第一夜:1974年8月31日、信一郎少年の夏休み
季節は初夏。6月に入ったマルチウス帝国は長雨が降ることが多くなってきた。だが、今日は珍しく空は晴れ渡っていて雲ひとつない晴天が広がっていた。しかし暑くて仕方がない季節になってきた、その上雨までくる季節とは……そう思うとシンイチロウの心は少し沈んだ。ああ、異世界生活も1年と少しが過ぎた。その間に変わった事と言えばたくさんありすぎて1つ1つあげようとしてもキリがなく夜までかかってしまいそう、そうとも思えるのほどに私は良い方向にも悪い方向にも変わった。
「ねえねえシンイチロウ、ちょっと聞いてもいい?」
「ん~?どうしたんだ、エレノア。」
そう声をかけてきたのは、急に舞踏会会場に飛ばされた俺を助けてくれた恩人の伯爵令嬢エレノア。
「いや、たいしたことじゃないんだけどさ、貴方の子供時代ってどんな感じだったのかなぁってふと思って……」
「え、子供時代?そうだなあ、別に普通だと思うよ。普通に、小学校行って……」
『ハハハ、それは普通ではない。お前の世界では普通かもしれないが、国によっては学園がなく各家庭が家庭教師を雇っている国だってある。それも貴族の話だ、一般庶民は学校など行けたとしても初等科が限界だ。』
俺にツッコミを寄越してきたこの雄牛のようなずんぐりむっくりとした男の名はヘンドリック=オンリバーン。訳あって地上に居る管理者の眷属であり、この国出身ではないが元は人間でもあった。
「あ、そうか……そういやこの時代のヨーロッパの識字率って低かったって聞いたことあるしな。ううん、困ったな……エレノアにどう話したらいいんだろうか。」
『私は天上界のアーカイブでお前の世界については知っているが、エレノア嬢は違う。そうだ、何か思い出話でも普通に話せばいいんじゃないか。普通に自分の子供時代の話を純粋にすればいい、そして分からない単語は後でエレノア嬢が聞く、あるいはその単語が出てきたときにお前が説明すれば問題ないだろう。』
「そうだな、それならエレノアも分かるな。俺に聞くんだから2人もちゃんと子供時代について話してくれよ?」
「するわよ!貴方と違って面白い話でもないだろうけど。」
『そうだな。私も話そうか、エレノア嬢と同様そんなに面白味のある子供時代を送ってもいないが、それでも良いなら。』
「お前ら……俺の話が面白い前提で言うなよ。」
俺の過去話など、そんな波乱万丈に富んだ破天荒な漫画主人公のような人生じゃあるまいし面白味のないものだと思うのだが。何故そんなにハードルを上げてくるんだとシンイチロウは話す前から緊張した。
さて、子供時代と言っても期間などは長くて括りも曖昧だ。何について語ろうか、この間のイワンの件で鍵を掛けた実らなかった初恋?それとも小学生男子のツマラナイ下ネタ話か……エレノアも居るしそれは流石に良くないか。十数分悩んで、頭の中に思い浮かんだなんと言う事もない普通の夏休みのある日の出来事を話す事とした。
「あれは、俺が10歳の時__」
_______
あれは俺が10歳の時、1974年の8月31日の土曜日の話だった。世の中はオカルトブームに沸き、不況だなんだと言いながらも今になって思えばまだゆとりがあってのびのびしていた時代だった。
その頃の俺について言っておくと、簡単に言えば結構ガキ大将……という訳ではなくガキ大将を通り越す横暴さで友人はほとんどいない、今で言う“ボッチ少年”信一郎だった。
そんな信一郎は今、とても追われていた。
「終わるかよ、こんな量の宿題が!
