馬鹿な男イワン
雰囲気のあるカフェでコーヒーを啜るイワンは成功したと思った。正面に座っているカウンテス伯爵の妹君マーベラス嬢、つれない彼女を口説くこと数日、やっとコーヒーを飲むところまでこぎつけた。
「………それで、ここ数日迷惑していたのですが一体何の用ですか?」
カウンテス伯爵の妹君マーベラス嬢、その中身は幽霊のヘンリー=ベアドブークなのだが彼は内心この男を可哀想だなと思っていた。こうして、自分が今取り憑いている彼女を愛しのミーシャのために口説いているのに、中身は俺なので堕ちる事はない、そして多分彼の自業自得な末路も近くで口を開いた化け物として待ち受けている。
「何の用だなんて……貴女は分かっているのでは?僕の愛の手紙は読んだでしょう?」
「愛かどうかはともかく会いたいと言われましたので、ですから、私はこうして貴方の元へと参ったのですわ。」
「それなら分かるよね?」
……帰りたい。
第一、中身が俺だという事を除いてもきっと彼女はこの男に靡く事はなかったと思う。彼女は歳上好きなようだったし、そもそも彼のような軽薄なフラフラした男は嫌っていた節がある。
「ええ、貴方は裕福で権勢もあって、尚且つ目立った敵はいない。そして、貴方に嫁げば男爵夫人間違いなしね……」
「ああ、そうとも!」
「そして、貴方は美しいと評判で見目麗しい。」
「ああ、そうだ……!」
「でも、貴方には確か……キャサリン様という相手が居たでしょう?」
何寝ぼけた事言ってるんじゃ馬鹿野郎!
何が愛だと憤って、飲み物をぶっかけたい気持ちになったが、なんとかその気持ちを抑える。
胃酸が逆流するような嫌な物を感じながら、ヘンリーはイワンの返事を待った。
「居ないよ?私の眼には貴女しか映っていない」
黙らっしゃい、どの口がそんな事を。散々彼女とイチャコラしまくっていたくせに、俺が身体を借りているこのマーベラス嬢に内容がキモい手紙を送るのはいかがなモノか。俺も浮気、数股、何度となくやって来たけど、コイツほどとぼけた事を抜かしてはなかったぞ。
暖かな陽が差す中、5月の新緑の風が寒々しく2人の間を吹き抜けた。
「では、返事の方を……。」
自らの勝利を隠しきれていなくて顔がにやついているが、彼はキリッとした顔をして俺の顔をニヤリと見てきた。その顔止めてくれ……背中がゾワッとした。正直言って、途中で投げ出したい気持ちになるが女性達の為、そしてヘンドリック様の為に、慣れない女言葉を使いながら言葉を続ける。
「ハッキリ言ってお断りしますわ。」
バッサリと一言でぶった切った。
感情を抑える事に集中しすぎて、棒読みになっていたと冷汗が流れる。今はそんな事気にしている暇はない、とにかくコイツと何かあったように騒ぎを起こさなければ、あるいは今のこの事態を噂にしてキャサリン様に勘違いされるような事態に持ち込まなければ……。
「え……なんて、なんて言ったの?」
イワンは何故、そう言いたげな呆然とした間抜け顔をしている。
逆に聞きたいがお前、今までの経緯からしても脈なんてあるわけねぇのになんでそこまで自分に自信が持てるんだ?だって、彼女からしたら勝手に手紙が来て、呼び出されて、断ったというだけの話なのに。
めんどくさい男は嫌われるぞ、そう思いながらヘンリーは言葉を繰り返した。
「ですから、お断りしますと言いました。」
「な、何故……!」
「当たり前でしょう?お相手が居る御方と一緒になるような不誠実な事など、私には出来ません」
第一、取り憑いている俺は男だし。いや、女だったとしても願い下げだ。
ザワザワと周りが騒がしい。この男が騒いだ事でギャラリーが集まってきたようだ。はぁ、なんか鋭い視線も向けられていて良くない方に勘違いされているのは確かだ。
