トールの青い春
重要な会議などで使用するらしい、防音と障壁の魔道具がひとつ。
魔道具を置いたところを中心として、大きなドーム状の膜を作り出し、音やら衝撃やらを吸収すると聞いた。
ついに、あの商人を捕縛するのだ。
わたしは離れたところで見させてもらう予定だ。あの商人がしっかり捕まえられたことを確認して安心したい。
ロアさまたちのことを疑っているわけじゃないけれど、実際に見て実感したいのだ。
シーロとエミーリアは、部屋でお留守番だ。エミーリアは商人と関係のない人だし、病弱だから、あんまり刺激的なところを見せないほうがいいという配慮だ。
どうしても来たいと言ったトールと、わたしと同じ理由で安心したいと言ったマリナも一緒だ。
学校にどう話を通したのか、敷地内の端にある場所を使用してもいいと許可が出た。
レネがハンカチをしいてくれた椅子に座って待っていると、あの商人がやってきた。ここへ来るには一本道なので、クリスが見張りをしてくれている。
「……さて」
更地にしている最中の、どこか荒れた空地。木の根っこや刈った草が重ねられた真ん中で、ロアさまが振り返った。
凄みのある、綺麗な笑みだった。
「これから君は一方的に攻撃を受けるわけだが……自分の人生を思い返してみれば、思い当たることはいくらでもあるだろう」
警戒していた商人が、踵を返して逃げようとする前に、エドガルドが立ちふさがった。
「エドガルド」
「かしこまりました」
横からロルフが出てきて、商人を難なく抑え込む。
どこからか注射器のようなものを持ち出したエドガルドは、商人の腕に容赦なく突き立てた。
「なっ、何を……! 俺に何をした!」
あれは服従の首輪から出る猛毒の中和剤で、むしろ命を助ける行為だ。それを知らない商人にとっては、恐怖でしかないだろう。
「うるさい」
珍しく語気が荒いエドガルドは、注射の中身をすべて注ぎ込むと、無造作に投げ捨てた。
長い指が、ボキボキと鳴らされる。
「……まさか、この期に及んで白を切るつもりじゃないだろうな」
エドガルドの体重の乗った綺麗なパンチが、商人自慢の顔にクリティカルヒットした。
……それからは、マリナと並んでぽかーんと見ているしか出来なかった。
分厚く布を巻いた木刀でレネが滅多打ちにしている横で、トールが何かをわめきながら蹴ったり殴ったりしている。
ロアさまが魔法を出した時は、そりゃあびっくりした。
……魔法って、本当に魔法なんだ。
生まれ変わって初めて見た魔法は、ゲームのようだった。
ロアさまが手から炎を出し、エドガルドがそれを風の魔法で増幅させて、炎の竜巻を作り上げる。それに商人を閉じ込めた。
炎の竜巻の内側を氷で囲んだアーサーが、温度や衝撃を抑えつつ、氷のつぶてを出して商人に当てている。
ロルフは全体を見て、やりすぎそうなエドガルドとトールを抑えながら、ボコボコに殴っていた。
みぞおちに綺麗に入れたパンチに、ロルフの怒りを感じる。
「はぁー……ティアンネ様、愛されとりますねぇ」
「ううーん……そう、だよね」
頷いたが、正直それどころじゃなかった。
エミーリアが来なくてよかったと心底思う。これを見たら、儚く気絶していたかもしれない。
あれだけ憎かった商人が、今ではちょっと心配だ。
ここでみんながやりすぎたら、情報が聞けないかもしれない。
はらはらしながら見守っていると、やがて攻撃がやんだ。
ロアさまが歩いてきて、座るわたしの前に跪く。
「ロアさま! 駄目です、立ってください!」
「何かしたいことはあるだろうか。今なら抵抗はできないはずだ」
ボロボロになって倒れている商人は、思ったより怪我をしていなかった。腕が一本や二本なくなってそうな勢いだったけど、きちんと五体満足で、意識もある。
でも、顔は腫れて蜂に刺されたみたいになっているし、服もぼろぼろ、髪の毛は変に短くなっている箇所がある。
全体的に薄汚れて血まみれだ。
「わたしは、襲われたあの日にきちんと仕返しをしました。あとは、被害に遭われたご本人やご家族の方がしたいことが出来ればと思います」
「……アリスは優しいな」
みんなにきらきらした目で見つめられ、いたたまれなくなって、そっと目を逸らす。
……その商人が家に来るとき、品物をかなり値引きしてもらったんだよね。最初だけサービスですとか言われて、高価なものや新鮮なものを、本当に安く売ってもらった。
前世で例えるなら、ブランド米5キロを千円とか、そのおまけで松茸や和牛を4人分格安で売ってもらったり。それを週に2回、一か月以上続けてくれたわけで。
嫌な目を向けてくるなぁと思いつつ、商品は確かなものだった。
粗悪品だったら次は呼ばれないから、貴族の家に出してもいい、きちんとした商品を持ってきていた。
商人の狙いは胸くそ悪いものだったけれど、その時は股間を滅多打ちにして撃退して、今はこんなにボロボロになっている。
わたし的には、本当に十分なのだ。
だから、そんな目で見ないで……!
