張するのもよくない。交代で仮眠をとろう」
少しだけ顔色がよくなったエミーリアを見たロアさまは、寝室を見た。
「先にレディが寝てくれ。まだ午前中だが、昨夜は睡眠時間が少なかったから、眠れるだろう」
「……ありがとうございます。少し横にならせていただきます」
「エミーリア様についていますね。そうだ、エドガルド様に借りっぱなしのマジックバッグを置いていきます。中に食事や飲み物が入っていますので」
「いいえ、わたくしひとりで大丈夫よ」
「でも……」
エミーリアがこっそり呟く。
「マジックバッグの中には、あなたの私物も入っているのでしょう? それを殿方に探らせるのは、少し酷ですわ」
マジックバッグの中には下着も入っている。
顔を赤らめたわたしを見て、エミーリアが笑った。
「先ほどより、ずっと調子がいいの。何かあれば、頼らせていただきますわ。おそらくすぐに眠ってしまうでしょうし、アリスも眠くなったら来てくださいな」
「はい。おやすみなさい」
素直にエミーリアを見送って、マジックバッグから飲み物を取り出す。
ロアさまはブラックコーヒーで、ロルフとアーサーも今はコーヒーを飲むだろう。エドガルドにはココア。
「レネ様はなにを飲みますか?」
「ん-、今の気分はレモネードかな」
「ホットにしておきますね」
「ありがと!」
テーブルの上にコーヒーポットとミルクピッチャーを置いて、先にコーヒーを三人分注ぐ。
レモンの輪切りが浮かんだ、蜂蜜をたっぷり入れたホットレモネードをレネの前に置く。しっかり甘いココアは、エドガルドへ。
「ワンコ様はなにがいいでしょう?」
「私はカフェオレをいただきます」
それなら、いちおう砂糖も置いておこうかな。
わたしはストレートティーをいただくことにして、ソファの空いているところに座った。
今はみんな座っているけれど、帯刀しているし、やっぱりリラックスはしていない。いざとなれば、ロアさまを逃がすために、敵を足止めをする覚悟をしている。
コーヒーを飲んだロアさまは、聞く人を安心させるように、柔らかな声で言った。
「おそらくオルドラ家は、この件に関わっていないだろう。もう少し詳しく調べる必要はあるが、ロルフやオルドラ伯爵家を疑っているわけではないと知っておいてほしい」
「もちろん、知っております。十分にお調べください」
ウインクしてみせたロルフは、コーヒーカップを置いた。
「よくも悪くも、才能だけはある父です。王位簒奪を企む者が領地にいたと知れば、すぐに排除します。父が重きをおいているのは領地の発展であり、それを害する者には容赦しません。次期当主である弟は、父とは違ってまっとうな心の持ち主です。反逆者がいれば、王家への忠誠心でお知らせするでしょう」
どこか皮肉が混じっている声のロルフを、そうっと見る。
レネやアーサーは、家族仲が良好だとわかる。ときおり話に出てきて、そのどれもが和やかなエピソードだからだ。
ロアさまも、よく兄の話をしている。エドガルドは、本当にたまに、父親のことを話す。
でもロルフは、まったくと言っていいほど話さなかった。
赤髪はオルドラ伯爵家の証だ、家は弟が継ぐ、だから出てきたと、言葉少なに言った。
そうなんですか、としか言えなかった。慰めたり受け入れるのは、たぶんわたしの役目じゃない。
「バルカ家は祖父と父が長年交流していないので、祖父がダイソンと手を組んでいなくとも、父もそうだとは言いきれません。息子なのに情けない話ですが……あまり私的な話をせず、未だバルカ家の経営は任せてくださらないので……」
「自分を卑下せずともよい。それならば、私だって父との私的な話は数えるほどしかしたことがないし、国のことは兄上にお任せしている」
「……そうですね」
エドガルドは、スケールが違うという顔をしている。わたしもそう思う。
あたたかいものを飲んだおかげか、緊張でかたまっていた体がぽかぽかとしてくる。まだエミーリアが起きていたら、あたたかいものを飲むか聞いてみよう。
少しぼうっとしたわたしに目ざとく気付き、ロアさまは微笑んだ。
「アリスも、少し休んでくるといい。乗り換えの時に襲われなかったのだから、しばらくは安全だろう」
「ありがとうございます。寝過ごしたら遠慮なく起こしてください」
「存分に眠るといい」
みんなにおやすみを言って、軽くお辞儀をして寝室へ入る。
エミーリアはもう眠ったようだ。顔色がよくなっていて、一安心だ。
あっそうか、エミーリアもいたら寝室に入ってこれないよね。わたしは第四騎士団から逃げる時に叩き起こされたから、麻痺してしまっているのかもしれない。
ロアさまに髪をほどいているのも見られたし、寝起きどころか寝顔も見られたし……。これでわたしが美少女だったら、ドキドキ☆恋のはじまり! みたいなことがあったかもしれないのに、相手はわたしだ。
美人なエミーリアの横のベッドに寝ころびながら、学校に残してきたトールやみんなのことを考えていると、意外とあっさりと眠ってしまった。