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一郎丸颯佑


「流星群か」

「ええ」

 幡野藤は低めの、落ち着いた声で、いった。「凄く沢山、流れ星を見られるんですって。だから、みんなを誘って、一緒に行きましょうよ、春風公園」

「みんなって?」

「ええっと……七海さんとか、鶴城くんとか……」

 幡野は語尾を曖昧にして、微笑んだ。小首を傾げている。今年にはいってから、幡野はいきなり背が伸びた。ほとんど俺くらいあるよな、と、颯佑はぼんやり考える。

「一郎丸くん?」

「ああ、悪い。ちょっと考えてたんだ」颯佑は前髪を耳にかける。「俺はいいぜ。朝の四時だろ? 春風公園なら走ればすぐだし」

 幡野は大袈裟ににっこりした。颯佑は、自分が失敗したことに気付く。幡野は、颯佑の左こめかみにある火傷痕を見ると、とても動揺する。「ごめん」

「え? なんのこと?」

「……ぼーっとしてさ。流星群楽しみだな。弁当でも持っていくか」

 幡野は嬉しそうに頷いた。


 幡野は、みんなにはわたしから話しておくから、といっていた。颯佑はそれを承諾した。幡野に自由に、好きなことをしていてもらえるのは、なんだか気分がいい。彼女は自由で、なににも縛られず、幸福であるべきだ。

 幡野藤。この辺りで、一郎丸家と並ぶ名門、幡野家の、ひとり娘。両親とも、幡野中学校・高校の理事で、父親は学校の運営母体である幡野海運の創業者一家出身。その娘の藤は、将来家を継ぐと目されている。


 幡野藤自身は、成績はよく、ぱっと目をひく華やかなタイプの美人だ。喋りかたが少々高飛車だが、性格は穏やかで優しく、慈悲深い。

 更に、生徒会では、事務仕事をほとんどすべてこなしているらしい。颯佑が、雑用押しつけられてるのか、と訊いても、はぐらかされる。

 幡野は面倒見がいいし、優しい。吊り目や高い鼻が、なんとなくとっつきにくい、お高くとまったような印象を与えるけれど、実際の幡野は、涙もろくて気の弱い性格だ。だから、頼まれると断れなくて、ひきうけてしまう。生徒会の事務仕事も、そういう経緯かもしれない。

 俺も、幡野には迷惑をかけてばかりだな。


 昼休みが終わって、ぼんやりと次の授業の用意をしていると、隣の席の鶴城在人が戻ってきた。鶴城は弁当を持ってくる日と持ってこない日があって、今日は持ってこなかったようだ。購買で売っている、しゃけのお握りの匂いがする。「しゃけ?」

「……歯は磨いたんだけどな」

「あたったか」

 颯佑はくすっとした。鶴城はにやっと笑う。鶴城は冗談もいうし、こうやってふざけたみたいな会話もする。なのに何故か、みんな鶴城に対して、ちょっとした壁のようなものをつくっているらしかった。癖のある髪が不良みたいに見えるのかな、とか、黙ってむっとしていると威圧感があるからかな、とか、颯佑は不思議で、度々考えていた。癖毛というなら自分もそうなのだが。

「あ」

「なんだ?」

 颯佑は、流星群の話をしようと口を開き、しかし辞めた。「いや。次、あてられるの、忘れてた」

 幡野が、自分が伝える、といっていたのだ。邪魔をしたら悪い。

 幡野は、鶴城と親しくなりたいのかもしれない。颯佑はそう思っている。だから、小学生の頃からの友達である、自分や七海を誘って、そのついでのように、最近七海と仲がいい鶴城を誘うのかも、と。

 だとしたら、邪魔してはいけないだろう。


 颯佑と、幡野、七海は、小学校三年生の時、同じクラスになった。付き合いはそれからだ。

 はじめ、颯佑は幡野が苦手だった。幡野が、というよりも、幡野の家が。苦手なのに、隣の席になってしまって、授業中は気分がよくなかった。反対隣の七海が居なかったら、幡野に対して失礼な態度をとっていたかもしれない。

