~MY Master~
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「失礼します。」
「む? 主は誰じゃ?」
診察室に入ると、パソコンが置かれた机の前にある丸椅子に座った子供が出迎えてくれた。銀髪のショートヘアーの女の子だ。小学3年生くらいの背丈なのに大人用の白衣を着ているせいで裾とか袖とか色々な所がダボダボである。
「すみません、今日竜人の主従登録に来たんだけど、軽い診察を受けるように指示を受けて。えっと、先生はどこにいますか?」
膝を曲げてかがみ、その子と目線を合わせて話す。この年くらいの子は子供扱いすると拗ねてしまう場合が多いから注意が必要だ。
「ほぅ、竜人の娘っ子か。その歳で竜人登録とは珍しいのう。」
「あの、それで先生は…?」
「ん? わしじゃが?」
「……え?」
この子が診察してくれる先生?
…いやどう贔屓目に見てもやっぱり小学生にしか見えないのだが。あれか、海外の大学を飛び級して医師免許を取ったとかか? いやだとしても子供が医者として働けるものだっけ?
「…さてはお主、わしを疑っておるな? わしがこんなちんちくりんの見てくれだから」
「あ、いや。疑ってるというか、驚いています。」
「ま、そういう反応をされるのにも慣れたからもう良いがの。こう見えてもわしは50歳を超えておるぞ。」
「ごっ!? え、何かの間違いじゃなくてですか?」
おいおいマジか。まさかのリアルロリババアかよ。
「本当じゃ。実はわしも竜人での。竜の因子の影響で子供の頃から成長が止まっておる。」
そう言って先生は竜人化して見せてくれた。先生の小さい口から八重歯が覗くようになり、頭に狐のような耳が生える。尻尾は爬虫類系の俺のものと違い、毛に覆われた獣のそれのようだった。その見た目からは、竜というより妖狐とか狐の獣人とか、そういう印象を受ける。
「その姿…それも竜人なんですか?」
「ん? 姿に戸惑っておるのか? どれ、お主も竜人化してみよ」
先生に言われた通りに竜人化してツノと腕と尻尾を出す。そういえば先生の竜人化はこの太い竜の腕も出していなかった。子供の細い腕のままだったことも竜人の雰囲気を感じなかった要因の一つだ。
「…ほぅ、なるほど。雄々しいのう。まさしく”竜人”じゃな」
「はい、だから先生の竜人化を見て戸惑いました。”竜”と名に付くのですからてっきり私のような姿が標準なのだと」
「まぁ、一口に竜人と言っても色々居るからの。わしのような妖属性や幻属性の輩にはむしろお主のように竜らしさを持つ者の方が少ない。」
「そうなのですか?」
「ああ。長い年月を経て、進化の過程でそうなったというのが生物学の定説じゃ。竜人が誕生した当時はそれこそ主のような竜の名にふさわしい姿の者ばかりじゃったらしい。人間が”竜人”などと名付ける程にな。じゃが、移り行く人間社会の変化や文明の進歩、変わっていく地球環境の変化に竜人も対応せざるを得なかった。そしてそれぞれの個体が生きやすいように姿形を変え、様々な属性に分化し、それが子孫に受け継がれて今に至るというわけじゃ。”人間に擬態する”という力も、この過程で得た力らしいぞ?」
なるほど、俺のように原始的な姿でいる竜人もいれば、先生のように竜の姿を捨てて独自の進化を遂げた種もいるということか。そのどちらも生物分類上は同じ存在であるため、どちらも”竜人”と呼ぶと。少しややこしいけどそういうことか。
「…それにしてもお主。何故爪も尾もツノも全部出したんじゃ?」
「はい?」
「確かにわしは竜人化してみろとは言ったが、特徴を見せるだけなら爪を出すだけで十分じゃろ。何故わざわざ全部出した?」
「…竜人化って部分的にもできるんですか?」
「…驚いたのぅ。さてはお主生まれたばかりか? 基本的に竜人が竜人の姿になるのは戦闘時だけじゃ。その他の場合は無駄な体力消費を避けるために爪や尾など要所要所を竜人化させることが多い。」
「へぇ…。」
「ま、後で時間がある時にでも練習してみい。慣れれば何も難しくないし、竜の力を制御するいい練習になる。どれ、そろそろ診察を始めようかの。潜在能力の検査結果は持っておるか?」
