幡野藤
幡野藤は、母から自室で待機するよう命ぜられていた。
理由は、くちごたえしたから、だ。藤の家では、親に逆らうことはゆるされない。藤は過去に一度、抵抗しているから、母は小さなことでも藤の意見を潰すようになった。
流星群を見に行きたい、という、小さな願いでも。
藤は本を開いて、目で文字を追っている。しかし、内容は頭にはいらない。
流星群は明後日、正確にはその次の日の朝はやくに、この藁積町から見ることができる。めったに見られるものではないものだとかで、ニュース番組でとりあげられていた。
藤は生徒会副会長だ。生徒会の仕事で、職員室へ行くことは多い。放送部から機材購入の申請があり、申請理由が納得できるものだと生徒会で判断して、書類をつくって学校へ提出した。藤が職員室へ持っていったのだ。
その時、職員室のテレビで、流星群のことをやっていた。藤は家では自由にテレビなんて見られない。映画を見ることはゆるされているが、それも親が、藤にとって害のないものと判断した場合だけだ。ニュース番組は見せてくれない。学校で、授業の教材として見たくらいだ。
流星群、という言葉を耳が拾ったのは、春風公園のおまじないを知っていたからだ。
幾ら両親でも、学校で友達から聴く話まで制限はできない。藤は、春風公園で流れ星、もしくは流星群を一緒に見たふたりは、結ばれる、というおまじないを、生徒会の後輩から聴いた。副会長にはそういうお相手はいないんですかといわれて、七海さんかしらと答えたら、変な顔をされた。そうではなくて、男の子のことだそうだ。
自分にとって、一生離れたくない男の子、と考えた。同級生の一郎丸颯佑が思い浮かんだ。一郎丸とは、一生、親しい友人で居たい。
でも、結ばれるというのは、恋とか、愛とか、そういう意味だそうだ。関係が強固なものになる、という意味でもあるのじゃないかしら、と、藤は考えた。少なくとも、互いが互いにとって特別な存在になるというのなら、一郎丸と一緒に流星群を見たい。
一郎丸に対する気持ちは、藤自身、どういうものか分類しかねている。一生、親しくしていたいし、一郎丸の哀しい顔は見たくない。一郎丸がけなされたら腹がたつ。泣いてしまう。
でも、それが恋なのか、愛なのか、単なる友情なのか、よく解らない。
ただ、一生、自分が自分である限り、彼と離れたくないというだけだ。
一郎丸と、七海は、藤の小学生時代からの友達だ。
七海はとても、可愛くて、優しい。つい、きついものいいをしてしまう藤を、悪く思わないでくれる。いつもにこにこしていて、七海の傍に居ると、藤はやわらかい気持ちになる。七海のほうが小さいし、数ヶ月歳下だけれど、藤にとっては姉のような存在だ。だから、一生、いい友人で居たい。
でも、最近は、七海と居ると落ち着けない。それはまるきり、藤の責任なのだけれど、自分のよくない面に目が行ってしまうのだ。七海のようにはなれないという劣等感で、体中の骨が溶けていくみたいな心地がする。七海のように、可愛らしくて、優しくて、家庭的な女性にはなれない。
一郎丸と七海が話しているのを見るのも、このところ、心がざわざわして、いやだった。
一郎丸は、はじめ、藤を苦手としているようだった。同じクラス、隣の席になった時、明らかにいやがっていたし、会話もほとんどなかった。
藤はしかし、一郎丸となかよくしたいと、ずっと思っていた。一郎丸はとても、綺麗な顔をしているのだ。左頬や首の火傷痕さえ、そういった意匠のように見えた。神さまがつくった、芸術作品だ。
今でも、一郎丸はとても綺麗だと思う。姿形だけでなく、心根も。
一郎丸につきまとっている自覚はある。藤にとって一郎丸は、ほかのなににも代えがたい。七海もそうだが、どうしても一郎丸と七海のどちらかをとらないといけないとしたら、一郎丸をとる。
藤はノックの音で、はっと目を覚ました。いぎたない。ソファで眠ってしまっていた。