わたしの無事はお金では買えないものだけど、実際は無事で、旅行に行けるくらい食費が浮いたから……!
「姉さま……本当にいいんですか?」
「もちろん。トールはすっきりした?」
「はい。でも……姉さまの恐怖を、まだまだ教えなきゃ……」
「トールがしたいのなら止めないけれど、この男は、これから自分が人を踏みにじってきただけ拷問されていくのよ? 懇願しても死なせてもらえないでしょうし」
商人は、怯えたようにびくりと震えた。
「でも……姉さまは」
「姉さまは大丈夫よ。トールはどうしたいの?」
「僕は……」
逡巡するトールに、ピンク色のものが激突した。
マリナだった。
勢いがつきすぎて転びかけ、トールのみぞおちに頭が入る。
「ぐうっ……!」
「ご、ごめんなさいだ!」
ぶち当たった衝撃で、眼鏡が落ちる。おさげを結わえていたリボンもほどけ、髪がするすると広がっていく。
三つ編みの癖がつき、ゆるくウェーブがかかったピンク色の髪がマリナを彩る。
とんでもない美少女がそこにいた。
「ひゅっ……」
何かを言おうとしたトールの、かすかな息を呑む音が、やけに大きく響く。
……人が恋に落ちる瞬間を見てしまった。
しかも、実の弟の。
「動いたら駄目だす! 眼鏡が落ちたんで!」
ぎゅうぎゅうとマリナに抱き着かれたトールは真っ赤だ。
なんてこと! あのシスコンのトールの恋よ! 青い春の始まりよ!
トールは前からマリナが気になっていたし、たぶん好きだったけど、商人のことがあったから自分の恋は後回しにしていた。
商人のことが一段落した途端、気になっていたあの子が超絶美少女だったという、ラブコメもびっくりな恋の始まりだ!
「う、うあ……」
うめきながら後ずさったトールの足元で、何かがつぶれる音がした。
「め、眼鏡が……!」
「ごっごめん、わざとじゃなくて……!」
「知ってるだす。トールは、わざとこんな事しないだす」
美少女のはにかみ笑顔を間近で浴びたトールは、真っ赤になって沈黙した。
みんながマリナの顔に驚いている間に立ち上がる。ここは姉であるわたしの出番だ!
「マリナ、ごめんなさい。すぐに新しい眼鏡を用意するから、それまで部屋から一歩も出ないでね。絶対に。トールと恋人になりたかったら出ちゃだめ」
すごい勢いで求婚される可能性がある。
「ふえっ!?」
「疲れているだろうし、よく寝て健やかに過ごしてね。苦しいかもしれないけど、これを羽織っていって」
念のため持ってきていたストールで、マリナの顔を隠す。
「トールは、マリナを連れて行ってあげて。トール、いいわね。速攻よ」
「姉さま……でも、僕は姉さまが大事なんです」
「わたしもトールが大事よ。大好きだから、幸せになってほしい。トール、頑張るのよ!」
「……はいっ!」
やりきったと汗をぬぐうわたしの爽やかな笑顔をバックに、ふたりは寄り添って歩いていった。
さて、次は地面にはいつくばってうめいている、この男の相手だ。