「はい、これです。」
俺はさっき受け取った潜在能力の検査結果を先生に手渡した。先生をその数値を見ながらパソコンに情報を入力していく。
「…ほぅ、炎と闇属性持ちか。そしてこの無駄の少ない理想的な攻撃型の種族値。まさに戦闘に特化した竜人といった感じじゃの。」
…おい、ついに種族値って言ったな。もうツッコまないぞ。
「よし、基本的な情報は分かった。では診察に移るとするかの」
「はい、よろしくお願いします。」
その後簡単な健康診断が始まった。注射で血液を採取したり、身長と体重を人間の時と竜人の時でそれぞれ計測したり、視力検査や聴力検査。あと、身体の中の魔力の巡りを観察する魔力循環検査なんてものも受けた。結構色々やった気がするが、所要時間は大体40分くらい。先生や看護師さん達の手際が良く、スムーズに検査は終了した。
「これで診察は終わりじゃ。お疲れ様じゃの」
そして潜在能力の時と同じように、検査結果はこの場で出るらしい。病院で受ける本格的な健康診断はこうはいかないらしいのだが、今回はあくまで簡易的なものだから即日で結果を出すことが可能なのだそうだ。
「…う~ん」
机の上のパソコンに表示された俺の検査結果を見て先生が首を傾げた。眉を曲げてボールペンをくるくると回し、何か納得いかない様子。
「どうかしたんですか?」
「いや、検査結果が少しな……」
「もしかしてどこか悪かったりします?」
「いや、至って健康そのものじゃ。見事すぎる程にな。それが引っかかる…」
先生が言うには、俺の数値はどれも健康基準値に恐ろしい程びったりハマっていたらしい。例えばBMI。俺くらいの年齢の女性竜人の適正値は22で、俺の数値はびったりと22。こんな感じですべての検査結果が健康的な理想値そのものであり、それに先生は違和感を覚えたのだ。人である以上どんなに健康に気を付けたとしてもその理想値からはどうしてもズレが生じてしまう。俺のように、ここまで機械的に理想値を叩き出すことはできないはずなのだ。
先生が疑問に思っていることの答えに、俺は心当たりがあった。そういえばそのことを伝えていなかったので今ここで話す。
「先生、言い忘れてましたが、どうやら私は人工竜であるらしいのです。」
そう言った途端、先生はくるくると回していたボールペンをポトリと落とした。目をグッと見開いて驚いた様子の先生は、ギギギとゆっくりこちらを振り向く。
「…じ、人工竜?」
「は、はい……」
「お主が……?」
「はい…」
先生は丸椅子から降りると、ゆらゆらとこちらに歩いてくる。俺の前まで来るとぴょんっと膝の上に飛び乗り、両手で俺の頬を押さえた。
「どういうことじゃっ!? 説明せいっ!!」
「わっ分かりましたからっ! は、離してっ!」
余程混乱しているのか俺の頬を押さえたままガクガクと頭をシェイクする先生。俺は何とか先生を落ち着かせてこれまでのことを話した。気づいたらとある研究所で目覚めたこと、竜人に対応する警察組織ミコトに襲われたこと、その際に竜人に対抗する竜武器が効かなかったこと、ケンから教えられて様々な要素から自分が世界で7人目の人工竜だと判断したこと。
ちなみに俺が別世界から来たことは隠した。言っても眉唾物だし、先生を余計混乱させると思ったから。
「…研究所か。街の外れにそんなものがあったとはのぅ。お主はそこで生まれたんじゃな?」
「状況からみて恐らく…」
「…なるほどの。主が年齢の割に妙に竜人に無知だったことといい、この検査結果といい、色んな違和感が腑に落ちた。」
先生はガッと俺の手を握ると、じっと目を見据えてきた。不安げな顔をする俺の顔が、先生の碧色の瞳に移っている。
「良いか、アナマナ! 主が人工竜であることは秘密にするんじゃ。人工竜は物珍しさだけでなく、その特殊な力から要らぬ混乱を招く。周囲の人間が巻き込まれればそれはお主だけの問題じゃない。主の大事な主人も危険にさらすことになる! あくまでお主は竜の因子が遅れて発現し、後天的に生まれた竜人として生きるんじゃ!」
「…分かりました。」
