第三十七話 二人:征夷大将軍と源氏長者
第三十七話 二人:征夷大将軍と源氏長者
幕府を掌握し、各地の諸将どもに将軍の権威を認めさせるには時間が必要であり、段階を踏んでいかねばならない。
建武の新政で後醍醐君がいろいろやらかした結果、地方の武士どもが調子に乗っているから面倒だ。解決するには信長も用いた天皇家の権威を高める方向で行かねばならないかなと思っている。
例えば、『源氏長者』だな。
氏長者というのは、その氏姓で最も偉い人を意味するらしい.平安時代までは古代の豪族の家系で様々な氏長者が存在したが、この時代残っているのは、藤原と源氏だけとなっている。
その存在は氏族の中で最も官位が高い者が就任、氏神を祭祀する氏社、先祖を弔う氏寺・菩提寺の管理権、またその財源を掌握することで氏人を統制する。うーん、氏子総代みたいなイメージだろうか。もしくは族長だな。
この時代だと、源氏長者は久我家が継いでいることが多かったみたいだが、後醍醐天皇の時代は、北畠親房がその立場に立ったこともある。最近では、将軍同様源氏長者宣下が行われるようになり、朝廷から武家の棟梁として認められる一つのステイタスとなっている。
足利将軍では、義満・義持が既に務めており、俺と、ヒキニート次男もその立場を引き継ぐことになる。明らかに一強として認められた存在だけが長者を務めており、将軍は血筋だけでなれるが、長者はそれが継続して影響力を与えられる存在にだけ将軍宣下の後与えられるようだな。
因みに徳川将軍はこの兼任が当たり前の事として家康以降続いていく。
源氏長者は、淳和奨学両院別当兼務を以ってそれと見なされるので、永享四年の師走にそれとなる。
さて、鎌倉公方の反乱と、それに付随する結城合戦という後始末の戦いなんだが、この世界では源氏長者としてのイベントにしようかと考えている。
先ず、足利持氏が氏長者で征夷大将軍である俺に反乱する事自体、どういう正当性があるのか説明してもらいたい。何だか、来年あたりに建長寺の坊主を代理人に立てて申し開きだか、和解だかしに来るらしい。どういう理由で本家に逆らうんだ? あと、お前の先祖は足利尊氏の次男だが、それは四代も前の話で、義満の息子の俺より相応しい理由があるのなら教えてもらいたい。
そもそも、関東育ちで京の事情にも疎い野良犬が、征夷大将軍の位階だけ貰えば仕事になるとでも思っているのだろうか。肩書だけでひとは動かないだろ? 上杉禅秀の乱ってそういうことじゃねぇのかよ。
まあ、義持に対する義嗣派のクーデターに影響された鎌倉公方の叔父と関東管領が組んでの行動なんだろうが、その時、鎌倉公方のお前は何をしていたんだと言いたい。
とりあえず、全否定して突っぱねることにする。そのうち反乱を起こすだろうから、捉えて京に連れてきて……新しい将軍職に任じようと思う。ん? 将軍ならいいだろ。
鎮西将軍として最前線に赴任してもらおう、奥方も息子も側近も連れていけ……対馬にな。え、安徳帝も元寇のおりまで生きていらしたとか、その帝を防人の一族が供奉していたとか伝承もある。
それにだ、応永の外寇もあった事だし、是非足利持氏が武辺者であるところを生かしてもらいたい。ずっと、代々子孫に継がせて構わんぞ☆
俺は征夷大将軍として、また源氏長者として鶴岡八幡宮に詣でるつもりだ。関東の静謐を関東の諸将の前で祈願する。え、そんなの長尾景虎がやるより、征夷大将軍足利義教がする方が意味あるだろ?
征夷大将軍宣下から源氏長者宣下まで数年あるから、その間に先代から引継ぎをし、鶴岡八幡宮に詣で、関東の諸将を従えて天下静謐を祈願するまでがワンセットにするってのはどうだろうか?
それと、将軍になる前に、太子ではないが鎮守府将軍となり鎌倉公方を数年経験するのも意味があると思う。関東に若手の奉行衆・奉公衆をつれて下向し、その間に仕事を覚えるというのはどうだろう。
関東の者共も、次期征夷大将軍につく前に始祖尊氏の嘉例にならい、鎮守府将軍に補任されるのは悪くないだろう。つまり、今のところ元服すると正五位下・左馬頭に叙任一二年宿老会議や政所での政務を学び、関東に下向し鎮守府将軍従四位下につき、数年を過ごし京に戻り、宿老会議などに参加した後、征夷大将軍を継ぐ。
息子が成人する前においては、弟たちを何年か関東に派遣し、関東の諸将の娘と婚姻するのもありだ。子供が男子なら母方の家の家督を継がせるなんてことも認めよう。
但し、鎌倉公方となった弟たち自身は京に戻り、将軍の補佐役を委ねる。その場合、三管領の猶子となり畿内の守護代となるようにする。そんな感じでどうだろうか。まあ、余り多ければ困るが、伊勢だ大舘の家に養子に出すのもいいかもしれない。義輝・義昭の近習はそういうの多かったよね。
将軍直系の子孫を守るために、守護に任じていくのもありかもしれないな。




