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七海なな


 七海ななは自分をしあわせな人間だと思っている。


 いや、実際しあわせなのだ。そうに違いない。

 ななはそう考える。立派な一軒家で暮らして、週に三回も家政婦さんが来てお掃除をしてくれて、好きなものは大概なんでも手にはいって、好きな学校へ行って好きな部にはいって、好きなことをしている。成績だっていいし、運動もできる。それに自分の顔や体付きだって気に入っている。まるっこい顔はとてもしあわせそうだし、大きな目はやわらかい印象を与えるし、小さな手足は控えめで可愛らしく見える。

 お金があって、おなかがすいたら食糧が手にはいって、なにも文句はない。


 文句があってはいけない。


 ななはしあわせなのだ。両親が離婚して、実の母と弟は海外へ行ってしまったけれど、そもそも母親らしいことをするようなひとではなかった。

 弟も、これから海外で暮らすのなら、今のうちに行ってしまったほうがいいだろう。言葉も習慣も、幼い頃のほうが身につく。

 だから、実の母と、まだ幼い弟と、引き離されて、淋しいなんて思ってはいけない。それは自分のわがままだ。


 それに、父の再婚相手、今の母は、とてもいいひとだ。美人で、聡明で、優しい。ななをいじめたり、邪険にしたり、粗末に扱うことは一切ない。

 隔たりは感じるけれど、仕方のないことだろう。

 向こうにすれば、好きになった男性にたまたま、娘が居たのだ。不運なのはあちらであって、ななが文句をいう筋合いはない。寧ろ謝るべきだ。申し訳ないと思いこそすれ、いやだと思ったり淋しいと感じたりしてはいけない。


 ななは毎日、とても充実している。


 毎日、こんな日が続いたらいいと思う。

 こんなしあわせな日々が。


 いやなことをいう自分が居る。

 とてもいやなことを喚く、いやな自分だ。ななはいつも、自分のその部分を見ないし、おしこめているし、消えてしまったらいいと思っている。居なくなってほしいのだ。自分に。いやなことを頭のなかでささやく自分に。


 家政婦は、ななを監視しているのだ、とか。

 義母は仕事だと行ってほとんど帰ってこないけれど、ほんとは義理の娘と会いたくないのだ、とか。

 父がずっと家を空けているのも、義母とななのぎこちないやりとりを見たくないからだ、とか。

 文句をいわないようにお金を沢山渡してくるのだ、とか。


 そんなのは全部嘘で、でたらめで、妄想だ。ななの妄想に過ぎない。自分はそういう悪いこととか、いやなこととか、意地の悪いことばかり考えてしまう、だめな人間なのだ。


 だからななは自分はしあわせだと思う。

 そう思わないといけない。

 事実、しあわせなのだから。


 そうだ。毎日、楽しい。ななは幡野小学校で、六年生の時、留学した。一年間もだ。友達はいっぱいできた。囲碁もやった。折角母の居る、アメリカを選んだのに、車で十分もかからないところに居るのに、母と弟と会ったのは二回きりだったけれど、でも会えたのだ。それにふたりとも生きている。だったらなんの問題もない。死んだらお仕舞だもの。生きていてくれるだけでいい。


 ななは毎日が充実している。

 日本へ戻って、幡野中学校へ進学した。卒業式にも入学式にも、父や義母は来てくれなかったけれど、それは仕方ない。ふたりには仕事があって、ふたりが頑張って働いているからななは、安穏としていられる。卒業式や入学式が、こちらの都合に合わせてくれないのは、当然だ。ふたりに外せない会議があったのだから、ななは文句をいったりしない。そんな悪いことはしない。気を遣ってくれなくていいのに、義母は優しいから、料理人を頼んで、ケーキやご馳走を用意してくれた。ほかの家庭で、忙しくて卒業式や入学式に行けないから、料理人まで頼むようなことはできないだろう。そんなことまでしてくれる義母が居て、ななはしあわせなのだ。感謝しなくてはいけない。

 ううん。感謝してる。

 それが正しい。


 中学校は楽しい。ななはクラス委員をやった。囲碁部にはいった。クラス委員の仕事は沢山あって、同じクラス委員の一郎丸は部活の時間が削られるとぼやいていたけれど、ななは楽しかった。家に帰るまでの時間が少しでものびてくれたらいい。