正直俺だけならこの世界に何も未練はないので最悪どうなっても構わない。だけどケンは、見知らぬ世界でミコトに襲われ、誰も味方になってくれないひとりぼっちの俺を、ここまで導いてくれた大切な主人だ。ケンが傷つくところは見たくない。
使い魔として、ケンを守りたい。
その思いから、俺は先生の言葉に頷いた。もしかしたら俺が人工竜であることを広めていけば、何故俺が造られたのか、何故俺がこの身体に宿り、この世界に来てしまったのか、様々な疑問の答えが分かるのかもしれない。だけどそれよりも、ケンを守りたいという使い魔としての意志が強かったのだ。
「…診察はこれで終わりじゃ。主人の方もそろそろ手続きが終わっておる頃じゃろう。一階の受付に戻れ。」
「はい、ありがとうございました。失礼します。」
俺は先生から診察された検査結果を受け取って、診察室を後にした。
その後ろ姿を、先生が憂いを帯びた表情でじっと見つめていた。
あの後一階の受付でケンと合流すると、無事に主従契約の手続きを終えることができた。契約の証として、ケンは免許証のような証を、俺は白いチョーカーを貰った。このチョーカーは俺が野良竜人ではないことを示すだけでなく、埋め込まれたICチップにケンの個人情報を入力していて、誘拐された時やケンと離れ離れになった時などに俺が誰の使い魔であるのか証明する機能もあるそうだ。
契約を済ませた俺達はせっかく外に出たので、近くのスーパーで食料を買い込むことにした。ケンが通っている宮都大学の近くに大型のスーパーがあるのだ。大学という人がたくさん集まる場所の近くのこういうお店はあるもので、学生にとってはとてもありがたい。
スーパーに入り、カゴを持ったケンは品物を吟味し、手際よくカゴに放り込んでいく。
「…買い物、すごくスムーズだな。ケン」
「え? そうかな。これくらい普通だよ」
本人は何てことないように思っているが、客観的に見てかなり手慣れている。料理をよくする奴の動きだ。俺のように家事をほとんどしない奴の買い物は、大抵安い惣菜のパックとチューハイなんかを2、3本買って終わりなのだ。それに比べてきちんと品物の賞味期限や値段を見て無駄なく選別するケンは、家事スキルの高さが伺える。
やっぱりすごいな、ケン。その辺の歴戦の主婦と遜色ない動きだぞ。
「……」
「ん? どうしかしたのアナマナさん?」
「…いや、何でもないさ」
こうしてスーパーの中を見渡してみると、前の世界とほとんど変わらない。あまりにも変わらないから、時折ふっと自分が異世界に来て人外になっていることを忘れそうになる。だけど、たまに重い荷物を持つために腕だけを竜人化した同族を見つけて、現実に引き戻される。
切なさとかノスタルジーとか、そういうものを感じていた。
商品をレジに通してスーパーを出ると、ケンが品物の入ったレジ袋を重そうに抱えていた。今日は安売りされていた商品が多かったらしく、ついつい買いすぎてしまったようだ。
「ほら、ケン。袋渡しな、持つよ」
「い、いや、大丈夫だよアナマナさんっ」
「辛そうにしてるじゃないか。せっかく使い魔がいるんだから有効に利用しな、主人さん?」
ケンからレジ袋を受け取った。確かに人間状態で持つのは辛かったが、竜人化した途端羽でも持っているかのように軽くなった。本当は先生みたいに腕だけを竜人化したのだが、まだ練習不足でツノも尻尾も出してしまう。
でもこの姿になっても、道行く人は誰も気にしていないようだった。ミコトの連中に追われていた時は誰も彼もが俺を怖がっていたのに。
あの時は冷たい目や怯えを孕んだ目ばかりにさらされて、とても心細かった。だけど今はそんな目線は感じない。この白いチョーカーが、ケンと交わした契約が、俺をあの視線から守ってくれているのだ。
「……ケン、ありがとな」
「? アナマナさん、何か言った?」
「フフッ、何でもないよ」
夕暮れの街を二人で歩いてアパートへ帰った。家に着くなりケンは買ってきた食材を冷蔵庫に詰め込んでいく。その冷蔵庫の中も家事をするものらしく綺麗に整頓されている。
その後は特にすることもなかったので、少し早めの夕食にしようとケンが料理を始めた。俺はその間に風呂掃除を買って出て、浴槽も壁も床もピカピカに磨き上げる。それを終えて風呂場から出ると、ちょうどケンがテーブルに料理を並べているところだった。おかずは鮭をエノキダケと一緒にアルミに包んで焼いた”鮭の包み焼き”。これもまた文句なしに美味しかった。