そして、なんで毎年こうなること分かって俺は宿題を後回しにするんだよ!」
勉強机の上に積み重ねられて夏休み課題の塔が出来ている。国語、算数、その他もろもろの宿題を彼はまったくやっていなかったのだ。唯一やっていたのは日記とかろうじて自由研究くらい。
「そうだ、後藤!アイツなら2つ上だし宿題なんてすぐに終わらせてくれる!」
そう思った信一郎少年はすぐさま隣町の後藤の家に向かった。だが、そこで待っていたのは……
「え?お兄ちゃんなら、昨日から遊びに行っててきっと夜まで帰ってこないわよ。」
後に俺の秘書となる後藤倫太郎の妹で俺より一学年下の久美子が呆れたように言ってきた。
「クソッ!あの野郎……」
「毎年、毎年手伝わされてきたら流石に何か考えるでしょ……信一郎、こんな事言いたくないけどもうちょっと前もって準備しろ」
「うう……久美子の癖にやかましい!せめてお前が同学年だったらな……」
「だったとしても校区違うから宿題だって違うでしょう?男なら潔く諦めなさいよ」
「もういいよ、他の奴に頼る!」
宿題の束を脇に抱えてから次の目的地に行こうと信一郎少年は思った。後藤じゃなくても他にも居る、持つべきものは友だと彼は本気で思っていたのだ。次に向かったのは、幼馴染の小野満の家だ。
「神様、仏様、小野様、どうかどうかこの迷える子羊信一郎様に宿題を写させろ!」
「うるさいわ、それが写させてもらう態度か?というか、俺も宿題終わってねぇんだよ!信ちゃん、帰れ!」
「なんだよ、ドケチ!」
この2人の他に気軽に訪ねられるような間柄の友人など居なかった信一郎は何の成果も得られないまま家へとスゴスゴと帰った。
そして、自室の勉強机の前に向かって鉛筆を持ち、さあ始めようと楽そうな国語から挑んだのだが……。
「ううう……問題は難しい事ないんだけど、書くの面倒だ。」
「登場人物の心なんて分かるわけねぇだろ……」
「なんでこんなにあるんだよ……」
愚痴を言いながら国語を適当に書いて終わらせて、算数に取りかかろうとするが………。
「うわあああああああああああ!もう無理、疲れた。どうせ明日もあるんだし今日はもう止めよう。もし、明日終わらなければ始業式の朝に小野に写させてもらえばなんとかなる!
うん、そうしよう!」
その日はそうやって間違った方向に諦めて、昼寝をした。おやつ時になったら駄菓子屋でも行くか、それとも空き地でサッカーでもしようかと昼寝をしつつ夕方の予定を考えた。
「_ろう、し……ろう、信一郎、信一郎!起きなさい、夕方にはお父さんも帰ってくるのよ。ちゃんと宿題を終わらせときなさい。」
「ええー、明日もあるんだし、明日終わらせたら別に良いじゃん。」
「そんな事言わずにやりなさい。」
お袋はそんな事言って部屋を出ていく。
お袋に従うのは嫌だが、親父に怒られるのも面倒だ。……期待していないなら怒らなければいいのに。俺は知ってるんだぞ、親父が夜に酔って『信一郎じゃなくて倫太郎君が息子だったらな』とか言ってた事を。
「チッ!くそったれ……俺じゃなくて、弟でも作ればよかったじゃないか。でも、1人っ子で楽しいから間違ってはなかったんだよ、きっと。」
眉をしかめて舌打ちをする。それだけじゃ飽き足りないので、部屋にあった硝子細工のいつ頃作られたかも分からないおもちゃを壁に投げつけた。本来なら宿題を燃やしてやりたかったけど、そんな事したらそれはそれで面倒だったのでおもちゃに八つ当たりした。硝子の割れる音がしてから室内は静かになる。メラメラと沸き起こる怒りを鎮めようとフーフーと息を荒く吐いて着替えて出掛けた。お袋が何か言いたげな顔をしていたが、無視した。
外は暑かった、夏なので汗が噴き出して陽に反射して光っていた。
「暇……でも、どうせ親父が怒るんだったら今を楽しもう。」