 ひとりの家が淋しいのではない。ななひとりですごすには大きな家だから、戸締まりやなんかが行き届いていないのではないかとたまにこわくなるのだ。

 単なる防衛反応の怯えであって、淋しいなんて考えない。淋しくない。だって、好きな洋服が沢山詰まったクローゼットに、お菓子もケーキもどっさり用意されている冷蔵庫に、ふわふわのぬいぐるみを集めたお部屋に、猫脚のついた浴槽のあるお風呂に、可愛いお花が年中咲き乱れているお庭がある。そんな夢みたいに素敵なおうちに、文句をいう人間は居ない。居たとしたら随分ひねくれていて、ねじけていて、意地が悪くて、困ったひとだろう。

 ななは自分はそんなひとだとも思っている。そうして、その考えを払い飛ばす。わたしはしあわせ、とつぶやく。


 囲碁の大会の地区予選があった。

 ななはしあわせな気分で、会場に居た。男子が三回戦まで進んだのだ。ななたち女子は、一回戦で落ちた。ななは勝っていたから、あしをひっぱらなくてよかったとほっとしたし、負けたふたりに謝られても微笑んでいた。「来年頑張りましょ」

「ほんと、ごめん、あそこつながってないの、気付かなくて……」

「七海さん、ごめんね。いつもわたし達、まけてるし」

「そんなことないわよ。この間の正道大付属宮森との練習試合、神山さん勝ってたし、仙崎さんはその前の座野中との練習試合、大勝だったでしょ。部内でも、戦績、悪くないよ」

 なながにっこりすると、ふたりもにっこりした。笑ってくれてよかったとななは思う。ひとが哀しんだり、つらそうだったりするのは、見ていられない。自分が傷付くよりもずっとつらい。


 一郎丸が走ってきた。男子は、後は三年の先輩達で、今年が最後のチャンスだ。同地区に安斉という強豪校があるが、幡野が強かった頃は安斉を打ち破って全国大会まで行けていた。勝てない相手ではない、というのが、ボランティアで教えに来てくれる、OB達の言葉だ。

「七海、悪い、ペンないか? インクが切れちゃって」

「はい」

「ありがと……」

 ペンを渡すと、一郎丸は近場の壁を机がわりに、慌てた様子で棋譜をつけている。一郎丸は今回出場していない。記録をとる為に来たのだ。

 ななは隣でそれを見る。先輩のひとりは、手順を覚えるのが苦手で、最近は一郎丸がそのひとの棋譜をつけている。

「堤先輩の?」

「そう。これ結構凄かったんだぜ。128手目で、ここをはさんで、そしたら相手は……あ、そうだ、堤先輩から伝言」

 一郎丸は振り返り、なな達女子部員を見遣る。「三回戦は午後からだから、ほかの中学の対戦見とけって。隣で高校の部もやってるから、そっち見てきてもいいってよ」


 女子ふたりは、高校生の対戦を見にいった。ななはもう一本、ペンを一郎丸へ渡し、会場内をぶらつく。みんな真剣な顔で、対局に取り組んでいる。こういうのは好きだ。なにかに打ち込む、ということが。わたしには一生できそうにないものね。意志が弱くて、なにも続かないわたしには。

 ひとりで居ると煩いなあ、と思った。余計な、意地の悪い、気持ちの悪いことばかりささやいてくる自分が。

 ななは微笑みをうかべて、自分はとてもしあわせだと考えた。それから、誰かの対局を終わるまで見ようと思って、辺りを見た。

 白髪の子が居た。灰色……かしら。

 とにかく、黒ではない。濃い灰色だろうか。頭の向きをかえると、茶髪にも見えた。染めているのとは違うと、なんとなく思う。

 安斉の制服を着ている。男子に、一年で代表になった子が居て、フランスとのミックスだ、と聴いたのを思い出した。あの子だろう。名前は……。

 ななは思考をとめた。一年で安斉の代表になった子の、向かいに、同じく安斉の制服を着た男子生徒が居た。その子を見ていたら、なんともいえない気分になった。

 なにか、こわい。いや、おそろしい。自分が壊れたみたいな気がする。

 金槌でかちゃんと割られてしまったみたい。


 頭のなかにささやきがあった。破滅、と。

 破滅するよ。あの子に近付いたら壊れてしまう。割れたビスケットみたいに、どうやっても戻れない。

 ななはじっとしていた。じっと見ていた。

 安斉の、その子は、綺麗な顔立ちをしている。たまご形の輪郭をしていて、切れ長の目で、奥二重で、気の強そうな眉で、鼻筋が通っていて、わずかに微笑んだ口許は誰かがそんな形に彫ったみたいに完璧で、ちらっと覗く歯は綺麗で、耳に髪をかける仕種が素敵で、人差し指が短い手をしている。