「ふぅ、ごちそうさまでした。」
「お粗末様でした。」
「ケンは本当に料理が上手いな。」
「そんなことないよ。普通だよ。さて、僕は食器を片付けておくから、アナマナさんはお風呂に入っちゃって。」
「え? いいよ。それくらい私がやる。ケンが先に入って」
「いいって。アナマナさん今日は疲れてるでしょ? それに掃除してくれたのはアナマナさんなんだからどうぞ先に入って。」
結局二人して遠慮して話が決まらなかったので、じゃんけんで決めた。チョキを出して勝ってしまった俺が先に入り、ケンが食器洗いを担当することになった。
バスタオルを一枚持って風呂場へと向かう。
「…風呂場はうちとほぼ同じなんだよな」
ケンの家の浴室は、前の世界の俺のアパートのものと構造がほぼ変わらず、使い方に迷うことはなかった。蛇口から熱湯と水をいい感じの比率で同時に出して浴槽に溜め、溜まるまでの時間で髪や身体を洗うのだ。女の身体の洗い方なんて分からんから、男の時と同じやり方で気持ち力を抜いて優しく洗う。肌のキメ細かさや髪の柔らかさが俺のものと全然違い、女になってしまったことを改めて実感する。
「…見事に女だ」
ふと浴室の鏡を見ると、水を滴らせる美人の女、”アナマナ”が立っていた。そこに以前の俺の面影はどこにもない。これがこの世界の俺なのだ。
「うぅ~~っ…!」
沈みかけた気持ちを持ち直すために湯船に浸かる。異世界転生してしまった俺だけど、文明が変わらない世界に来てよかったと思う。ファンタジー世界に行ってしまったら風呂がない可能性があるからな。こうやって湯が身体の隅々まで染み渡る感覚を味わうと、日本人に風呂は必須なのだと感じる。
しばらく浸かって身体が十分温まってリフレッシュできたので湯船から出た。身体の水滴をバスタオルで拭き取って、浴室を出るところでふと気づく。
…あ、そういえば着替え持ってくるの忘れた。
「なー、ケン。悪いんだけど着替えを……」
「…………え?」
ガチャリと浴室から出ると、目の前にケンがいた。
手にコップと冷蔵庫から取り出したりんごジュースの紙パックを持っているあたり、食器洗いを終えて一息つこうとしていたんだろう。ケンは浴室から出てきた俺を見てビシッと思い切り固まった。次の瞬間ボンッと顔を真っ赤に染めてすごい勢いで後ろを向く。
「なっ!? ちょっと!? アナマナさん! 何で裸で出てきてるのっ!」
「あ~いやぁ、着替えを忘れちゃってさ。ケンに持ってきてもらおうとしてたんだけど……」
「だったら出てこないでそう言ってよっ! 少し大きな声を出せば聞こえるからっ!」
ケンは怒ってリビングの方へ行ってしまった。
いかんいかん、ついつい男だった時の感覚で行動してしまう。まだ自分が女だという自覚が足りないな。中身は俺でもこの身体は見てくれは美女。健全な男子大学生には刺激が強すぎたか。
ケンが「ほらっ! これ着て!」とリビングから投げてくれた服を着る。部屋着用のゆるいTシャツと短パンのセットだ。以前大きめのサイズを買って合わなかった代物らしく、寝間着になってかつ俺が着られそうな服がこれしかなかったそうだ。
ていうか下着がないから例によって直履きじゃないか。でも言ったらまた顔を真っ赤にしそうだからケンには黙っておこう。余計なことは言わないに限る。
その後ケンも入浴し、後は寝るだけになった。といってもまだ寝るには早すぎるので、ケンは大学の課題に取り掛かり、俺は本棚にある本をペラペラと眺めて思い思いの時間を過ごす。
そうしていたら、あっという間に時間は過ぎていった。夜も更けてそろそろ寝る時間なのだが、一つ問題がある。寝る場所だ。
「私は雑魚寝でいい。ケンは気にせずベッドで寝てくれ」
「いやっ、女性を床に寝かすなんてできないよ! 僕の方こそ床で寝るから、アナマナさんがベッドを使って」
「ケンがこの家の主なのだから気にする必要はない。座布団でも一枚貰えれば私は床でも眠れる。」
「いやっ、でも……」