髪を整えながら体を起こし、扉へ向かった。七海のような綺麗な黒髪に憬れて、伸ばしているのだけれど、藤の髪にはきつめの癖がある。七海のように、清楚でお淑やかな内面がそのまま出ているような、まっすぐで美しい黒髪には、なってくれない。
扉の向こうには、家政婦が居て、食事の時間だといわれた。
広間は静かだった。居るのは藤と両親、配膳の家政婦だけだ。たまに食器がかちゃりと音をたてるが、会話はない。
藤は流星群のことを切り出そうか、なやんでいた。だめかもしれないが、七海や鶴城も一緒だといったら、母は納得するかもしれない。特に鶴城は、幡野や一郎丸程ではないが、歴史の長い家だし、そこの長男も一緒だといえば……。
「藤」
「はい、お母さま」
「理由があってもなくても、七時以降の外出はゆるしません」
母は藤が、流星群のことを考えている、と解ったらしい。藤は俯く。膝の上で、ぎゅっと拳をつくる。こういう時、逃げ出したくなる。なにもかもから。
一郎丸くんが居てくれたらいいのに、と思った。彼は強いひとだから、一緒に居たら自分も強くなった気になれる。立ち向かう勇気が出る。彼が居ないと、こうやって、わたしは逃げてばかりいる。
藤は小さな声を出す。
「朝の四時に」
「でかけるような時間ではありません」
その一言で、反論は封じられた。母はそれ以上なにかいうことはなく、父も無言だった。藤も黙る。去年、藤が医師を目指すと宣言してから、父母とはぎくしゃくしている。
藤は自室のベッドにうつぶせになって、じっとしていた。気分がよくない。七海や一郎丸に、自分がどれだけ不当な扱いをされたか、喚いてしまいたい。
藤はケータイを持っているが、家に居る時は手許にない。そもそも、家と両親、生徒会のメンバーの番号しか登録していないし、毎日チェックされるから、一郎丸や七海と連絡をとることはできなかった。家でいやなことがあっても、だから藤は、次の日にならないとふたりに喋れはしない。その頃には、喚くのははずかしい気がして、結局いわないことがほとんどだ。
父母は、七海のことも、一郎丸のことも、あまりよく思っていない。特に、一郎丸に対しては、マイナス方向の感情が強く、あると思う。
七海は、両親ともこの地方の出身ではない。幡野の人間は、排他的だ。ここのやりかたに慣れていないよそ者は嫌う。だが、七海自身は、幼い頃から藁積町に住んでいる。だから藤の両親は、七海を嫌っているというよりも、七海の親を嫌っている。
一郎丸はそういうのとは違う。幡野と並ぶ名門である一郎丸家の血をひいていて、それも本家の子なのに、父親もろとも家を出されているからだ。
一郎丸の母にあたるひとが、一郎丸家の家来だった家の生まれだから、だそうだ。主筋とそういうことになるのは、大変な不敬だそうで、一郎丸家は一郎丸颯佑を認めない。幡野家もそうだ。
ただ……藤は、知っている。両親が、そういう、生まれそのものに瑕疵があると判断しているくせに、一郎丸を藤から強硬に遠ざけようとはしない、理由を。
それを知ったのは、小学校を卒業する直前だ。両親と、父の部下との会話を、偶然耳にした。一郎丸の兄にあたる人物が、病気がちで、長生きはできないかもしれない、と。
その話はまったく感情を交えずに行われていた。ひと、ひとりが、それも子どもが、長くは生きられないかもと、そういう内容の会話なのに、だ。
その上、母が少し、嬉しそうにいった。嬉しいといっても、大喜びするようなものではない。天気予報が正確にあたって、その通りに対策していたから助かった、とでもいうような、軽い嬉しさだ。
藤と一郎丸の子との付き合いを黙認していてよかった、あの火傷の子が跡を継ぐかもしれないから、と。
一郎丸の兄にあたるひとが、実際どれだけ体が弱く、どんな情況なのか、藤は知らない。でも、死んでほしくなかった。一郎丸が怒るからだ。
一郎丸は今まで、一郎丸家から追い出されていることで、散々いやな思いをしてきたのだ。火傷痕のことでも、一郎丸家に絡めて、からかわれたり、いやなことをいわれたり、している。