 なにをこわがるの。

 ただの、かっこいいおとこのこ、でしょう。

 だってね、と頭のなかで反論された。

 あの子のこと好きになったでしょ。

 破滅だよ。


 ななはただ、かっこいいおとこのこと、綺麗な髪と綺麗な顔をした男の子が喋っているのを、見ていた。灰色なのか茶色なのか金色なのか、何度見ても解らない。銀色なのかもしれないし、白なのかもしれないし、赤なのかもしれなかった。

「あの」

 安斉の女子生徒が、くすんと洟をすすりながら通りかかったので、ななはそれを呼びとめた。

「はい?」

 女子生徒は吃驚したみたいだったが、なながさしだしたハンカチを見て、潤んだ目から涙をこぼした。ななは対戦表を見ている。安斉の女子は負けていないが、二回戦で黒星がひとつついた。この子は負けた子で、次の対局に向けて気持ちを整えようとしている。

「どうぞ」

「あ、ありがとう、幡野中さん」

 女の子は眼鏡をずらし、ハンカチで目許を拭った。ななはにこにこしている。「次も頑張ってね」

「うん……変な感じね、別の中学の子に応援されるって」

「下心なの」

 なながくすっとすると、女子生徒は首を傾げた。ななはそっと、あの男の子を示す。「彼の名前、教えてくれない?」


「ああ、ルジマくん。あの子かっこいいよね。あれ地毛よ」

 女子生徒は、ちょっとふたりを睨むようにしてから、肩を軽くすくめた。

「一年なのに余裕で勝ってるし、そもそも一年がこの時期に代表なんて、ほんとにめずらしいらしいわ。で、二年のわたしはとんでもない失着で負けちゃった。もし先輩達も負けてたら、わたし囲碁部くびになってたかも」

 女子生徒はすんっと洟をすする。「それとも、ツルシロくんのほう? 彼も美形だけど、とっつきにくいわよね。綺麗すぎっていうか……」

「ええっと、多分、ツルシロくんってひとかな」

「あらそ。彼は出場してないわよ。棋力はそれなりだけど、うちは層が厚いし、わたしに負けるくらいじゃね。それに、ルジマくんみたいな天才タイプが居るから。ああいうのは調子が上がってる時は手がつけられないのよ、ほんとに。部で代表決定戦やって、ルジマくんが一等とっちゃって。まあ、ツルシロくんは、運がいいから、競った戦いだと絶対ものにするんだけどさ。あの子緊張とかしないみたいだし、寄せでミスしたのも見たことないな」

 女子生徒は、話しているうちに落ち着いてきたのか、くすっと笑った。

「ごめん、そういうことじゃないわよね。ええっと、ツルシロ・アルトくん。鳥の鶴に、お城、存在の在、人間の人」

 鶴城在人。ななは頷いて、その名前を頭のなかに刻みつけた。つるしろあると。響きも素敵だ。

 女生徒は眼鏡をかけなおす。

「幡野中さん、スカウト? それとも、色恋沙汰?」

「ええっと……」

「私立だから、校区外からも通う子って居るんでしょ。申し訳ないけど本音をいうと、幡野中さんの部員なら、鶴城くんは蹴散らすよ。全員勝てないと思う。今年はいった、あの、ちょっとルジマくんみたいなかっこいい子が、よっぽど強いんじゃなけりゃね」

 一郎丸のことだろう。女子生徒は、一郎丸の棋力がそれほどではないことを解っていっているようだった。冗談をいっているのだ。

 ななの気持ちに気付いている。

「鶴城くんは、真面目だから、あなたみたいな優しくて可愛い子、いいんじゃないかな」

「え?」

「紹介しようか? 次は午後からだし」

 ななは頭を振って、にっこりし、頭を下げて、踵を返した。「あ、ちょっと、このハンカチ」

 たちどまらない。ななは会場を出た。


 幡野中男子は三回戦敗退、安斉は男子も女子も高い勝率で地区予選を突破した。


 好きになったから破滅する。意味は解った。


 二年の、春が終わる頃、同じクラスに転校してきたのは、鶴城在人だった。

 ななはその名前も、顔も、忘れていない。忘れられる訳がない。

 在人は、一郎丸の隣の席になった。ななの位置からは、綺麗な後ろ姿が見えた。はじめからそこにそうやって存在する為につくられたみたいなひとだと思った。彼はどこに居てもなじんでいるし、なにも間違っていないし、あるべくしてある。存在を認められている。存在すべきひとだ。いなくなってはいけないひと。