またしても二人で遠慮し合う。だが、今回は譲るわけにいかない。風呂だってじゃんけんの末に一番にいただいてしまったのだ。ケンにはベッドでぐっすりと眠ってもらいたい。
「じゃあ一緒に寝るか。二人で」
「えっ!?」
だから冗談半分で提案した。着替えや裸であれだけ恥ずかしがってたケンのことだから、こう言えば引き下がるだろうと思って。
「……………うん、分かった」
だというのに、ケンはこれを了承してしまった。耳まで真っ赤にして俯きながらもゆっくりと布団に入る。女性を床で寝かすことと一緒にベッドに入ることを天秤にかけて、一緒に寝ることにしたらしい。
…え、マジで? 絶対選ばないと思ったのに。こいつ意外とやる時は大胆な判断するな。
「…ほら、アナマナさん。入って」
「あ、ああ。分かった」
部屋の電気を消してケンの隣に入り込む。ちらりとケンを見ると、壁側の方を向いて限界まで端に寄っている。少しいじわるしすぎたかもしれない。反省。
真っ暗な部屋の中で、チクタクという時計の音だけが聞こえる。思えばこんなに安らかな時間を取るのは転生してから初めてのことだった。
突然わけの分からない研究所で目覚めて、身体が女になっていて、あてもなく夜の街をふらふらさまよって朝起きたらミコトに囲まれてて、襲われて、追い回されて。
ケンに出会って、この世界について教えてもらって、主人になってもらって、診察室の先生に人工竜のことで驚かれて、秘密にしろと言われて、そしてケンの家に住まわせてもらって、今ここにいる。
ちょっと前までは想像もつかない経験だった。のんびりと大学に通って、友達と遊んで、飯を食って、寝て…。そんな生活が明日以降も続くのだと信じて疑わなかった。
だけど、こんなにあっさりと、原因も分からぬまま何もかも変わってしまった。これから俺はこの世界で、”アナマナ”として、ケンと一緒に生きていく。
「………」
「っ…アナマナさん?」
壁の方を向いて、スマホでネットニュースを見ていたケンの方へ擦り寄って、その少し小さめな背中に顔をうずめた。
思い返していたら、急に寂しくなってきたのだ。あっちに残してきた俺のすべて。
一夜漬けの勉強で何とか赤点を回避したテストの答案、自分に自信を持たせたくて買った自己啓発本、大学で初めてできた友達からもらった誕生日プレゼント、友達と話を合わせるために始めて、結局ドハマりしてやりこんだRPGゲーム。
数は少なかったけど、一緒にいて居心地が良かった友達、講義は適当なくせにテストだけは難しくして人気がなかった教授、育ててくれた両親、喧嘩ばかりだったけど何だかんだ互いを思い合っていた兄弟、たまに集まると子供に戻って遊んだ親戚…。
全部、全部…もう取り戻せないもの…。
今まで全然気付かなかったけど、失ってみるとそれがどんなに大きいものだったか思い知る。
恋しい…寂しいなぁ。心が急速に冷めていく。今にも、砕け散りそうだ。
今の俺を温めてくれるのは、この小柄な主人だけだ。何もしなくていい。ただ少しだけ、このままでいさせてくれ。
__ギュッ…
「…………え?」
そう思ってたのに。いつの間にかこちらに振り返ったケンは俺の顔を胸に抱いて抱きしめてくれていた。ゆっくりと、優しい手つきで俺の頭を撫でてくれる。
「大丈夫ですよ…。大丈夫…」
「…うぅ、ぐすっ……ひっく…………」
ケンは何も聞かなかった。ただひたすら”大丈夫”と、俺を安心させる言葉を言って俺を温めてくれた。
その時俺は、ケンに守られていた。
人間を超えた力を持つ竜人だとか、主人を守る使い魔だとか、そんなこと関係なく。
心を凍えさせていた俺を、しっかりと抱いて、これ以上冷えないように守ってくれていた。
ああ…主人……主人…ありがとう。
俺は…私は…アナマナは、君を守るよ。君がくれたこの温かさを、生涯大事にしたい。
君がいつでも笑っていられるように、このじんわりと心地よい温かさをずっと感じていられるように、俺は君の使い魔として全力で守る。
お休み、ケン。俺の愛しい、大事な主人…。
『街郊外にて火事が発生! 建物が全焼! その研究所らしき建物の詳細は不明!』
スマホの画面でそんなニュースが表示されていたことに、俺達は気づかなかった。