第百十一話 ひとりで生きてゆければ:少弐壱岐追放
第百十一話 ひとりで生きてゆければ:少弐壱岐追放
さて、年末を大内の山口で越す事にし、未だ寒い季節ながら、九州の仕置きを行う状況が続いている。
機能不全になっている九州管領の処遇含めて見直さねばならない。
先ず、大内を『鎮西副将軍』に正式に任命させた。従三位ということでこれで大内持世は『公卿』となった。嘉吉の乱で本来死んでいる持世は従四位上修理大夫であったので、それなりに出世したと言えるだろう。
先年、大内盛見が戦死した後、九州探題職はどうなっていたのか。元々大内氏の貢献ありきで何とか存在していたのだが、戦死後味方がいない状態で渋川満直が少弐一族と戦い戦死。肥前守護所に定めた綾部城を確保する程度の弱小勢力に成り下がっている。
当代は『渋川教直』で応永二十二年生まれの二十歳を過ぎたばかりの若武者だが、戦にはそれなりに強いようである。史実でも少弐一族に勝利し、大宰府に拠る少弐教頼を討つべく兵を進め、少弐教頼を対馬国へ駆逐する事に成功している。けど、払っても払っても舞い戻る蠅のように少弐はしぶといんだけどな。
「ようこそ大樹」
「 右衛門佐、少弐の動きは如何に」
既に、博多を取上げられ肥前に引きこもりつつ、壱岐や対馬と連絡を取りつつ俺たちが去れば再び襲いかかる算段のようであるが……
「治罰綸旨を取り付けた。少弐は『朝敵』ぞ」
「……有難き幸せ。父も道雄も喜んでおられますでしょう」
『道雄』とは大内盛見の法名だな。
肥前今川氏も教直らに同調しており、しきりに国人共に連絡を入れている。今川了俊の弟仲秋が肥前に入部・土着したことに始まる系譜だ。当代は今川胤秋で佐嘉郡を拠点にする。渋川と今川は潜在的にライバル関係なのだが、今は俺がいるので協力している。
少弐の残党は筑前高祖城におり、ここは、筑前と肥前の国境高祖山の山頂付近にある山城である。元は少弐と敵対した原田氏の築いたものだが、今は占有している。
加えて、五島列島などを根城にする『松浦党』と呼ばれる海賊衆も存在する為、どこまで治めればいいのか思案のしどころでもある。
「安堵状は出しまするか」
「水軍を扱う者に安堵状もあったものでもないがな」
密貿易や倭寇で稼いでいる面もあるだろうし、博多の商人とのつながりで関係が出来てくることになるだろうが、今の段階では元の大友・少弐の影響下から幕府・大内に切り替えている過渡期であるから、様子見をする可能性が高いだろう。
「あくまで中立で構わないと博多の会合衆を通じて松浦党に伝えよ」
「「「ははっ」」」
博多があるから少弐とつき合っていた面もあるだろう。博多を少弐が奪還できないと分かれば、関わり続ける理由がなくなる。既に少弐の筑前や肥前に伸びた根は、かなり刈り込んでいる。
大友持直が京で処刑された話は広まっている。更に、朝敵として少弐は認定されているので、これを庇う者は余程の縁戚か慮外者以外にはいない。つまり、肥前と筑前の狭間の山の上で徐々に首が締まるのを待っているだけなのである。
まあ、族滅まではするつもりはないが、当主の首と一族を壱岐に流す位の事はするつもりだ。
大内親子と教佑、九州の味方する諸将に委ね、俺は一旦京に戻ることにした。三月に始まった戦は秋の借り入れまで続き、少弐の所領は全て幕府方の軍に刈田されてしまったのである。
結局、少弐一族は降伏し。俺は、少弐教頼ら主だった者を京に移送させ、朝敵として処分することで納める事にした。
それ以外の少弐一族は、最低限の荷物だけを持つことが許され、全員が壱岐へと送られることになった。
前年生まれたばかりの少弐教頼の子供は、将来の当主となる際に『壱岐守』の官職を与える事に決めていた。完全に希望を奪うのは危険である故、罪を犯した現当主は罰するが、少弐一族は壱岐の地でやり直すようにと命じたのである。
――― まあ、片道切符なんだけどね。やり直してどうなるわけでもない。
という感じで、あとは時間をかけて大宰府に「京」を築き、博多と連携した九州の中心を築くつもりでもある。いいだろ?
因みに、最後の最後で対馬の宗氏が恭順してきたのは、少弐一族にとっては止めだったんだろうと思う。節操無いからなあいつら。
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