 わたしみたいに、居ないほうがいい人間とは違う。


 破滅、破滅、破滅。


 ななは時折、在人を盗み見た。話しかけたかったが、きっかけが掴めない。一郎丸は、教科書を見せたり、授業について話したり、していた。幡野と安斉ではつかっている教科書が違う。

 次第に、在人に話しかける生徒は増えた。でも、一郎丸以外はみんな、よそよそしい。その気持ちは解った。在人は近寄りがたい。なにか、そういった雰囲気を、持っている。

 一郎丸くんには、にっこりするな。

 どうしてだか、在人は一郎丸には、無防備な顔を見せる瞬間があった。ななはそれを見ると、不思議だった。


 在人には妹が居て、度々在人に会いに来た。とても元気で、在人に少し面差しが似ていて、可愛い、いつきという女の子だ。

 在人が居ない時にやってきたいつきに、ななは話しかけた。

「こんにちは、鶴城さん」

「あ、こんにちは。えとお。あ、七海先輩ですよね」

 ななはにっこりした。いつきもだ。

「お噂はかねがね」

「うわさ?」

「はい、兄のクラスに、美人で優しい、とっても性格のいい先輩が居るって、クラスメイトに聴きました」

 随分な嘘がまかり通っているものだ。ななは驚いたけれど、それを顔に出しはしなかった。自分が悪い意味で目立っているのは、理解している。

 幡野藤のように、美人で成績はトップで、生徒会副会長もこなすような、完璧で素晴らしい人間ではないのに、いろんなところに出しゃばって首をつっこんで、いやがられているのは解っている。

「変な噂は真にうけないでね」

「え?」

「ね、鶴城くんに会いに来たの?」

「あ……はい、あの、お兄ちゃん忘れものしてて。ノートなんですけど」

 いつきはそういって、左手に握りしめたノートを示す。ななは小首を傾げる。「それ、わたしが預かりましょうか? わたし、クラス委員だし」

「え、いいんですか?」

「勿論。鶴城さんも、次の授業あるんだし、教室に戻らないとでしょ」

 いつきはにっこり笑った。わたしと違ってほんとの笑顔だ、素敵な兄妹だなあ、と思った。

 ノートを渡され、両手でうけとる。

「たしかに、うけとりました」

「ありがとうございます、七海先輩」いつきは可愛らしく首を傾げる。「あの、よかったら、いつきって呼んでください。わたしも、なな先輩って呼んでいいですか?」

 どうぞというといつきは嬉しそうにぴょこぴょこして、挨拶し、自分の教室へ戻っていった。

 いつきを利用して在人に近付こうとしている。浅ましい人間だ。打算的で、汚い。


「鶴城くん、これ」

 図書室から戻った在人を、教室の前でつかまえて、ななはノートをさしだす。在人はノートを見て、ちょっと不思議そうにしたが、うけとった。

「……いつきが?」

「うん。忘れものだって」

「ああ……あいつ、はやとちりだな」

「え?」

 在人はにこっと笑った。ななに対してそんなふうに笑うのは、初めてだ。

 いや、彼は、いつきに対して笑ったのだ。

「これは、社会のノートだよ」

「……あ」

「今日はないのに、間違って鞄にいれてしまっていて。だからリビングに置いてきたんだ」

 ななはくすくす笑った。それは本当の笑いだ。鶴城兄妹が可愛くて、笑ってしまった。

 在人と目があった。在人は、優しい表情で、ななを見ていた。ずっとそんな顔をしていてくれたらいいのに。

 そう。ずっと、在人が、しあわせだったらいい。このひとがしあわせじゃない世界は壊れたらいい。

 金槌で叩いたみたいにかちゃんと。


 ななは夜、眠れない時がある。

 そんな時は、あたたかいココアを飲んで、テレビをつける。カラーバーを見詰める。

 それでも気分が悪いままなら、お庭を歩く。

 そうしていれば、大概朝になって、学校へ行く。

 朝にならなかったら、まっくらな部屋に閉じこもって、ぬいぐるみを抱えている。

 そうしていればいつかは朝になる。


 いつきは相変わらず、在人に会いに来る。ななはいつきに気にいられたようで、鶴城兄妹の会話にまざることも多くあった。狙いが巧くいったのに、ふたりを騙しているのが心苦しかった。