それからは外で遊び呆けた。駄菓子屋で大盤振る舞いするように食べきれない量のお菓子を買って近所の子供にばらまいたり、いつもの土手にいるのも飽きたしと少し離れた市街地に出て……。その間、老人共がこちらを見ながら『あれって山内先生所の……』とか『誠一郎さんのどら息子の信一郎だ』などと言われていて不愉快になってまた舌打ちが出た。
そうやって遊び呆けて、夕方7時に差し掛かるくらいに帰ると親父は仁王立ちして玄関に居た。
「信一郎、今何時だと思っているんだ?」
「ん~6時57分?」
「それは分かっているんだな、だったら何故門限に帰ってこなかった。ウチの門限何時だったかも覚えているよな?5時半だ、5時半!」
「ちょっと遅れただけ。もういい?ご飯食べたいんだけど。」
親父の迫力にいつもなら怯えている俺は何故かその日だけは耐えられた。どうしてなのかは今も分からない。
親父、山内誠一郎はその当時は当選3回目の若手議員だった。誰某内閣の農林省だか運輸省だか何某省の政務次官を務めていたくらいの目立った経歴のない顔が恐いだけの議員だった印象しか子供だった俺にはない。
その親父に唯一勝てたのがこの1974年の8月31日だった。
ちゃぶ台を囲んで食事につくと、親父が話しかけてきた。
「宿題、終わったのか?まさか、毎度のように残しているのではあるまいな?」
「後は算数だけ。」
「そうか……明日には終わらせなさい。」
珍しい日だなと思った。いつもならちゃぶ台をひっくり返す勢いで怒って、『呑気にチンタラ飯なんか食わんと、はよう終わらせい!』と顔を猿みたいに真っ赤にしているのに。
「うん。今日はどうしたの?」
「いや、なんでもない。信一郎、俺ってそんなに顔恐いか?正直に言ってくれ……」
「………………は?」
目が点になった。ははあ、これは顔が怖くてどこぞやの子供に泣かれたのかと納得した信一郎は正直に言う事にした。
「正直に言うと、恐い。なんかね、ワニみたいで夜、灯りのない所で見たらきっとおしっこ漏らして気絶するよ。」
「そうか……分かった。風呂入ってくる…」
泣きながら風呂に入りに行ったのを見て、最初は言ってやったりと思ったが段々と可哀想になってきてちょっと言い過ぎたかなと反省した。
(明日になったら怒られるかな?いや、ゴメンとか言ったら思い出させて余計に『なんで言ったんだ!』なんて言われるかも、恐いし何もしないでおくか。)
信一郎は部屋に戻る事とした。
ふと振り返ると見慣れた先祖代々の遺影が飾ってあって、お祖父ちゃんも親父と同じくらいの悪人面をしていた。俺も将来こんな風になるのかと思うと少し嫌だった。
そして、親父の後に風呂に入ってその日は疲れていたので早めに寝た。
_______
「__だいたいこんな感じの日常かな。」
しみじみとしながら話した。
「哀しい話だね、なんか。」
『訪ねる所が2件しかないっていうのも哀しい。しかし、お前の家は代々恐い顔なのか?』
楽しい話をするつもりが場を盛り下げてしまった。シンイチロウはそんなハードルを上げるからだ、俺の話なんて面白くもなかっただろうとため息を吐いた。
「そうだよ、そういう家系で悪かったな。
じゃあ、次はお前らの話だぞ。早く聞かせてくれ。」
シンイチロウに不愉快な思い出を思い出させてしまったと申し訳なく思ったエレノアは『次は私が……』と立候補しようとしたのを制して、ヘンドリックは言う。
『では、もう1つ……お前の話をいいか?』
「ん?いいけど、でもツマラナイ話だぞ。今ので分かったのに懲りない奴だな、何の話が聞きたいんだ?」
シンイチロウはもう疲れたので話したくなかったが、ヘンドリックの真剣な様子に断りづらい雰囲気がして聞くだけ聞こうと問う。
『お前がここに来る遠因となった、選挙とやらの話だ。』
ヘンドリックの言葉を聞いて、今までの鬱陶しい暑さも外の騒音も全て聞こえなくなった。シンイチロウの中の時が止まった。