もし、一郎丸の兄が死んだら、そうして一郎丸がそのひとの後釜に座ったら、みんなてのひらを返すだろう。今までどれだけ、一郎丸に負担をかけ、いやなことをいい、ないがしろにしてきたかも忘れて。
いや、そういったことを覚えたまま、一郎丸に優しくし、おべっかをつかい、ほめそやす。一郎丸をもてはやし、藤との仲をとりもとうとする。
一郎丸は怒るだろうし、傷付くと思う。彼は誇り高いひとだから。
そうなって、藤と一郎丸との間に婚約の話が持ち上がったら、一郎丸は藤を拒むだろう。
それを考えると死にたくなる。
藤はよく眠れなかった。
翌日、七海には、流星群の計画が頓挫したと伝えた。彼女ははげましてくれた。藤はなんだか、びりびりと、肌が痛いような感じがするのを、不快に思っていた。
一郎丸と、流星群を見たかった。
藤は来年の留学を、とりやめると決めた。もともと、父母は反対していたから、藤が留学を辞めるといってもとめないだろう。なんだかいやな感じがする。よくないことが起こる気がする。
一郎丸とのたしかなつながりがほしい。絆が、どうやっても断ち切れないしがらみが、関係を強固にするなにかが、ほしい。どうしても。
藤はおそれている。一郎丸の兄との婚約を。
ずっと前からあった話なのだそうだ。家政婦のひとりが、教えてくれた。藤にはそういう味方は居る。一郎丸や七海と会うのを助けてくれる味方が。
一郎丸の兄は、今、大学生だ。未だに体は弱いそうだけれど、すぐにどうにかなるようなことはない。ただ、決して油断はできないので、一郎丸家でも幡野家でも、慎重に状況を見ている。
藤とそのひととの婚約は、藤が五歳の頃に、一度決まりそうになった。一郎丸の兄が体調を崩して長期入院したので、話が立ち消えになった。それ以来ずっと、その話をむしかえすひとは居なかった。
だが、一郎丸の兄が大学まで進めたので、藤との結婚が現実味を帯びてきた。一郎丸の兄は、成人できないだろう、といわれていたらしい。それが、まったく元気とまではいかないが、成人できた。だから、もう大丈夫かもしれない、と。
藤は逃げたい。今でも、ずっと、逃げたい。
一路丸の兄に死んでほしくはない。どんな理由でも、一郎丸から拒否されるのは恐怖でしかない。
でも、一郎丸の兄が死ななければ、自分がそのひとと結婚する。
だから逃げたい。
一郎丸との絆がほしい。
一緒に帰ろうと、一郎丸を誘った。藤は、流星群の話をした。見に行けなくなったと伝え、謝った。
車のなかで、一郎丸は元気がなかった。少し、沈んだ様子で、窓の外を見ている。藤と目を合わせたくないらしい。自分の存在が迷惑なのかもしれないと、ふっと頭をよぎる。それは、いつものことだ。いつだって、一郎丸にとって自分が不快な存在なのではないかと考えている。不快で不要な。
一郎丸がどうして自分に優しくしてくれるのか、解らない。
解らないから、いつこの関係が失われるかと、不安になる。
「幡野」
「ええ」
藤は、向こうを向いた一郎丸の、顎の線を見ている。本当にこのひとは、どうしてこんなに綺麗なのかしら。
「お前の家、山のほうだし、家からでも見ろよ。流星群」
藤は下唇を軽く噛む。涙をこらえている。自分が不甲斐ないし、家は年々煩わしくなる。親は日に日に不愉快になる。
「見ないわ」
「どうして?」
一郎丸がこちらを向く。一郎丸と、ふたりで見たかったから、だ。そういう、子どもっぽい、幼い理由だ。
子どもでしょ、わたし達。七海はそういった。彼女は、余裕がある。凄く。
藤は目を伏せる。「ひとりで見たって仕方ないわ」
「俺は見に行くぜ」
どきっとした。
一郎丸と七海がふたりで春風公園へ行くかもしれないと思った。
七海が羨ましくて、自分の浅ましい心持ちがゆるせなくて、藤は息を停める。七海は断ったといっていたけれど、一郎丸がどう考えているか、解らない。
七海と一郎丸がこれ以上親しくなるのはいやだ。どうしてだか解らないけれど。
そんな気持ちもいやで、ふたりから逃げたくなる時もある。
一郎丸は微笑んでいる。
「春風公園、すぐだからさ。走ってくよ」
「……そう」