 一郎丸もたまに、その輪に加わった。一郎丸は口数が多いほうではないから、いつきとなながお喋りするのを聴いている。幡野が、そういう一郎丸の様子を、見ていた。幡野は、多分一郎丸が好きだ。一郎丸くんに気持ちを伝えればいいのに。幡野さんくらい美人でなんでもできるひとなら、巧く行くと思うな。


 丘の広場のおまじないを聴いた。囲碁部のOGからだ。

 深夜、丘の広場にひとりで行って、願いごとをして、石を拾って誰にも姿を見られずに帰る。それで願いが成就する。そうやって、地区予選を勝ち抜いた先輩が居た、そうだ。

 恋愛の願いが叶うのかどうか、ななは訊かなかった。


 眠れない時は家を出て、丘の広場まで走った。息を切らして石段を駈けあがり、願いごとをして、石を拾って帰った。

 それを何度もやった。

 義母が、なながよなかに家を抜け出していると、どうしてだか気付いた。

 でも義母はななに強くなにかをいうことはない。


 ななは何度も丘の広場へ行った。


 石は溜まっていった。


 こわい思いをした。

 帰る途中、四人組の、高校生くらいの男性が、ななの帰り道のほうからやってきたのだ。ななは繁みに隠れて、息をひそめた。誰にも見付かる訳にはいかない。見付かったらおまじないが失敗する。折角のおまじないが。


 ななは自分が見下げ果てた人間だと解っている。

 勝手に在人のしあわせを願っている。なにもかもうまくいって、しあわせで、健康で長生きしてほしいと。

 それだけならまだましなのに、在人に少しでも関われたらいいと願った。在人の人生に、友人でも、なんでもいいから、自分の存在がありますようにと願った。


「流星群?」

「ああ。あれ、幡野から聴いてないのか」

 一郎丸は不思議そうにいって、小首を傾げた。小さい頃につくったという、こめかみから目と眉のほうへ走る傷痕を隠す為に伸ばしている、長い前髪を、煩わしげに耳にかける。それは、義母の不注意でつくった傷だそうで、優しい一郎丸は、そのひとの前では絶対に前髪を耳にかけない。入学式でも、授業参観でも、卒業式でも、そうだ。

 ななは黒板消しを置いた。「聴いていないわ」

「おかしいな。あいつ、みんなも誘って見に行こうっていってたんだ。自分がいっておくって」

「そう……」

 ななはにこにこする。幡野さんはおくてだなあ、と思う。

「幡野さん、忘れてるんじゃないかな。でも、わたしは、遠慮しとく」

「そうか。鶴城はそういうの、興味ないだろうしな。鶴城の妹はどうだろう」

「さあ。ねえ、どこで見るの」

「春風公園だよ」

 ななは頷く。「じゃあ、幡野さん車だ」

「ああ、あいつの家、山のほうだもんな。あれ? 幡野の家のほうが見えるんじゃないか、流星群」

 ななは思わず、くすくす笑った。一郎丸が不思議そうにする。

「七海?」

「ごめんなさい。ねえ、一郎丸くん、幡野さんのお家にお邪魔したら?」

「それは流石に、迷惑だろう。朝の四時だぜ」

 一郎丸は肩をすくめる。「ふたりなら、幡野にわざわざ来てもらう必要ないよな。俺は春風公園で見て、あいつは家から見たらいい」

「それはだめ」

「え?」

「だって、ほら。幡野さん、ひとりで見るの淋しいよ、きっと」

「そうかな」

「そうよ」

 一郎丸がなにかいおうとしたが、チャイムが鳴った。ななも一郎丸も、席に戻った。


 流星群まで三日ある。


「七海さん」

 囲碁同好会(に、降格している)は、今日はない。だから帰ろうと、正門へ向かっていると、幡野が追ってきた。自転車か、車送迎の幡野は、今日は車のようだ。正門前に車が停まっている。「どうしたの、幡野さん」