 幡野の家が苦手なのは、「幡野家」は「一郎丸家」と同じくらい凄い、と聴いたからだ。


 颯佑の父は、一郎丸家の生まれだ。でも、颯佑が生まれてすぐに、両親が揃って家を出た。颯佑の父には、正式な妻と息子が居て、颯佑は不倫相手との子どもだったのだ。

 颯佑の生みの母は、物心着く頃に亡くなった。

 父はすぐに再婚した。颯佑は、そのことに関しては、なんの文句もない。義母は優しいし、素敵なひとだ。

 だが、父はだらしない。追い出されたのがよく解る。手に職があるので、仕事こそきちんとこなすけれど、家に居る時は酒を吞んでは実家への恨み言ばかりいっていた。父が追い出された心労が祟って、生みの母は体を壊し、亡くなったそうだから、恨む気持ちは解らないでもない。しかしすべて、父の身から出た錆だ。


 颯佑は否応なく、一郎丸家への恨み言を聴いて育った。

 一郎丸家は、自分の生みの母を殺したきっかけだと、そう認識した。そして、自分の兄にあたるひとが、いい環境で穏やかに安らかにすごしているのだと思うと、悔しかった。不公平だと思った。

 だから、その一郎丸と同列の幡野の、ひとり娘である藤は、いやなやつだと思っていた。実際、同じクラスで席が隣になってみると、そこまでいやなやつではなかった。だが、いいやつだとも思えなかった。

 その認識をあらためたのは、四年になってからだ。

 颯佑はまた、幡野と同じクラスで、同じ班だった。


 颯佑は、七歳の頃、風呂場で火傷をした。義母が温度設定を間違っていて、熱湯を浴びたのだ。左半身にかかった熱湯は、颯佑を火傷させた。今も、左腰から左の膝の裏にかけて、そして左のこめかみから、左眉尻と左目蓋の一部に、火傷の痕が残っている。背中や胸、首、腹にも火傷を負ったが、そちらはさいわい痕にならなかった。

 今では、顔の火傷痕も、範囲は相当せばまった。何度か治療をうけているからだ。手術を。こめかみ近辺の痕に関しては、なにかしら理由があって、手術は不可能らしい。それに、費用が足りない、という切実な問題がある。


 四年生の頃は、左頬いっぱいに火傷の痕があった。颯佑は、義母が泣くのがつらくて、それを隠すように髪を伸ばした。その当時は首の火傷痕も目立っていたから、後ろも。

 そのことを、同じ班の男子児童にからかわれた。班で、一緒になにかを調べ、発表する、という授業だった。作業をしていたら、女みたいだといわれたのだ。颯佑はその時、小柄だったから、からかっても反撃されないだろうと思ったのだろう。

 颯佑は反撃しなかった。颯佑がそいつを殴ってやろうとした時、代わりに幡野がそいつの髪をひっ掴んで、持っていたはさみで切ったのだ。小さく、最低、といって。

 颯佑は啞然とした。幡野はきかん気そうな顔をしているが、大人しいしあまり喋らなかったので、その行動と幡野のイメージが合致しなかったのだ。

 颯佑をからかったやつは、憐れなまばら頭になって、泣いた。幡野は勿論、先生に叱られ、親が呼び出されて大騒動になったが、何故そんなことをしたのかは決していわなかった。

 でも、颯佑には解った。幡野は颯佑のかわりに怒ってくれたのだ。


 幡野は颯佑をからかった児童に断固として謝らなかった。そいつは普段から素行がよくなかったし、幡野の両親がそいつの親に謝りに行ったので、まるく収まった。ただし、そいつは別のクラスに移された。

 諸々が収まって、ある日、颯佑は幡野に礼をいった。幡野は不満そうで、あなたの為にしたのじゃないわ、といっていたが、颯佑はお礼に、春風公園で摘んだあざみの花束をあげた。ちくちくするのを摘んで、持ちやすいように義母に手伝ってもらって、セロファンで包んで、リボンをかけてある。

 勝手に摘んでいいの。

 幡野は嬉しそうにうけとったくせに、そんなことをいった。春風公園は、花壇のもの以外は勝手に摘んでいいのだと、教えた。一度つれていってほしいといわれたから、七海と一緒に三人で春風公園へ行った。


 幡野と七海は、外見も、性格も、あまり似ていない。なのに、馬があうみたいで、それからふたりで居ることが増えた。颯佑もたまにまざるが、相変わらず髪の長さについてごちゃごちゃいってくる連中が居たので、控えていた。

 春風公園で、子守りらしい女性と一緒の幡野を見付けて、逃げた。幡野は走るのが苦手なくせに颯佑を追ってきて、転んだ。

 颯佑は幡野を水道のところまでつれていって、あしを洗ってやった。幡野は泣いていた。血が出ていたし、よっぽど痛かったのだ。

 わたしのこと嫌いなの、といわれた。颯佑は首を横に振った。じゃあどうして、仲間外れなの。

 そんなつもりはなかった。だから、髪の所為で、女子と一緒だとからかわれる、といった。幡野は泣きやんで、はさみを持ち歩くことにするわと決意表明した。颯佑は笑ってしまった。

