第五夜:大陸暦1832年6月10日、本日は曇りのち雨なり。
ヘンドリックの昔話を聞いて、空も曇り始めたので帰ろうかと相談していた頃、やって来た1人の老人。昔は温和で優しい性格をしていたという彼は杖をついてこちらに向かってきていた。その眼光は鋭い。
『アベル……』
ヘンドリックが呻くように声を漏らす。彼がヘンドリックの息子のショーンの盟友だったという事はちらりと聞いていた。シンイチロウに彼ら2人の心情がどれほどのものなのか察することは出来ない。心配そうに見つめるエレノアと共に状況を見守る事しか出来なかった。
灰色の空に覆われた空の元、2人の視線がぶつかった。
『アベル……どうしたんです、何か用か?』
「ヘンドリック、様…貴方は……」
杖をついてやって来るアベル。彼の口からこぼれた言葉に込められた意味は分からなかった。
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フェルナンドに久々に外を散歩でもすればどうかと言われ、することもなかったアベルはあてもなく歩いていた。市民の憩いの場である広場に差し掛かった時に見知った3人の姿を見た。
「ヘンドリック様にションちゃん、そしてエリザベス王女……?」
孫ルイの婚約者セイラ嬢の姉君、メスリル伯爵令嬢エレノア嬢と誰かに似た風貌の使用人のシンイチロウ、そしてその叔父のヘンドリック……彼らを見た時にアベルはあまりにかつての光景、夢が叶った幻想を見ているのかと錯覚したほどだ。
だが、すぐにそれは自らの幻覚だったと気づいた。
(今更、そんな幻を見るなんてどうかしている……思い出したくもないレミゼの思い出を思い出そうとするなんて。)
彼らは何かを話してから、その場から去ろうとしていた。アベルは別に引き留めたり目の前に現れたりする気はなかったのだが、気づくと身体が勝手に動いていた。
『アベル……どうしたんです、何か用か?』
聞き慣れたかつて世話になった聡明な侯爵と同じ声。本当に彼は、あのヘンドリック様なのだろうか?私が知っているヘンドリック=オンリバーン侯爵なのだろうか?そうするとシンイチロウがションちゃん?いいや、彼は違う。彼は、姿こそどことなく似ているけれどかの父親の優しさを受け継いだ侯爵とはほぼ真逆だ。
「ヘンドリック、様…貴方は……」
頭の中に固まった疑念が口に出てしまった。ヘンドリック様は、眼を見開いて驚いた後にかつて何度となく見た優しい眼で私を見てくるだけだった。
『シンイチロウ、先にエレノア嬢と帰っていてくれないか?少し、アベルと話したい事がある。』
「ん?ああ、分かった。おい、エレノア……帰るぞ。じゃあまた後で。」
「ええ……」
シンイチロウとエレノア嬢の2人が帰った。
この場には、私とヘンドリック様の2人が残された。
『さて、何か聞きたいことがあるんだろう?遠慮なく聞いてくれ。』
人懐っこい笑みを見せて言う。
「ヘンドリック様……では聞きます。
貴方は、ヘンドリック=オンリバーン侯爵なのですか?そうだとしたら何故、死んだ筈の貴方はここに居るのですか?」
『そうだよ、私は君が知っているヘンドリック=オンリバーンの成れ果てだ。』
答えを聞いたアベルは今までの謎が解けてスッキリと晴々とした気分となる。でも、何故死んだ彼はここに居るのかという疑問には答えていない。
『__私は、死んでからしばらく幽霊としてレミゼ王国を彷徨い歩いていた。諦めて天上世界へ行き、天国か地獄かを目指したがどうしても行く勇気がなく迷っているうちにそこで君達の攻防を、仕えた王家の破滅への道を見た。……私は、今は神様の使いとなり、そして、訳あって生前の肉体を取り戻した。
……と言った所で信じてもらえるかな?“灰色の悪徳宰相”。』
「貴方は、その嫌な呼び名を知っているのですか………貴方が私の知っているヘンドリック様なのかはまだ信じがたいのですが、その呼び名を知られているのは嫌なものですね。
我が家で、少し話しませんか?話したい事が沢山あるんです。」
『いいよ、シンイチロウが色々としてくれるだろうから時間ならまだある。』
広場から離れて家に向かうこととなった。
曇り空が広がるのを見て、周りの人々もちらほらと家路へと急いでいた。
(本当に、あのヘンドリック様だったなんて……)
過去の思い出に浸っていた。
人生は短い。その短い人生の中で様々な出会いと悲しい別れがあった。ああ、この複雑な感情をどうすれば良いのだろう。
__時代も言葉も変わるもの、そして私はそれから脱落した者。それは分かっている、分かっているけれども彼が死後の様子を見ていたのだとすれば、あの頃の私をどう思ったのだろう。曇った瞳で物事を見つめて、彼の大切な息子の託した思いを叶えられなかった私を彼はどう見ているのだろうか。
__私は、あの国を恨まないようにと考えながら貴族から遠ざかって生きた。
__ある盟友は、あの国の人間を恨み続けて、生きている限りずっと恨み続ける道を選んだ。
__またある同志は、血の涙を流し、泣く心を隠して我々の元から離れ、皆から裏切り者と憎まれながら最善の方法を取ろうとした。
__そして、他の同志達も皆それぞれの道を歩んでいった。
それを彼はどう思うのだろうか?