「ちょっと……いいかしら、時間」

 幡野は息を整え整え、そういった。幡野は、運動が少し苦手だ。

 ななは頷き、幡野に促されるまま、幡野家の車にのりこんだ。幡野は暫く、息を整えていた。呼吸の乱れは、運動だけの所為ではないだろう。

「あの……わたしとしたことが。ちゃんと、考えていなかったの」

「うん?」

「い。一郎丸くんの、ことよ。ほ……ほんとは、ふたりで、見に行きたかったの、流星群。でも、彼にそういえなくてわたし、あなた達のこと引き合いに出して、その……」

「だいじょうぶよ」ななはにっこりする。「断ったから。鶴城くんは、興味ないだろうし……春風公園だと、鶴城くんの家からは遠いでしょ? いつきちゃんの外出もだめだと思う」

 幡野は赤くなった顔を、両手でぺたぺたと触った。

「そ。そう。それはよかっ……あ、いえ、違うの」

 なながくすくすすると、幡野は口許をもぞもぞさせた。「な、なあに」

「いいえ、なんでも。幡野さん、可愛いのね」

「かわいい?」

 幡野の声が裏返る。ななは頷く。

「いつきちゃんなら、鶴城くんの友達が好きだっていってたわ」

「え? それって、一郎丸くん」

「じゃ、なくって。安斉の子」

「あ、ああ、そう、そうなの。そう……でも一郎丸くんは……」

 幡野の声が沈む。ななは、幡野の手を握った。「大丈夫。一郎丸くんも、幡野さんのこと好きよ」

「えっ? な、なにいってるの七海さん、わたしそんな、好きとか嫌いとかそういうことじゃないのよ!」

「ふたりで流星群を見に行きたいのに?」

「それは……」

 幡野は絶句した。ななはにこにこしている。

 ななの家の前で、車は停まった。ななは降車して、また明日、といった。


「だめだったの」

 幡野が黒板を拭いている。ななは教卓を拭いている。

「なにが?」

「お母さまが、男の子とふたりで、よなかにでかけるなんて、だめだって」

「あら」

 振り向いた。幡野は肩を落としている。

「ばちがあたったんだわ。嘘を吐いたから」

「ふたりっきりじゃないでしょ? 車の運転手さんが居るし」

「お母さまは使用人を頭数にいれないわ」

 叩きつけるような調子だった。幡野は傷付いているらしい。ななは手を停めて、幡野の隣に立つ。

「じゃあ、ほら。次の機会でも、いいじゃない? 流星群は今度で終わりじゃないんだし」

「そうだけど……知らない? 七海さん。春風公園で流星群を一緒に見ると、その……結ばれるって」

 幡野は耳を赤くして、顔を背けた。

 ななは頷く。

「おまじないね」

「……わたし、子どもみたい」

「子どもでしょ、わたし達」

 暫くふたりとも、黙っている。

 幡野が、静かな声でいった。

「一郎丸くんには、断らなくちゃ。きちんと、謝って」

「うん」

「……来年の留学、とりやめようかしら」

「え?」

「なんだかいやな予感がするの。肌がぴりぴりする感じ。ここを離れていたら、よくないわ」

 幡野は真剣な表情だ。こっくり頷いている。

「……うん。やっぱり、留学は辞める。お父さまにお話ししなくちゃ。高校でも、大学でも、留学はできるもの」

「一郎丸くんと結ばれてからでもね」

「七海さんっ!」

 幡野がまっかになったのが可愛くて、ななは笑ってしまった。


「七海」

 音楽室への移動中、在人から声をかけられた。「なあに……」

「おとしもの」

「……あ」

 さしだされたペンケースをうけとる。ななは首をすくめた。

「ごめんなさい。ありがとう」

「いや。ここの校舎は、解りやすいな。安斉は普通の教室と、音楽室だの理科実験室だのが並んでるんだ」

 なんでもないようにいって、在人はななと並んで歩く。ななはにっこり笑う。「鶴城くんは、記憶力いいから、迷ったりしないでしょ?」

「それでも、覚えやすいのはありがたいよ」

 流星群のことが頭を掠めた。今夜、正確には明日の早朝、流星群が見える。

 春風公園へ、誘ってみる?