 なあ、どうしてそんなに、俺のことで怒ってくれるんだ、と訊いた。

 幡野は、あなたの顔は綺麗よ、と、答えになっていない返答をした。


 遊具の上にのぼって、座った。幡野もだ。膝にはハンカチをまいてやった。

 颯佑は自分が、()()一郎丸と関わりがあること、父親が追い出されたこと、顔も見たことがない兄が居ること、などを、ぽつぽつ喋った。

 幡野は颯佑の手を握って、なにもいわなかった。なにもいわずに、涙をこぼしていた。

 それだけで、颯佑の胸のなかにあった、なにか重苦しいもの、なにかが凝り固まったものが、すうっと解けて、蕩けて、消えてなくなった。

 幡野は颯佑の手をきつく握っていた。颯佑が居なくなるのではと怯えているみたいに。


 それからは、颯佑も対策をかえた。幡野に、はさみを持ち歩かせるような手間をかけたら、申し訳ないからだ。

 ヘアゴムを手首にかけて、持ち歩いた。家では髪はおろしている。義母の前では。学校では、髪を結う。火傷痕をじろじろ見られることはあったけれど、髪型に限らず、なにかからかってくるような者は居なかった。

 幡野は満足そうだった。そう、あの頃は、幡野は俺の火傷痕を見ても、今みたいに動揺はしなかったよな。


 小六の頃、七海が留学し、幡野は淋しそうだった。幡野家のことは、藁積の人間なら誰だって知っている。幡野の友人に名乗りを上げるような猛者は、七海以外居なかったのだ。

 颯佑は、幡野と一緒に下校するようになった。幡野は車送迎だったから、幡野の家の車にのって、喋ったり、その日の授業をさらえたり、好きな本や映画の話をしたりした。

 運転手は、幡野が淋しいのを解っているみたいで、颯佑を先に降ろすことはなかった。幡野の家まで行って、幡野を降ろしてから、颯佑の家まで送ってくれるのだ。

 幡野の家は、門限や、成績についての決まりが多々あって、中学に上がったら更に厳しくなるのだと聴いた。幡野の運転手と、颯佑の義母が、話していたのだ。幡野はどんどん、自由がなくなっていって、結婚相手も自由には決められない。親の決めた相手と結婚する。そういうことだ。


 幡野が、医者になる、といいだしたのは、中学に上がる直前だ。七海が戻ってきて、春風公園で一緒に宿題をしていたら、突然そんな話になった。

 幡野は、父親の跡を継いで、会社の経営をする。そういう予定の筈なのに。

 幡野は、中学にはいる前に、親を説得したらしい。なにか約束があるのではないかと颯佑は思ったが、幡野はいわない。

 三人は幡野中学へ進学した。


 今でも、颯佑はたまに、幡野の車にのって、登下校していた。幡野は中学にはいってから、生徒会の活動があり、友人が増えていた。そのほとんどが、理事の娘や息子だ。そういう友達とは登下校したくないようで、颯佑はそれが不思議だった。そういえば、七海もあれだけ親しいのに、颯佑のように何回も車にのせては居ない。

 颯佑は一郎丸姓だから、幡野と婚約していると勘違いされることも、多くあった。一郎丸も幡野も、この地方では有名な家だ。幡野は否定しなかったが、颯佑はそういう勘違いをされる度に否定した。箱入りの幡野藤が、一郎丸家から追い出された男の子どもと、縁付く訳がない。そんな勘違いをされるのも、幡野には迷惑だろう。


 颯佑の兄と、幡野との婚約が、なされるかもしれないと知った。


 七海と流星群の話をした日だ。帰りに、幡野が、めずらしく七海を車にのせていた。小学生までは、三人で一緒にお喋りしたのに、今は颯佑をのせる時は七海をのせないし、七海をのせる時は颯佑をのせない。

 見るともなくそれを見ていると、会話が耳にはいった。

「副会長、婚約するんですって」

 婚約。

 心臓を触られたような感じがした。するすると、撫でられているような。

 たちどまってそちらへ顔を向けた。男女が四人、並んで、正門へ向かっている。颯佑はそれを追った。どうしてそんなことをするのか、自分でもよく解らなかった。幡野が婚約しようと、俺には関わりのない話じゃないか?

