第3話 抜け駆けなんて許さないわよ
「話は聞かせてもらったわ」
そう声を発し、体育館の角から姿を現したのは花香さん。
「つぐみさん、あなたにだけいい思いはさせないわよ?」
いつものようにふわっと巻かれた髪を撫でつけながら、つぐみに向かって告げた。
「はっ? 宇都宮さん、どういうことですか?」
突然の乱入につぐみはすっかり目を丸くしている。
俺にも何が何だかさっぱり分からない。
花香さんは戸惑う俺たちの間に割って入る。
「抜け駆けなんて許さないわよ」
「なっ、わたしが抜け駆けしてるって言いたいんですか? それって、どういうことですか?」
「分かるでしょう? 私も碧人くんのことが好きなのよ」
「……っ。でっ、でも宇都宮さんとアオくんはまだ知り合って一年ちょっとしか経ってないじゃないですか? そんな短期間に好きになるなんておかしくないですか?」
顔を真っ赤にして抗議するつぐみに、花香さんは冷静に応える。
「あら、一緒に過ごした時間の長さなんて関係ないでしょ。大切なのは、長さじゃなくて密度よ。ねぇ、碧人くん?」
えぇぇぇぇっ?
この流れで俺に話を振ってくるの?
どうする?
どう応えるのが最善なの?
俺は必死になって頭を回転させる。
花香さんに好きだと言ってもらえるのは、もちろん嬉しい。
ただ、勇気を出して告白してくれたつぐみの目の前で花香さんにデレデレしてしまうのは、つぐみに申し訳ない。
けれど、俺のことを好きだと告白してくれた花香さんの気持ちも無下にはできない。
二人の思いにちゃんと向き合うには、俺はどうすればいいのだろうか?
……
…………
………………分からん。
分かるはずがない。
できることなら、この場から逃げ出して、今あったことを全部なかったことにして、つぐみか花香さんのどちらかだけがいる場で告白をやり直したい。
だって、どちらかを選ぶなんて簡単にできることじゃない。
先に告白してくれたつぐみを選ぶべきなのか、それともこの一年で濃い時間を過ごしたと言ってくれた花香さんの気持ちに応えるべきなのか。
そもそも俺のことを好きだと言ってくれる二人が目の前にいる状況で、どちらか一人の告白に返事をするのは正しいことなのだろうか?
考えても考えても簡単に答えを出せそうにはない。
でも、そんな風に逡巡する俺を花香さんは許してくれない。
「どうしたの碧人くん? そんなに難しい質問じゃなかったでしょう?」
そう訊ねてきた花香さんに対して何も言えない俺を見かねて、つぐみが花香さんに声を上げる。
「もうっ、アオくんが困ってるじゃないですか?」
花香さんは「そうね」と人差し指を唇に当てて何かを考える素振りを見せるが、すぐににこっと口角を上げる。
「じゃあ、この場は私が引き取るから、とりあえずつぐみさんは帰ってもらえるかしら?」
「なっ! そもそも告白をしたのはわたしが先なんですけど?」
なおも食い下がるつぐみに、花香さんは眉をピクリと動かす。
わざとらしく「はぁ」とため息をついてから口を開く。
「……できればこういったことは言いたくないのだけれど」
「何ですか?」
「生徒会長は風紀委員長の任命権を持っていることを覚えているかしら?」
「ひっ、卑怯ですよっ!」
声を荒げ、つぐみは花香さんを指差す。
さすがにこの花香さんの言葉は、あんまりだ。
えこひいきはしたくないけど、この場面ではつぐみを擁護させてもらおう。
「花香さん、つぐみの言う通りですよ。人事権を持ち出すのは、ひどいと俺も思います」
けれど俺の訴えを聞いても花香さんは落ち着き払っている。
「いいえ」と大きく首を横に振る。
その拍子に花香さんの髪から漂ってきた甘い香りが俺の鼻をくすぐる。
密かにドキッとする俺に構わず、花香さんは続ける。
「この学校の決まりは碧人くんも知っているでしょう?」
この流れでそう言うってことは?