 無理よ。


 破滅。


 ななは流星群のことも、春風公園のことも、いわない。


 破滅の意味は解っている。


 ななは歩いている。こごえで歌っている。

 破滅は、とっくにおとずれている。


 ななは自分をしあわせだと思うことが難しくなっていた。


 在人が心配だからだ。

 在人が、しあわせかどうかが、気になって、なにも手につかない。

 在人が傷付かないか、在人が泣かないか、在人がちゃんと生きているか、こわい。ずっとこわい。在人の姿が見えないと不安で不安で死にそうになる。

 在人が存在しているか解らないのに幸せな気分になんてなれない。


 いつか在人に迷惑をかける気がする。


 迷惑をかけるくらいなら死んだほうがましだ。


 消えてなくなりたかった。


 自分の存在がきれいさっぱりなくなったら、すっとするだろう。自分も、みんなも。


 ななは石段を登る。

 ひとりでのぼる。

 丘の広場からも流星群は見える。

 流れる星に願いをかけよう。

 死んでいく星に頼むのだ。

 しあわせな毎日が続くよう。

 在人が居なくなりませんよう。

 自分が消えてなくなるよう。


 流星群は石段からも見えた。ななは祈りながら丘の広場へはいった。丘の広場には先客がいた。ななは願いごとを考えていて、それに気付かなかった。

 なにかにあしをとられて転んだ。顔を上げると、高校生くらいの男が四人居た。ななは口をぽかんと開けて、それを見ていた。

 なにが起こるのかは解った。

 自分には、こんな時、助けてくれるようなひとは居ない。そう思った。

 声は出ない。恐怖で体は動かなかった。呼吸さえ、深くできない。

 頭に思いうかぶのは在人のことだけだ。


 なにかが男のひとりにぶつかった。

 見間違う筈はない。均整のとれた体付きに、少し癖のある髪、人差し指の短い手。

 声が出た。

「鶴城くん!」

「逃げろ七海!」

 在人はそういって、殴りかかってくる男の腹部を強打した。ななは呆然とそれを見ていた。在人に後ろから、鉄パイプが振り下ろされたが、在人は振り返って小さな動きでそれを避け、たたらを踏んだ男から鉄パイプをもぎとり、両手で持って男のせなかを叩いた。

 在人はななに微笑んだ。

 はげまされているように感じた。


 倒れていないふたりがナイフをとりだした。在人はそれを見て、なんだか満足そうに頷いた。それなのに、怒っているのはひしひしと伝わってきた。

 ひとりは逃げて、ひとりは在人が腕を叩いたら倒れた。

 在人はにっこりした。「七海、帰ろう」

 ななは在人の向こうに、沢山の星が空を走るのを見た。

 在人は光芒を戴いて、とても綺麗だった。


 謝った。在人に手をひかれながら、ななは泣いていた。自分の軽率な行動で、在人に暴力行為を働かせた。在人の手はそんなことの為にあるのではない。在人は誰かを傷付けるようなひとではない。在人は優しくて、穏やかで、そんなことは似合わない。

 在人は、けれど、なにか満足しているらしかった。

 石段を降りて、在人は鉄パイプを川へ投げこみ、ななを抱きしめた。ななはなにも考えられなかった。やわらかい唇が、自分の唇におしあてられて、キスをされたのだと気付いた。