「婚約?」

「そう。副会長が、ほら、医者になるなんていっているから……一郎丸家とそういう話が持ち上がったんですって」

「ああ、同じクラスの、あの、前髪の長い?」

「違うわよ、あの子はほら……」

 なにかしらのゼスチュアをしているらしかった。侮蔑は慣れている。颯佑はちょっとだけ、笑みをうかべる。


「一郎丸家の、涼介さまだろう」

「そう。副会長が医者になってしまっても、一郎丸家にはいったら、それどころじゃないでしょ。子どもができたらその子に幡野家を継がせればいいし」

「歳がはなれているのじゃない? 今、大学生でしょう」

「妙な相手とは結婚できないだろう、副会長も」

「そうよね。この辺りで、あと釣り合いそうなのは、留島家くらいでしょ」

「あそこは、外国の血がまざってしまったから」

「鶴城とか、仙崎でもいいのじゃないかしら……」

 よくもまあ、ひとの結婚の話で、こんなにも楽しそうに喋るものだ、と颯佑は思った。久し振りに兄の名前を聴いて、気分が悪い。藁積では、幡野と一郎丸に関わる者に、プライヴァシーなんてものは存在しない。

 自分もどれだけ、噂されてきただろうか。火傷のことを義母が気に病むのだって、一郎丸家にとって邪魔な颯佑を、一郎丸家から送り込まれた義母がわざと傷付けたのだと、そんなばかみたいな噂が未だにささやかれているからだ。


 幡野はものじゃない。親といえ、幡野以外が、幡野の結婚相手を決めるなんて、間違ってる。


 その晩、巧く眠れなかった。颯佑は何度も寝返りを打って、その度に幡野と兄の話が頭をちらついた。兄には、一度も会ったことがない。会ったことはないが、颯佑とは似ていないそうだ。兄を知る人間に拠れば。

 幡野は歳のはなれた、ほとんど見も知らないような人間と、結婚するのか。


 婚約が本当か、訊こうと思った。

 担任の手伝いで、ノートを職員室まで抱えていった帰り、唐突に思い立った。颯佑は少しだけ、歩く速度を上げる。幡野はその話題をいやがるだろう。でも、どうしてもたしかめたかった。気になるからだ。

 だが、教室の扉の前で、颯佑はあしを停めた。

「来年の留学、とりやめようかしら」

 幡野の声だ。

 颯佑は息を停める。それからゆっくり呼吸する。幡野は、将来医者になりたい、そういっていた。留学は、彼女の為になる。語学はできたほうがいい。幡野自身がそういっていた。

 だから淋しいけれど幡野を送り出すつもりだった。


 幡野は、ここを離れるのがいやだというようなことをいっていた。颯佑はそれを聴いているのが、なんだかつらくて、教室からはなれた。

 どうして、ここをはなれたくないのか。

 鶴城が転校してきたからじゃないか?