「私は、貴方のように相手がいながら気持ち悪い手紙を送りつけてきて声をかける殿方は嫌いですわ!それに、貴方の顔は好みではありませんの!……周囲の目もありますのでそろそろ失礼させていただきますわ。」
「待て、待つんだ!」
コイツの悪行の部分を強調しもって周りに簡潔に何が起きているのかを言いつつ、言いたいことも言ったしこれで少しは狭い貴族社会では少し、ほんの小さな騒ぎだろうけれどもコイツがやってしまった事が広まるので良いかと納得して去ろうとしたが、イワンに腕を掴まれる。
ヘンリーは顔をしかめた。故郷レミゼ王国で相手を引き留めるのに腕を掴むのは、まあちょっと慌ててたんだねくらいのレベルで笑って許されていたが、ここはマルチウス帝国だ。郷に入れば郷に従えという言葉があるようにここのルールに従うなら、コイツのやった事はアウトに近い。
(せっかく、“婚約者候補がいながら他の令嬢を口説いて失敗した男”として数ヶ月笑われるぐらいで済ましてやろうと思ったのに、この俺の最後の情けをどぶに捨てやがった……。
だいたい、この男尊女卑のマルチウス帝国の中心でこんな騒ぎ起こして、下手したらマーベラス嬢にまで汚名を着せることとなるじゃねぇの。まさかコイツ、それに気づいてねぇのか?
ハハハ、馬鹿だ……コイツ、ただの馬鹿だ。)
「__おい、聞いているのか!」
現実逃避をしながら思考の波に身を置いていると不愉快なあの男の声で、急に現実に引き戻された。ウム……何か演説でもしていたようだが何を話していたんだ?やけに彼の目の前や5月の首都の風景がまばゆく見えている、対照的に周りのギャラリーは凍りついているのだが何が起こった?
イワンがわめき散らしていたのは、この男尊女卑で女性の権利という言葉が生まれ始めた帝国でもアウトだった。ギリギリ瀬戸際を保っていたラインをイワンは越えてしまっていたのだが、頭の中で考え事をしていたヘンリーはどうせろくな事じゃないだろうけど、それぐらいにしか思わなかった。
「……イワン様のお考えはよく分かりました。その上で、私の答えは変わりません。誠実でない方に操を捧げる気など私にはございません!!!」
「……な、な、なっ!」
ああ、宇宙人が宇宙語を話している。とても不愉快だ、無性に腹が立ってイライラしてくる。
さて、この場所から立ち去る機会がなくなってしまった。どうしよう……。
「まだ何か?」
イワンはこちらにツカツカと向かってくる。お前に用は無いし、この突き刺すような視線から逃れたいのだが。俺自身はこの程度なんとも思わないが、この身体はこのような悪意や同情の念を浴びた事は全然ないので生理現象として自然と身体が震える。
そして、イワンがプライドを潰されて怒りに狂い殴りに向かっている事に気づいた。
(_ッ!この野郎、流石にアウトだ。)
気づいた瞬間に考えるよりも先に足が出ていた。奴の腹めがけて、キックが炸裂してイワンは道端で悶えている。観衆からは何故か歓声が上がった。
「何の騒ぎだ!」
憲兵らしき男数人が向かってきた。人混みに手間取って来るのが遅れたようだ。この様子を見ていたのなら助けてくれよ……そう思ったが、それを問うことはせずにヘンリーは説明した。イワンは引っ張られていってヘンリーも事情聴取の為に連れていかれたが、人の尊厳を踏み躙るような言葉を連呼していたという多数の証言や初めの方の迷惑しているという言葉を聞いていた人も居たので注意だけで済んだ。ついでに、彼からの気持ち悪い手紙数通も呼び出された証拠として自らの正当性を高めるために提出しておいた。それを読んだ憲兵の1人がうわあと引いた声をあげていたのが印象的であった。