「七海」

「うん」

「好きだ」

「わたしも」

 朗読しているみたいにすらすら言葉が出た。

 ななは自分の幸運を信じなかった。これは単なる夢か、いよいよ自分はおかしくなったのだと思った。


 在人は、なながなにもいわないのに、ななの家へ向かって歩いた。

「どうして、しってるの、わたしのいえ」

「どうしてだと思う?」

「意地悪」

 ふわふわする。地面が頼りない。金槌でかちゃん。それだけ。

 在人はななの髪に触れる。まっくろの、長い髪に。

 在人の目から涙がこぼれた。ななは息の根をとめられたみたいな気がした。「鶴城くん」

「ああ、すまない、君のせいじゃない。なんでもないんだ」



 ななは在人に合鍵を渡した。

 目が覚めて、合鍵がなくなっていたら、これは本当だ。

 布団にくるまって、在人のいうようにケータイを枕許に置いて、目を瞑った。

 変な感じがした。

 在人に何度も、好きだといわれたような、そんな、懐かしいような感覚だ。

 夢を見ているのね、わたし。

 起きたら、合鍵があって、がっかりするの。


 合鍵はなかった。本当だったんだと思ったら腰が抜けた。ななは泣いた。訳が解らなくて泣いた。


 いつきが入院した。

 とても重い病気だった。でも、はやくに見付けたので、処置を施せば心配ないそうだ。ななはほっとした。自分が在人をとりあげたみたいに思っていた。


「七海さん、あの」

 幡野から話しかけられてななは我に返った。在人に好きだといわれてから、ずっと夢のなかに居る気がする。

「なあに?」

「鶴城くんの妹さんのこと」

「うん」

 幡野は表情を曇らせている。

「一郎丸くんと話したの。お見舞の品、用意するから、七海さんかわりに持っていってもらえないかしら」

「幡野さんたちが」

「だめよ、だって……わたし、彼女とそんなに親しくしていないから、迷惑よきっと」

「そんなことないわよ。鶴城くんに訊いてみたら?」

 幡野は困ったみたいに眉を下げた。

 一郎丸が来た。「どうした、幡野?」

「あ、一郎丸くん……」

「ふたりも、いつきちゃんのお見舞に行くんでしょ?」

「ああ、その話か。でも、ほら……難しい病気なんだろ? 俺達がおしかけたら、迷惑じゃないか?」

「そうよ、ただでさえ、わたしこの間、鶴城くんに生徒会のことなんて打診してしまったし。あの時はまだ知らなくて」

「俺がなんだって」

 幡野と一郎丸がびくっとして、在人を見た。在人はくすくす笑う。一郎丸が気まずそうにいう。

「あー……鶴城、あのさ、妹さんのことなんだけど」

「ああ。見舞に来てもらえないか、訊こうと思っていた。あいつ、ひまでしょうがないらしい。お喋りに付き合わされても大丈夫なら、行ってやってくれ」

 幡野と一郎丸は顔を見合わせる。ななは微笑む。在人はふたりを、眩しそうに見ていた。不思議なことに、とても満足しているみたいに見えた。


 いつきの病室で、幡野や一郎丸も交えてお喋りしていると、安斉の制服の集団がやってきた。

 先頭は、灰色のような、銀色のような、茶色のような、白のような、不思議な色の髪をした男の子だ。それを見てななは、去年の囲碁の地区予選を思い出した。在人と話していた子だ。

 なんとなく、一郎丸に似ている。前髪が長いところも、上斜視も、肌の色合いも。

「留島さん」

「よ、いつき、元気か?」

 留島はにっこり笑って、いつきのベッドの傍まで行き、軽く屈んだ。「ああ、ばかなこといったな。元気だったら入院してない」

「元気ですよ」

「そうか? じゃあこれでもっと元気になってくれ」

 後ろにまわしていた手を、留島は前に出した。いつきがわっとはしゃいだ声をたてる。留島の手には、小振りの花束が握られていた。

 いつきが花束を両手で大切そうに抱える。留島以外の、安斉の制服の子達は、にやにやしていた。在人がくすくす笑う。

「よう、留島」

「ああ、鶴城、邪魔してる」留島は姿勢を正して簡単にいう。「なんだ、お前、きれいどころ侍らせて」

「煩い。こいつらはクラスメイトだ。幡野と、一郎丸」

 在人は左に居る、幡野と一郎丸を示す。それから、右に居るななの腕を掴んだ。「このひとは彼女だ。七海」

「ああ、いってたっけ、……お前面喰いだった?」

「は?」

「いや。宜しく、一郎丸、幡野さん、七海さん」

 留島は笑顔になって、いつきのほうを向いた。「いつき、それはかびんにいれてくる」

「はい。ありがとうございます」

「いや。お前が元気だったら、俺は嬉しいんだ」

 いつきは嬉しそうににっこりした。在人が安堵した様子で、小さく頷く。いつきちゃんのことを本当に大切に思っているのね、と、ななは在人の優しさに涙が出そうだった。


 ななは、自分がしあわせだと思っている。

 そう思っている、ということを認められるくらいには、なった。

 それに、在人と居れば、本当に幸せなのだから、まったくの嘘でもない。


 もう少しでいいから、しあわせが続いてほしい。

 星が流れるくらいのほんのわずかな時間でいいから。


 ななは夢を見る。あの日の流星群、それに照らされた在人を、いつも夢に見る。

 その傍に居られるくらいには、自分は綺麗だろうか。



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本人がホラーじゃなくてとても安心した
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