風を受けながら歩いて考えると胸が痛んだ。
少し歩くと家へと着いた。故郷の屋敷に比べると貧相で小さい屋敷だが、アベルは気に入っている。トールが男爵位を賜った時にこの屋敷を購入した時は怒ったものだが、今となっては自分があまりにも貴族を嫌いすぎていた思い出なので恥ずかしい。
『……フム、君と話が出来てよかった。
私がここに留まれるのも後少しの間だから……後長くても半年ほどだ。その間に話せることは話したい。』
「そうですか……もう少しで。でも、何故神様の使いとなられた貴方がここに来たのですか?」
『シンイチロウ、彼絡みでな。彼もまた特別な人間なんだ。はあ、本当に酷い眼に遭った。……あんな恥辱はもう受けたくない。』
ヘンドリックが人形になったり、北の大地で色々あった事を知らないアベルは首をかしげて曖昧な返事をした。
「貴方は、死後の様子をどう思っているのですか?」
『私は君みたいに恨まない気持ちを持つ事が出来ない、幻滅させてしまうだろうけど。どうも時代に乗り遅れてしまったみたいなんだよ、私は。
……君達が甘かった事も、定められた運命だったのも分かっている、あの国が悪い訳じゃない。運が悪かった、それは分かっているのに、私にはあの国を恨む気持ちが消えない。』
「……恨む。」
顔をおおった彼の思いは何となく分かった、かつて何度もそう思ったから。
『さて、こんな話はもうおしまいにしてもっと明るい事を話そう。
アベル、私には残された時間がもう少ないんだ。だから、最後に何か楽しめそうなものを教えてくれ。』
「ヘンドリック様……」
その後は、故郷の話は一言もなく新しい話題を話続けた。私が悪徳宰相だった頃の話も、その後の荒波の話も何一つなかった。
ああ、それにしても身体が重い。目の前の摩訶不思議な状況に身体が付いていけていないのだろうか。
『そういえば、アベルはもう随分なお年寄りだったね。ごめん、無理させてしまって。もうそろそろ帰るよ。』
「え、いや、まだ居てもいいんですよ?主治医は薬を飲んで適度な不摂生をしていれば別に問題ないと言っているのですから。」
『そういう訳にもいかない、アベルには長生きしてもらいたいんだから。女性が行方不明になったり、密取引があったりと最近は物騒な事件が多い。もし帰り道で私が襲われて、その知らせを聞いた君が驚きのあまりそのまま永眠だなんて事になってはいけないからね!ああ、一度死んでるから死なないんだけど。』
「縁起でもないこと言わないでください、おふざけが過ぎますよ。」
『すまない。では、もう帰るよ。』
見送りの為に外へ出ると雨が降っていた。
このまま帰ればびしょ濡れになること間違いなしなほどにザーザーと降っていた。
「あ、ヘンドリック様…この傘をお使いください。」
『ありがとうね。』
傘を受け取ろうとしたヘンドリック様はツルリと柄の部分を滑らせて落としてしまった。彼がかがんで傘を取ろうとしたその時、アベルは確かにこの目で見た。
(気のせい……?)
ヘンドリックの姿が今、確かに透けたような気がした。ほんの一瞬、1秒あるかないか分からないぐらい一瞬の出来事で本当にそれが起こったのか、アベルには分からなかったが。
『じゃあ、また今度。』
そう言って傘を差して帰る彼の後ろ姿をアベルは心配そうに、見えなくなるまで見ていた。
__彼は、色々あったと言っていたが、もしかして心配事があるからここに居ざるを得ないのだろうか?なのだとしたら、その問題が早く解決してほしい、アベルはそう祈った。