「俺はそっちで見るから、お前は家から見たらいい。それなら、ひとりじゃないのと一緒だろ」
一郎丸を見詰めた。彼はその言葉が、藤の気持ちを和らげたことに、気付いていない。
藤は頷いた。七海に対して申し訳ない気持ちで、いっぱいだった。
流星群の前日、おそれていた話をされた。
夕食の席で、父がいったのだ。「藤、今度の日曜に、一郎丸家と食事をする」
「……はい、お父さま」
これは通達であって、意見はきかれていない。だから藤は、余計なことを口にしない。
母がいった。
「涼介さんもいらっしゃるそうよ。覚えてるかしらね、藤? 前会った時は、あなたは小さかったから」
藤は答えない。一郎丸の兄については、おぼろげな記憶しかない。一郎丸と違って、はかなくてもろい、危うい雰囲気のひとだ。まるで本当は存在していないみたいに思えて、こわかった覚えがある。
そういうひとと結婚するのは、つらいことのように思えた。
「藤」
食事が終わって、両親に挨拶し、廊下へ出ると、母が追ってきた。「はい、お母さま、なんでしょう」
藤はたちどまって、母を仰ぐ。母はその辺の男性よりも背が高く、だが屈んで藤と目を合わせるようなことは絶対にしない。
母は微笑んでいた。
「あなたのクラスに、鶴城のかたが居るそうね」
「……はい」
「なかよくしておきなさい。損にはならないわ」
母は踵を返し、藤は頭を下げる。広間への出入り口の前で、母がたちどまり、振り返らずにいう。「それから、約束はまもりなさい」
藤は答えなかった。答えは期待されていなかった。命令だからだ。
医師を目指すといった藤に、両親は猛反対した。幡野の家は、商売をしてきたのであって、そういう仕事は認められない。
そもそも藤の人生は、すべて決まっているのだ。幡野中学、幡野高校、幡野大学と進んで、幡野海運に入社し、家柄のいい男性と結婚して幡野家に迎える。いずれは父母の跡を、その男性と一緒に継ぐ。子どもをつくる。
それは、予定ではなくて、義務だ。
だが藤はひかなかった。初めて、両親に逆らった。
何故医師になりたいか、の説明を求められることはなかった。どんな説明でも、両親は受け容れるつもりがないからだ。
頑なに医師になりたいという藤に、両親は条件を出した。
幡野大学の医学部受験を失敗したら、医師は諦めること。
医師になってもならなくても、両親の認めた相手と結婚すること。
条件の二番目は、医師云々がなくてもそうだったことだ。藤は頷いた。確約されてしまった自分の将来が、酷くくらいものに思えた。
医師になりたいのは一郎丸の為だ。
一郎丸の顔の火傷痕を、治したい。
ほかの部分は、お金さえあればなんとかなる。でも、左こめかみの火傷痕だけは、損傷の程度が酷すぎて、どうしようもない。そう、一郎丸の義母が泣いていたと、運転手から聴いた。
一郎丸は、あの火傷痕がある限り、見も知らぬひと達からじろじろと顔を見られる。知り合いでも知り合いでなくても、一郎丸の火傷痕のことを喋る。
それがいやだ。一郎丸の価値は、火傷痕のあるなしではゆるがない。
一郎丸の火傷痕を治したい。それだけだ。それ以外に理由はない。
藤は眠った。眠って、すぐに目を覚ました。まだ日付はかわっていなくて、藤は洗面所で顔を軽く洗い、うすぐらい廊下をひたひたと歩いた。
一瞬、家をぬけだして春風公園へ行こう、と思ったが、辞めた。そこで一郎丸に会えたとしても、後で彼に迷惑をかける。藤が家をぬけだした原因が一郎丸だということになれば、父母は怒るだろう。一郎丸の兄と婚約しそうになっている藤が、そんなことをすれば、一郎丸家を怒らせる。
しわ寄せは一郎丸にいく。彼に迷惑をかけたくない。
藤は部屋に戻り、ふらふらと窓に近寄った。そっとあける。蝶番が、きしきしと不快な音を立てる。
くらい室内からは、夜空は明るく思えた。紫がかった濃紺に見える。そこに、星がきらきらと瞬いている。
しゅっと、ごく短い時間、光が走った。流れ星だ。藤は時間をたしかめる。まだ、四時には遠い。せっかちな星が居たらしい。一郎丸は見ているだろうか。もう、春風公園に、居る?
