第百十七話 長禄四年/寛正元年(1460):後花園天皇譲位
第百十七話 長禄四年/寛正元年(1460):後花園天皇譲位
俺もいよいよ六十六となった。元号が長禄から寛正に変わる。
長禄から始まる飢饉の影響は、畠山の跡目争いや甲斐君の親子喧嘩なども恙なく回避、米の生産性が拡大し、諸国に流通網が整備されたおかげで、そのダメージはかなり減退した。
水害と旱魃が交互に訪れた上に虫害と疫病が重なり、どんな近平だよと思わないでもない。
さて、俺の人生において『帝』と言えば後花園天皇、通称『花園君』だ。彼の息子である成仁親王に譲位をした。践祚して後土御門天皇が
『帝』となったわけだ。
まだ四十そこそこで、尹子と同じ年だからな。とは言え、十歳から三十年間『帝』として頑張ってきたわけだから、先に息子に将軍職を譲った俺が「まだやれるっしょ!」とか口が裂けても言えない。
江戸時代の商人が『ご隠居さん』になるのは四十くらいで、逆算して跡継ぎをつくり育てるのが普通だったらしい。大旦那として何年かは後見するならあまり年を取らない方がいいという判断なのだろう。
後土御門帝は二十四歳だから、「少年」ですらなくある程度実務は即戦力で熟せそうである。俺の息子の義法も近衛の姫の正室の子供が生まれる頃であり、花園君も孫の相手をするのが似合う年齢になってしまった。
一緒にもちを食べたり、水車を踏んだり、吉野に花見に出かけたり……思い返すと楽しい思い出ばかりである。
「……大御所、如何した」
「いえ、昔を少々懐かしんでおりました」
「ふふ、さにあらん。あれらを見ていると、つい昨日の事のように思えるものだ」
若い帝たちを爺とおっさんの『治天の君』が眺めると、そんなことを思わずにはいられない。
「これから如何為されまするか」
「駿河に山口、大宰府へ行ってみたい。宇佐八幡にも詣でたいものだな」
「……これは随分とお忙しいことになりそうですな」
「はは、そなたには到底及ばぬが、土産話を聞くのではなく、あれらに語れるようになりたいのよ」
「なるほど。大宰府ではござりませぬぞ、太宰京にごさりまする。九州中の名だたる職人に名馬が集まりまする。西の大都にございますぞ」
「おお、それは楽しみじゃ」
爺の俺が供をし、鎮西将軍や副将軍、大友や渋川らに合わせてやらねばなるまいて。未だ、俺も花園君も現役だってことだよな。
花園君は、あと十年位は元気でいてくれるはずなので、京の外で一緒に出来る事をたくさんしたいと思うのだよ。
「馬に乗りましょうや」
「おお、それは楽しそうじゃな。この年でも習えるものなのか?」
「気の優しい馬であれば大丈夫でしょう。日ノ本一の牝馬を探して参りまする」
「確かに、馬でも女性にもてるのは悪くないからな」
と、水戸黄門宜しく全国行脚でも始めそうな勢いだな。
因みに、水戸光圀は六十過ぎで隠居を許されている。藩主生活は約三十年だな。リアル黄門は全国行脚してないからな。精々領内を歩き回ったくらいだ。それが脚色されてあのお話になっているのだが……
「隠居所は駿河にしようか」
「……おやめください。帝が嘆きたもうでしょう」
「はは、父離れは済んでおるがな。出来れば京を離れたいのだ」
俺もだよ! とはいえ、細川勝元もじわじわと力を伸ばしてきているし、山名宗全は死に体なのだが、体面を保っている。宿老会議自体が空洞化し、管領と将軍とその側近の合議となっているので、在京していても余り意味がないのだ。まあ、三年に一度しか来ないから、それも関係ないんだけどな。
「今の管領はどんな人物なのだ」
そう、そろそろ細川勝元にやらせているのだが、太郎義法とは性格的に会わなさそうだな。あいつは母親似にて表裏があまりないからな。むしろ、重子の子供たちの方が噛み合うだろう。勝元と義政の組合せで応仁の乱は大乱になったわけだからな。
「腹の底が見えぬのは構わないのですが、『公』の気持ちが欠けているように見受けられまするな」
「それは困ったものよ。それでは、大樹を支えるに足らぬではないかの」
はい、じぇんじぇん足りません。もう少しすると、弟たちが育ってくるので、細川抜きでも全然問題なくなってくるだろうな。
斯波家・畠山家は弟・義弟になるし、細川も備中家は弟が後を継ぐ。故に、細川京兆家の後嗣が絶えればこちらの思うが儘なのだ。はよ死ね、勝元と政元。
皆様良いお年をお迎えください。来年が良い年でありますように。