 颯佑は屋上に居た。授業はさぼってしまった。義母に叱られるだろう。そうしてあのひとは、あとから悔いたような顔をする。俺の火傷を思い出して。

「一郎丸。やっぱり、ここか」

 遠くを眺めていた颯佑は、鶴城の声に振り返った。鶴城は何故か、鞄をふたつ持って、突っ立っていた。

「よう」

「ああ。景色、いいのか」

「まあな」

 山の稜線へ目を戻す。幡野の家がある方向だ。

 鶴城が隣に並んだ。

「幡野がさがしていたぞ」

「……そうか」

「彼女はよく、お前を捜してる。お前はよく、彼女を捜してるな」

 ふざけているのだろうか。颯佑は笑った。鶴城が冗談をいうと、どんな気分でも笑ってしまう。それはこいつが、いいやつだからだろう。気持ちがいいやつなのだ。

 柵に手を置いた。ここから落ちたら、死ぬな。

 颯佑は明るい声を出した。東を指さす。

「安斉はあっちだろ」

「ああ。どうした、いきなり」

「別に」

 いいたいことをのみこむ。留島家はあちら方面にある。幡野の婚約者に相応だという家は。


 颯佑は鶴城を見る。「で、どうしたんだ、その鞄」

「ああ」

 鶴城は笑った。「いつきのだ。放送部でなにかあるらしくて、鞄を持って帰ってくれと頼まれた」

「成程」颯佑は軽く肩をすくめた。「お前の妹さんは、可愛いな」

 鶴城はこっくり頷いた。こういうのが、いい兄貴なんだろう、と、颯佑は思った。見も知らない自分の実の兄よりも、百倍もいいやつだ。

 幡野には、鶴城が相応しい。


「一郎丸くん」

 鶴城と別れて、教室へ戻ると、幡野が居た。立ち上がって、鞄を手に駈け寄ってくる。颯佑は自分の鞄をとって、幡野に笑みを向けた。

「ああ、悪い、さがしてたんだって?」

「ええ……どうかした?」

「なにが?」

 幡野は眉を、少し、寄せる。

 幡野は颯佑の左頬に触れた。「幡野?」

「……ごめんなさい」

 幡野は手をおろし、顔を背ける。

「一緒に帰ってくれる?」

「ああ、いいよ」颯佑はにっこりした。「お姫さま」


 流星群を見に行く計画が頓挫した、という話を、幡野は申し訳なそうにした。颯佑は、残念だな、といった。幡野は、留学の話は、しない。七海にできて、俺にはできない話なんだな。

 幡野をおろし、車は颯佑の家へ向かう。運転手がぼそっと喋った。「一郎丸さま」

「……なんですか?」

 その呼ばれかたは、あまり好きではない。颯佑はかたい声で返す。

「なにかございましたか?」

「いえ」

 颯佑は左のこめかみへ、手をあてる。

「いや。ありました」

「……なんでしょうか」

「幡野が婚約するとか、それが俺の兄貴だとか、そういう話ですよ」

 運転手は否定しなかった。


 颯佑はひとりで、流星群を見に行った。はやくに起きて、制服にきがえ、鞄も持っている。家に帰らずに、適当に時間を潰して、そのまま学校へ行くつもりだった。

 春風公園は大勢、ひとが居た。大概は家族連れだ。そうでなかったら、男女ふたり組。幡野は居ないし、七海も、鶴城も、その妹も居ない。皆、なにを願うとか、なにを祈るとか、そういう話をしている。

 颯佑は前髪をヘアピンでとめていた。火傷跡がはっきり見えるようにしていた。そうしておけば、煩わしいことはない。

 颯佑に近寄るひとは居なかったし、颯佑も誰にも近寄らなかった。星はやたらと流れて、消えた。こんな頼りないものに願いをかけるなんてごめんだ。

 たしかだと思っていた幡野との友情だってゆらいでいる。


 奇妙な感覚がしていた。

 颯佑は春風公園から、駅前の公園まで歩いて、ベンチに腰掛け、本を読んでいた。街灯が瞬き、顔を上げて目にはいった光景に、見覚えがあった。

 何度もこれを見た気がする。

 何度もここで、いやな時間を過ごした気がする。

 颯佑は頭を振って、近くのコンビニへ向かった。なにか買って、食べないと、腹が減って変なことを考えてるみたいだから。


 ヘアピンをつけたまま歩いていると、いつもと違う視線を感じ、いつものような視線は減った。これでいいかもな、と思う。火傷痕があるとどうして避けられるのかは解らないけれど、ひとと関わりたくない気分の時には便利だ。

 クソみたいな思考だな。

 ばたんと音がした。見ると、幡野が走ってくるところだった。車から運転手が出てくる。「藤お嬢さま」

「あとは歩くわ」

 幡野はそういって、一郎丸の腕を、ぐいっとひっぱった。「どうしたの、それ」

「それ?」

「その……これよ」

 幡野は颯佑の髪からピンを抜きとる。前髪がばさっと落ちた。幡野は目を潤ませている。「どうして……」

「勉強の時に邪魔なんだよ。下向くと、影になるし」

 幡野は詰まる。颯佑は首を傾げた。

「なにか、おかしいか?」

 意地の悪いいいかただというのは解っている。でも、颯佑はそういった。幡野は黙った。でも、ヘアピンは返してもらえなかった。幡野は俺の顔を見るがいやなんだと颯佑は思った。