藤はクローゼットから、ウールのカーディガンをとりだして、羽織った。
星は流れていく。
いつもの空より、流れ星は多いのだろうか。藤は普段夜空なんて見ないから、解らない。
それでも、星はまるでいたずらするみたいに、ぼんやり夜空を見上げる藤の視界で、たまに走った。しっかり見ようと思うともう居ない。素っ気なくて、そしてなんだか快かった。
少なくとも流れ星は、藤の言動にめくじらを立てないし、藤に干渉しない。藤が流れ星に干渉できないように。
三時半を過ぎて、流れ星はもう少し、増えた。
バルコニーに出て、手すりに凭れ、藤は、前もこんなことをしていたような気がした。
いやな気分で夜空を眺めていたのに、段々と落ち着いてくる。そうして、欠伸をして、ベッドに戻る。
そう思った時に、欠伸が出た。藤はちょっと笑って、頭を振りふり、ベッドへ戻った。
夢を見た。
大人になって、鶴城、あのひょうひょうとした転校生の鶴城在人が、七海と結婚するのだ。藤はそれを複雑な気分で見ている。自分にない自由を持っているふたりを羨んでいる。鶴城の妹も、誰かと結婚する。藤はそれを羨む。
藤は一郎丸と手をつないで、電車にのっている。電車にのるのは禁じられているのに。
ふたりは黙って、鞄を手に電車を降りる。
せまくるしい家で寝起きする。どちらも働きに出て、藤は苦手な料理をして、一郎丸は何故だが靴下を繕っていて、一緒の布団で寝る。一郎丸は藤に優しい。とても。
それから、藤は妊娠する。一郎丸との子どもだ。ふたりは喜ぶ。子どもが生まれて、籍をいれる。こうなったら両親にもどうしようもないと藤は考えている。
はがきを書く。
苦手な硬筆で、自分と一郎丸が結婚したこと、子どもができたことを、書く。
三枚だ。一枚は、鶴城達へ。もう一枚は、鶴城の妹へ。最後の一枚は、一郎丸の義母へ。
目が覚めた。藤は泣いていた。
胸のなかになにかがわだかまっている。つかえている。
藤は、頭のなかがごちゃついて、なにも考えられない。夢の内容はほとんど忘れた。一郎丸とどこかの町に住んでいて、一緒に、鶴城へはがきを出していた。訳の解らない夢だ。
逃げたい願望があらわれている。
登校中、車の窓から一郎丸を見付け、藤は息をのんだ。一郎丸は前髪をヘアピンで留め、火傷痕をさらしていた。
「とめて」
「は? 今、なんと」
「いいから車を停めなさい!」
母そっくりのものいいだ。藤は自己嫌悪に吐き気がしてくる。
運転手は車を停めた。藤は車から降りて、一郎丸へと走る。自分がなにをいっているのか、なにをしようとしているのか、解らない。
一郎丸の髪からヘアピンをぬくと、ほっとした。
火傷痕が覆われて、見えなくなって、安心した。
一郎丸の火傷痕が好奇の目にさらされるのはいやだ。
なにを考えているのだろう。
死にたくなった。一番、一郎丸の火傷痕を気にしているのは、自分だ。
生徒会の集まりがあった。書記がひとり、転校してしまうので、適当な人物を見繕おうという話だった。鶴城がいいという話になって、藤は昼休み、鶴城をつかまえて生徒会の話をした。
そうしながら、考えていた。
自分は一郎丸のことをどう思っているのだろう。都合のいい、飾りものかなにかとでも、考えていたのじゃないの。
一郎丸と下校した。話していて、藤は自分を絞め殺したくなった。
一郎丸くんの為?
