第三十四話 風のように顕雅が流れていた:満済と俺
第三十四話 風のように顕雅が流れていた:満済と俺
さて、伊勢で反乱を起こした北畠の処遇を巡って、ちょっと考えねばならなくなっている。初夏の陽気の爽やかな気分が台無し。
三宝院満済、通称満済さんは従一位権大納言今小路基冬の御子息だ。義母の日野業子の側仕えの縁から取り立てられ、ある意味、義満親父の寵愛を受けたおかげで良い目も辛い目にもあってきた人だ。
依怙贔屓と言われぬために、三宝院二十五世門跡・醍醐寺第七十四代座主となるが、三宝院の法流分裂以降分かれていた各派の教説を全て習得するという猛勉強を熟している。護持僧の身分も足利義満が薨ずるまではお預けであったりする。
まあ、坊主としては大先輩で尚且つ相当の知識人なのだが、この人の与えられた役割から長く……揉めない事を良しとするスタンスが身についてしまっている。
義満親父が無茶した反動や歪みを落ち着かせるために義持兄はかなり穏便な対応を心掛けてきた。満済に畠山満家とその先代の畠山基国はその傾向が強い。斯波義将が存命なときは、キングメーカーよろしく、政権を主導していたんだろうが、九州、南朝、関東に関しても割と先送りの事なかれで対応してきたような気がする。
山名氏の家督相続に端を発する明徳の乱や大内義弘の応永の乱も義満親父の策謀の賜物だったから、ある意味、干渉し暴発させ強力な守護大名の力を削ぐという発想だったんだろうが、幕府を支える力あるナンバーツーを弱める活動を続けるってリスキーじゃんね。
その辺りから、義持兄は強い対応を避けていたであろうし、上杉禅秀の乱もある意味別の思惑で自分の周りの管領や宿老が動いていたことを考え、余りはっきりと事を荒立てないように心掛けていたのだと思う。まあ、義量が跡を継ぎ、自分が後見している間に諸将が寿命が尽きて義満親父のように
力が振るえるまで待つつもりが、まさかの息子から先に死んでいくとはね。そりゃ、堪えていた分心折れるわな。
義持兄の穏便な政策は息子が育ち、宿老が世代交代するまでの方便で有ったろうが、満済さんはそれが政治姿勢で定着しているし、そう事を治めることがあるべき姿だと思っている様子もある。まあ、先の無い人生で揉めるのは嫌だろうが、そのつけを払う後の世の人からすると困った存在なんじゃないかと俺は思っている。
満済さんの口癖は『天下無為でございますれば』だ。『無為御成敗のこと』なんてことも言う。穏便にとか、恨みが起こらないようにとかそういう意味だな。そりゃ、無理でしょ? 理屈じゃないんだから問題起す奴らは。
例えば足利持氏、例えば日枝大社、大和の国人共に、南朝の後裔たち、それと、九州の大友・少弐の奴バラもそうだな。持世君は戦死するかもしれないんだが、俺が彼に依頼したのは「御料の代官」だ。何が言いたいかって?
南朝側について、幕府や朝廷の御料をちょろまかして横領している奴らがいるから、お前が代官に任ずるからそれを取り戻せって話だ。勿論、代官になれば手数料がもらえる。が、百パーセント横領する大友少弐と比べればまともに京に仕送りする分手取りが減る……が、頼まれてくれたわけだよ持世君は。
持世君は自力で大内の家督を継いだゆえに、有益な存在であると幕府に示し続けなければならなかったというのもあるが、長年幕府方として活動しているから、相手からすれば「お、ポリ来た」くらいの感覚だ。原付直結でパクる中坊との関係に近い。つまり、中坊メンタルなのが少弐大友だって
こと。
それを『無為成敗』ってどういうこと?馬鹿なの坊主なの?
乱世なら清濁併せ呑む、見て見ぬふりをする事とも一時はあり得るが、源頼朝もそうだが、天下が落ち着いたら舐めた事をした奴らには落とし前をつけないと武家の面子がたたねぇだろ?
舐められたら負けなのが征夷大将軍じゃないのか?
だから、出来るようにするために雄伏しているだけであって、その過程が『無為御成敗』なだけなんだよ! 目的と手段を取り違えるなって話。
とはいえ、親子ほども年齢が異なる御坊に面と向かって存在を否定するほど俺は子供じゃないので「であるか」と言っておく。これって「あ、そうなんだ」って意味だからね。同意も否定もない「話は聞いた」ってただの相槌だ。
意見を並べさせ、比較的穏便な手段を選ばせるのが満済さんの成功体験なんだろうな。例えば、北畠満雅が敗死した後の跡目相続に、兄弟の顕雅を赤松満祐と勧めてきたわけだが、みっちゃんは明らかに貸しを作りに行っているんだろうが、満済さんは事勿れ平和主義で選んだんだろうな。認めなきゃ揉めるし、そもそも伊勢南半分みたいな陸の孤島を治めるのは容易じゃない。
へそ曲がりの北畠一族に丸投げしてもいいんじゃないでしょうかとは思う。北半分は斯波ちゃんが獲ったわけだから東海道的には問題が無い。
とはいえ、満済さんが宿老たちの間に入り将軍との間を上手く取り持ってきたというのは義持兄の時から何も変わっていない。満済さんの死後、義教の政策が強硬になって歯止めが利かなくなったなどという学者の意見があるが、そりゃ観察者ならそう見えるのかもしれない。
問題の先送りをする時期が終わっただけだ。第二次大戦の初期、『奇妙な戦争』という表現が為されている。宣戦布告を行ったのに、ポーランドを占領した後のドイツ軍が明確な侵略を進めなかったからだ。それって、その時そう見えたってだけだよね? 翌年はフランスを占領し、その次の年はソ連と戦争し始めたじゃないですか。準備のために、何もしていなかったように見えていただけだよね。
足利義教だって同じだよ。準備を進めていた……そういうことだ。