 幡野は機嫌が悪かった。

 昼休み、幡野は鶴城をつかまえ、なにか話していた。鶴城は昨日までとは、なんとなく雰囲気が違う。なんというか……やわらかかった。とても。

 幡野と鶴城が並んでいることにはなんの違和感もない。


「一郎丸」

「ああ」

「七海と付き合うことになった」

「は?」

 隣の席を見る。鶴城は真面目な顔だ。透き通ったみたいな澄んだ瞳がこちらを見ている。

「なんだって?」

「七海と付き合うことになった、といった」

「はあ。そうか。それを何故、俺に?」

「お前は七海と親しいだろう。とらないでくれと釘を刺したつもりだ」

 颯佑は黙る。いいたいことはいったようで、鶴城は前を向いた。それから、付け加える。「ああ、それと、囲碁部にはいった」

「ああ……そうか」

「宜しく」

 颯佑は笑ってしまった。


 放課後、囲碁同好会あらため、鶴城がはいって囲碁部になった部活に顔を出すと、幡野が居た。一年の男子相手に一局打って、検討中だった。

「よう。相変わらず、うちの部を荒らしてくれてるな」

 からかうと、幡野はちょっと赤くなった。

 鶴城も来て、颯佑達は棋譜並べをしたり、詰碁をしたり、対局したり、した。下校時間が来て、幡野が一緒に帰ってほしいといってきた。


 めずらしく、歩きだ。ふたりは正門を出て、山のほうへと歩く。

 幡野は喋らない。颯佑も無言だった。

 生徒達の姿が減り、人通りもなくなっていく。漸く、幡野が口を開く。「わたしがどうして医師を目指しているか、解る?」

 颯佑はちょっと考え、頭を掻いた。

「さあ。……幡野は、気がいいからな。沢山のひとを助けたい、じゃないのか?」

「違うわ」

 幡野の声は尖っている。なにか怒らせるようなことをいっただろうか。 

 坂道はだらだらと、際限がないみたいに続いている。

 問題を出しておいて、幡野は答えを教えてくれない。

 幡野の家の傍まで来た。颯佑は、また明日、といって、踵を返す。幡野の家の人間に、颯佑はよく思われてはいない。その自覚もある。


 鶴城の妹が入院した。

 あんなに元気で、いつもその辺を跳ねまわっていたのに、重い病気にかかっていたそうだ。

 幡野が泣いた。颯佑には、なにもできなかった。


 七海と鶴城にいわれ、颯佑と幡野は、鶴城の妹、いつきを見舞った。そこに、鶴城の前の学校での友人達もやってきた。留島、というのに、颯佑はちょっと身をかたくした。あちらはなにも知らないだろう。なにも。

 もやもやする。

 いつきのはいっている病院は、電車で二十五分かかる。幡野は親から、電車移動を禁止されているから、車だ。颯佑も同乗していた。だから、帰りも一緒だ。

 幡野は機嫌がよかった。いつきが思ったよりも元気そうだったし、七海がこのところ、元気だし……そういったことが原因だろう。

 それとも、留島が、感じがよかったからだろうか。

「一郎丸くん?」

「ああ」

「聴いていなかった? 彼、あなたの親戚じゃない?」

「誰が?」

 幡野は口を尖らせる。「留島くんよ。一郎丸家と遠縁でしょ」

「ああ……そうなのか」

「多分そうだわ」

 幡野家にも一郎丸家にも、プライヴァシーなんて存在しないからな。

 幡野が留島のことを、嬉しそうに話すのが、なんだかしゃくに障った。


 幡野が車を降りて、ドアが閉まった。半分開いた窓越しに、幡野がにっこりする。

「それじゃあ、また明日」

「ああ、また明日」

 幡野が家へ向かっていく。颯佑は不意に、それを追いかけようと思った。だから車から降りた。

「幡野」

 駈け寄って、手首を掴んだ。華奢な、手首を。

 幡野が振り向く。目を瞠っている。間近からそれを見る。

「留学、どうして辞めたんだ」

「あ……それは……」

 幡野はうっすら、赤くなる。颯佑は目を逸らさない。幡野は目を伏せる。「だって……なんとなく、よ」

()()()()()?」

「そうよっ。なんだか、藁積をはなれるのが、いやになったの」

「鶴城が居るからじゃないのか」

「鶴城くん? どうして?」

 本当に不思議そうに、幡野は目をぱちぱちさせる。「誰かがそんなことをいったの?」

 颯佑は微笑んだ。微笑んで、頭を振った。

 それからいう。

「なあ、幡野」

「ええ……」

「あの日の流星群、たいしたことなかったぜ」

「……え?」

「だから、今度は一緒に見よう。いつかは凄いのが見られる筈だから、何度でも、一緒に」

 颯佑は幡野の手を持ち上げ、左のこめかみへ触れさせた。

「どうして医者になりたいのか、その時教えてくれ」


 車に戻ると、運転手がくすくす笑いながら迎えてくれた。

 颯佑は、笑われているのに、悪い気分ではなかった。



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