そうではない。わがままだ。自分のわがままなのだ。
一郎丸の顔に、火傷の痕が残っていたら、両親や親戚が認めてくれない。そう思っている。
あってもなくても認めないのに。
わたしは一郎丸くんが好き。
そして、一郎丸くんに相応しくない。
日曜日は訪れた。それまでに隕石でも降ってこないかと思っていたのに、時間はきちんきちんと進んで、藤はホテルのレストランに居た。
藁積近くの、観光名所だ。海沿いのホテルは景色がよく、ロビィからまっしろの砂浜に出られる。藤はそこの海が好きだ。気分が沈んだ時に、見に来る。家の車で移動して、眺めて、帰るだけだ。ひとりで遠出する分には、父母はなにもいわない。行き帰りで課題をこなしているから、成績が落ちるようなこともない。
藤は幡野中の制服姿だ。父母はその格好に文句をつけなかった。
食事は、なにを食べたか解らないうちに終わった。藤は、はいとか、いいえとか、光栄ですとか、そういったことばかり喋った。
一郎丸家から来たのは三人だ。一郎丸の祖父にあたる人物、一郎丸の父親のもとの妻、そして一郎丸の兄。
記憶にあったとおりだった。藤はそのひとがこわかった。はかなくて、もろくて、たんぽぽの綿毛のように風で飛ばされてゆきそうだった。
藤はそのひとと向かい合って、ロビィのソファに座っていた。
藤の両親と、一郎丸家の残りふたりは、どこかへ行った。これは実質的には、藤と一郎丸の兄、涼介との、お見合いだ。ふたりにして、話をさせようということだろう。
涼介は黙っていた。白髪のまざった髪をしている。癖があるのは、一郎丸に少し似ていた。顔の造作は違う。
穏やかで遠くを見ているような目は、くっきりした二重で、目と眉の間隔が開いている。一郎丸は一重だ。
肌の感じも違った。鼻の形も違う。歯並びも違う。唇も違う。全部ぜんぶ違う。
向かい合って座っていると、一郎丸との違いばかり目につく。
でも、声だけは少し似ていた。ほんの少しだ。
「藤さんは、聡明なかたですね」
藤は黙って、小さく頭を下げる。涼介は微笑んでいる。
「欠陥のある男はお嫌いですか?」
「……どういう意味でしょう」
「僕は、そう長くないみたいなので」
返答に詰まる。藤は膝の上でぎゅっと、拳をつくる。涼介はにっこりする。「中学生のお嬢さんに、きついことをいってしまったな。ああ、冗談ですよ。僕は長生きしたいんです。一郎丸の家は、僕が継いで、毛色のいいお嬢さんをもらって、跡継ぎをつくってからでないと、死ねませんよ」
「……涼介さんは、健康に見えますわ」
「お世辞をありがとう」
涼介は少しだけ、声をたてて笑った。藤は笑えない。顔も上げない。
涼介は骨張った手をしている。無駄な肉なんてついていない。それだけの体力がない、という感じを、藤はうける。
「藤さん、あなたとの話はなかったことにしたいんです」
「え?」
「僕にはあんまり、時間がないので、あなた相手だと目的を達成できそうにありません」
涼介の声は、先程より、低かった。藤はちらっと、涼介の顔をうかがう。微笑みは消え、なにかを悼むような表情になっていた。
「それは……」
「さっきもいったでしょう? 僕は、跡継ぎをつくってから、死にたいんです」
涼介は無理矢理のように、口を笑みの形にした。「可哀相な弟に、これ以上負担をかけたくないのでね」
「……弟、ですか」
「ごぞんじでしょう」
藤は口を噤む。
暫く間があって、涼介がいった。
「あなたと仲がいい、僕の弟の、一郎丸颯佑ですよ。あの子は僕の所為で、相当苦労しているみたいだから」