「……三権分立のことですか?」
俺の問いかけに花香さんは頷く。
「そうよ。この学校は生徒会、風紀委員会、専門委員会の三つの組織がバランスを取り合って運営されているのよ。学園長の方針で生徒に大きな裁量を持たされているのよね」
「いや、それは分かりますけど、プライベートは関係ないんじゃ?」
「原則としては、そうね」
「なら――」
反論を続けようとする俺を、花香さんが遮る。
「けれど、理性と感情を完全には切り離せないように、公私もきれいに分けることはできないでしょう? もしここで私がつぐみさんに譲歩してしまえば、きっと仕事でもそういう場面が出てくるわ。そうなれば学校の運営にも支障をきたしてしまうでしょうね」
訥々と持論を述べる花香さん。
正直言って、全てに納得できるわけじゃないけど、全てを否定することもできない。
つぐみもすっかり俯いてしまっている。
何も言えない俺たちと対照的に花香さんは喜色を浮かべている。
すっと俺との距離を詰めたかと思うと、俺の右手を両手で包み込んできた。
その指先はひんやりしているけれど、少しだけ湿っている。
これって、もしかして?
「分かる?」
花香さんは俺を上目遣いで見つめながら言葉を継ぐ。
「偉そうにしゃべっているけれど、私も緊張しているのよ。だって、私が碧人くんを好きだっていうのは、本当の気持ちだから。碧人くんなら、分かるでしょう? 私が嘘をついていないってことを」
「……はい」
嘘をついていないってことは、能力のおかげで分かるし、それに真剣なまなざしを見れば花香さんが俺に向けてくれる気持ちの強さがどれほどのものかは十分伝わってくる。
「だったら、私を彼女にしてくれないかしら?」
さっきまでとは打って変わって、花香さんはか細い声で不安げに告げた。
一日に二度も告白されることが俺の人生であるなんて、全く想像していなかった。
けれど、逆に二度目の告白ともなると少しは冷静に対応できる。
つぐみにしたのと同じ質問を、俺は花香さんに投げかける。
「花香さんの気持ちは分かりました。けど、どうして俺なんですか?」
花香さんはフフっと柔らかく微笑み、口を開く。
「去年の生徒会長選挙の演説の日のことを覚えているでしょう?」
もちろん、忘れることなんてない。
それほど俺にとっても印象深い出来事だった。
静かに首を縦に振る俺を見て花香さんは続ける。
「あの時、私は対立候補の生徒に、テストでカンニングをしたことがあるという疑惑をでっち上げられたのよ」
「……そうでしたね」
「そう。やっていないことをやっていないと証明するのは難しいことなのよ。その悪魔の証明を求められた私は、壇上で途方に暮れてしまった。……それを救ってくれたのが碧人くんだったわね。突然、私の横に立って『この人は絶対にそんなことをしない。嘘をついていないのは俺には分かる』って声を荒げて」
「出過ぎた真似をした、と思ってます。俺が助けなくても花香さんなら自力でなんとか切り抜けられたはずだったのに」
そう言う俺を見て、花香さんは「そういうところよ」と表情をさらに柔らかくする。
「そういうところに、私は心惹かれたの。人を助けるためなら後先考えずに動いてしまう碧人くんが、私は好きなのよ」
「……それは、わたしも分かります」
俺と花香さんの隣で黙ったまま話を聞いていたつぐみも、悔しそうに同意する。
「だから、返事を聞かせてほしいの」
花香さんは俺の右手を掴んだまま両手を胸の前まで上げる。
何か言いたそうで、でも何も言えないつぐみのことは全く気にせず、切れ長の琥珀色の瞳が俺を見つめている。
これほどまっすぐに気持ちをぶつけられると、俺もいい加減なことは言えない。
つぐみには悪いけど、花香さんが言った通り学校の三権分立のバランスを保つには、やっぱり花香さんと付き合うのがいいのかもしれない。
俺は意を決して口を開く。
「分かりました。俺は――」
花香さんと付き合います、と応えようとした時だった。