第百十六話 康正三年/長禄元年(1457):大宰府から「京」へ
第百十六話 康正三年/長禄元年(1457):大宰府から太宰京へ
俺もいよいよ六十三となった。元号が康正から長禄に変わる。
そういえば、去年、パパ園君が死んだね。友人がドンドン死んでいく年齢だ。俺はまだまだ道半ばだけどな。
享徳二年に送り出した久しぶりの遣明船でそれなりの物を得ることが出来たのだが、勘合貿易では限界があるよね。やっぱ、内需って大事だと思うの。国内の生産を増やして、市場を育てないと結局嗜好品をごく限られたものが手に入れるという世界になるわけです。遣明船だけだとね。
貿易っておまけだからね。
明はつど『海禁』を発して規制を厳しくしているから、そこに力を入れるのは微妙だと思う。風まかせの往復二年というのはモノを動かすだけなら問題があると思うが、技術や知識を仕入れるには問題の無いサイクルだ。
京の傍では、日明貿易を始め細川が『堺』の開発に乗り出し始めた。まあ、外側のポケット細川だ。俺の息子が備中家から乗っ取るつもりだからな。だから、この辺りも大目に見ている。
戦国時代、伴天連宣教師たちから見ると、堺の街は水に浮かぶ都市国家ベネチアのように見えたらしい。その頃ベネチアは周りの村を傘下に収め、君主化してた気がする……イタリア戦争の頃だから少しあとか。
で、この時代、貿易が停滞しているからそれほどでもないが、三津七湊を抑えた守護大名ってのは権勢を誇っていく。それが、織豊期につながっていくわけだが、今はそうではないので……先に抑えておく。
「……つまり、南蛮の国では帝の代わりに教皇という者がいて、その者が皇帝という征夷大将軍を任命していると。そのような話をどこで聞かれたのですか」
主に世界史の時間です。え、まあほら、桔梗屋やってると色々情報が集まってくるんだよ。
「日ノ本と異なるのは、大僧正が納める寺領が君主のように振舞うことや、大きな石の壁で囲まれた街が独立して直接皇帝の庇護下にあるということよ」
大司教領に帝国自由都市ね。まあ、寺内町とか持って延暦寺や本願寺、興福寺にまあ、大きな神社も独立してるっちゃ独立しているけどな。
「座とは異なるのでしょうか」
「京の座は将軍というか幕府に保護されているが、他は違うだろう。それを、津々浦々に広げていく。その為に、先ずは『堺から始めよ』というわけだ」
「はぁ」
わかってねぇな。細川と三好君や、他の守護大名や戦国大名と手広く商売されたら困るんだよ!! まだ、火縄銃も硝石も関係ないけれど、戦争経済で焼け太るのがこいつらだから、戦争の芽を摘むにはこの辺りを直接管理する必要もある。
「それと、京と堺の間に街道を整備する」
これは、信長や信玄の行っていた軍用の街道整備も関わるんだが、この話は……帝の行幸を絡める。
さて、少弐を追放して十五年、その間に大宰府もすっかり様変わりした。
まだ完全とは言えないが、博多を『外港』として扱い、山口の様な「京」であり、九州支配の拠点として整備が進んでいる。
なにしろ、鎮西将軍足利義尚の居館があり、博多に来る明人や朝鮮の商人と京や東国の商人もやって来る交易拠点だ。ハンザ都市とかそんな感じだな。
「今、九州の南部とは馬の市として交流が進んでおります」
「空き地沢山あるからそれは良いかもしれぬ」
東国と並び、南九州は馬産地として有名である。肥後の阿蘇や日向・薩摩でも馬の育成は大きな収入源と言えるだろう。中国四国はこの辺りから馬を買わざるを得ない。博多じゃ、扱えないからな馬。
「博多も堺に倣って惣構にしたいと申しておりまするが」
「玄界灘に面しているから無理だろ?」
「……でございまするな……」
戦国時代、何度も大内や少弐、大友に襲われ、焼亡している博多の街である。十年で森に戻った時代もあったという。笑える中世日本。
「土塁も整備され、安心して商いができる故、太宰『京』の人は増える一方にございまする」
博多が人口一万、戸数三千五百らしいが、太宰『京』も同程度の規模になっているらしい。特に、職人たちの数が増えているので、生産拠点としても成長著しいと思われる。悪くないよね。
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