「……だから、彼が一郎丸家に絶対に戻れないように、ご自分が跡継ぎをつくるんですか」
声が尖った。藤は前髪越しに涼介を睨んだ。涼介は自然に微笑んだ。
「ええ。こんな、窮屈で、自由のない人生、いやでしょう? それに、自分を利用しようともくろむ人間から逃げるなんて手間のかかること、可愛い弟にさせたくないのが人情ですよ。まあ本当に弟かどうかは怪しいんですがね。僕の母は一郎丸の人間なので、一郎丸家にしてみればそんなことはどちらでもかまわないらしい」
藤は顔を上げた。
「僕は遺言状を書いてるんですよ、藤さん」
「い……」
藤は絶句したが、息を整えた。このひとは、訊いてもらいたいのだろう。
「どのような、内容ですの」
「僕のものは弟の一郎丸颯佑に譲ると」
涼介は笑った。「でも、おかしな話ですよ。僕のものなんてほとんどありゃしないんだ。大概は一郎丸家のものですから。なにより僕が、家のものなんですよ」
藤は、両親より先に、車で帰った。
涼介は、藤は子どもで気にいらないというつもりだそうだ。
一郎丸に、涼介のような表情になってほしくない、と思った。
そう思ったら、車のなかで藤は泣いていた。
鶴城の妹が重い病気で入院し、藤と一郎丸も見舞に行った。鶴城の前の学校の友達が見舞に来ていて、そのなかに留島家の人間が居た。涼介より余程一郎丸に似ている、留島アンリという子だ。
留島は、鶴城の妹のいつきに優しい。なんとなく、一郎丸に似た言動だった。自分もいつきのように素直になれたらなと思った。ふたりが羨ましかった。
「だから、今度は一緒に見よう。いつかは凄いのが見られる筈だから、何度でも、一緒に」
一郎丸は藤の手を持ち上げ、左のこめかみへ触れさせた。
「どうして医者になりたいのか、その時教えてくれ」
にこっとして、一郎丸は踵を返す。藤はその後ろ姿を見送る。車が出ていく音がする。
医者になりたい理由。どんな嘘を吐こう。
本当のことをいったら、彼はどう思うだろう。
ばかにするなと怒るだろうか。
次の日、藤は、あさはやくに学校へ行き、一郎丸を待った。一郎丸はまるで藤の気持ちが解ったみたいに、はやくに来て、玄関前の藤を見付けた。藤は一郎丸を、屋上へ誘った。
空は晴れ渡っていた。明るいから見えないけれど、今も空のどこかで、星は流れているのだ。
とても沢山。
「一郎丸くん」
「ああ」
藤は柵に両手を置いて、隣の一郎丸へ笑みを向けた。空を指さす。「今も、星は流れてるのよ」
「……そうだな」
藤は笑みを崩さない。一郎丸は表情を曇らせる。
「なんか、あったのか」
「……そうね。あなたのお兄さんと、お見合いしたわ」
でも、というよりはやく、藤は一郎丸に抱きしめられていた。藤も彼の体をきつく抱く。
「幡野。俺の兄貴と、」
「だいじょうぶ。だいじょうぶだから。断られたわ」
「趣味の悪いやつだ」
一郎丸は苦々しげにそうくさす。藤は頭を振る。一郎丸の匂いがする。「あなたのこと、心配してらしたわ。自分が死んだら厄介な立場に置かれるだろうと」
藤は涙をこらえる。一郎丸が苦しそうに一度、喘いだ。
「ねえ、そんな話をしたいんじゃないの。わたしがどうして、医師を目指しているか、……」
「いいよ」
一郎丸は低い声でいう。
「そんなのはもうどうでもいいんだ。あんなの、お前と会いたいが為の口実だ。ほんとにいいたかったのは、そういうことじゃない」
藤は、聴くのがこわくて、喚いた。「わたしあなたが好きなの。だからあなたの、火傷の跡、治したくて」
後は言葉にならなかった。俺も好きだよと一郎丸がいったからだ。




