第八十九話 懲りない二人:持氏と同じ穴の狢がいる
第八十九話 懲りない二人:持氏と同じ穴の狢がいる
今浜の代官は……土岐にするか斯波にするかなんだが、斯波『義郷』にしようとおもう。え、だって、関東征伐に斯波は甲斐常治と朝倉教景がでてくるから、斎藤『妙椿』教利を軍監に据え、俺の供回りは大内教佑に委ねることにする。関東の次は畿内、赤松、六角を潰して、次は菊池征伐になるだろう。大内教佑が前に出る事になるだろうから、ここで経験を積ませる。
教景は結城合戦で持氏の子供を捕えた功を踏まえて許した名なので、今の時点では佑景と名乗っているが、小太郎と呼ばれることも多い。
甲斐常治が斯波家家宰ながら将軍とも直接会える筆頭家宰なんだが、織田が次席、朝倉は三席となるので、中々会う事は出来ない。
「小太郎、欲しいな……」
「難しいでしょうな」
残念ながら、朝倉には坊主の息子が二人いる。教景自身の年齢は五十代後半、 嫡子家景が三十過ぎなので、三男四男は二十代前半くらいだろうか。一応、声をかけてみたいと思う。
実際、一人は十刹の北禅寺の僧にいた!
「名は……教陰と名乗らせるかな」
「承知いたしました」
え、だって俺の『教』と『景』じゃ被るから、『陰』にしてみました。音読みだから、大丈夫。年は二十四と少々いっているが、使者・文官としては問題ないだろう。
「この度の関東征伐に同行させる」
「……それまでには色々仕込みまする」
すまんね、妙椿、坊主仲間のお前だけが頼りだ。年の近い教佑も使って早急に戦力化してくれ。
楽しみで仕方のなかった俺は、七月、暑い最中に届いた手紙を一読し大いに笑った。
「大樹、拝見してもよろしゅうござりまするか」
「かまわぬ」
駿河の今川から届いた手紙には、甲斐では武田信重親子が国人を統制し関東攻めには十分な戦力になる事、そして、持氏の息子の元服式には近在の国人以外、関東の諸将は参列しなかったという。
「参列した者もしなかった場合の報復を恐れての参加。申し開きの書状が憲実殿の手元に山のように集まっておるとのことでございますな」
そんなもの、ダイレクトに送られても困るので、憲実には取り纏めと、秋の討伐下向時に仕置きができるよう整理と準備を頼んである。上杉憲実は上野平井城に移り、手紙魔となっている。
「北信濃の村上が持氏の使嗾で小笠原に対抗するため動いている様子」
「何、返す刀で……潰せばよい」
元は持氏なのだから、放っておいても後で何とでも処分ができる。そもそも、大昔の国司の家が土着して国人領主やっているだけなのにな。何故か、いつまでも信濃の旗頭気取りだ。木曽義仲の時はお前ら何してた?
建武の新政では護良親王配下で活躍し、『信濃惣大将』と称せられるようになった。南朝方なんですね☆ 鎌倉幕府からはしかとされ、承久の乱ではなんの参加もせずにいたので、完全に忘れられた存在だったんだが。
室町幕府は村上氏の持つ「信州惣大将」の地位を軽視し、村上氏は反守護的な国人衆の代表格となるのだと。後醍醐帝の与えた名誉職に何故、俺たちが配慮せねばならないのか。
つまり、こいつも持氏と同じ穴の狢なわけで、信濃からとうほぐに追放する事にしよう、そうしよう。お前も朝敵決定な。南朝方の称号に何の価値があるんだ。自称と変わらねぇよな。
「小笠原には守りを固め、朝敵村上・南朝信濃惣大将と国人共に周知させるよう、伝えればよい」
将軍が自ら鎌倉公方討伐に向かう、その軍勢が自分たちに向かってくると考えないんだろうな……南朝の与えた名誉を有り難がっていたり、鎌倉にも室町にも逆らう国司の末裔如きが、邪魔してくれる。
「村上に同調する者は『朝敵一党』として共に処罰し、父祖の地を虜囚として追放されると付け加えさせよ!!」
頑張れ村上一族、俺は頭に来ている。同じような馬鹿が湧いてこないように、持氏同様族滅してやる。信濃は当然、関東で庇い立てするものも『朝敵』認定してやる。
鎌倉で後始末している間に、小笠原・武田・奉行衆に周泰を付けて向かわせればいいだろう。あと、上州にいるんだから憲実君も兵を貸し給え。二万もぶち込めばいいだろう。
「諸将にて奉書をだせ」
「畏まってござりまする」
裸の公方様は室町か鎌倉か、関東に向かえば分かる事だ。手紙を書き続ける事暫くなりそうだ。
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