「よし、マーベラス嬢に家帰ったら身体を返してやるか。」
ヘンリーは迎えにきたカウンテス伯爵家の馬車に乗り込んだ。
__後にカウンテス伯爵令嬢マーベラスは覚えのない称賛を受け、よく分からないまま貴族社会での人気が鰻登りに上昇していくのだった。
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あの様子を遠くで見ていたシンイチロウは、ため息を吐いて苦笑した。
「アイツ、失言とかそんなので済まされるレベルじゃないぞ?炎上間違いなし、日本だったらリアルカチカチ山だな。」
「そちらがどうなのかイマイチ分からないけれどマルチウスでもアウトよ?まだ皇族じゃなくて伯爵令嬢の彼女だったから罪には問われないだろうけど、上位の伯爵家令嬢に対して男爵ごときが上から目線で話す時点で貴族社会ではアウトよ。相手の人柄が許せば多少は許されるけれど、彼女は怒っていたしあれは……お先真っ暗ね。」
横に居たエレノアが合掌していた。
この貴族がよく通る通りであのような騒ぎを起こしたのだから彼はしばらく笑い者だな。ベンチに腰かけてから肩をすくめた。
「それにしてもヘンドリックはどうやって彼女を味方につけたんだろう。」
実はシンイチロウらはヘンドリックとヘンリーの密約について知らされていなかった。なので、不思議に思って首をかしげた。そのヘンドリックは家で気分が悪いと言い寝込んでいたので帰ったら聞いてみようと思った。
「ヘンドリック様は元は貴族なのよ?何らかの手段を使ったのよ。」
「貴族ってスゲーな。」
「後は、2人の仲直りなんだけれどねぇ。」
「そうだな。というかあの男よりもソッチの方が重要なんだよ。だって俺はそうしなきゃいけない、お前はナショスト公爵夫人に消されるんだろ?」
「そうよ……あの男の化けの皮が剥がれた所で仲良くしてくれるか……。アッ!ねえねえ、あのミロ様の力を借りてはどう?最近タニア様と仲が良いと聞いたわ。彼に訳を話して2人を引き合わせてみるのは」
「え~金八の力借りるの?アイツ、ナルシストだよ?」
ミロ=サスナ=レッドヒート、ゲーム攻略対象の熱血系の学園教師(通称:金八)の力を借りるのか……彼とはあまり関わりたくないのだが。
大あくびをしながら町の風景を眺めて、ぷいっとそっぽ向いた、そうしてよくよく考えてみると確かにキャサリン様を説得するのはあの男の悪評が広まるだろうから勢いに任せれば簡単だろうがタニア様はどうなのか不確定だ。
「まあ、それで良いか。どのみち引き合わせてみなきゃならないんだから」
大陸暦1832年5月下旬のマルチウス帝国首都ランディマークにはいつものように変わらないレンガ造りの建物が建ち並んでいた。
__夕暮れになんとか時間を作って会った彼は、ゲームより幼かったがやっぱりあの金八だった。
「え?僕にタニア嬢の説得をやれと言うのかい?それは良いけど、本当にそれであの2人は仲直りするの?女の恨みは簡単に消えないと聞いたのですが。」
あの熱血でお節介なキャラにしてはずいぶんと慎重な意見だった。10年後、何が起きたらあんなに変わるんだ?お前、ゲームじゃ常にハイテンションでヒロインにハイタッチを求めてくる人間だったじゃないか……こんなに常識的な事を言う人間ではなかっただろう。
「そこをなんとか……彼女達の仲を乱したのはノマモフ男爵子息です。彼は先程、カウンテス伯爵令嬢マーベラス様に暴言を吐いて連行されていきました。貴族社会でしばらくは遠ざけられる存在となるでしょう、キャサリン様もきっとこれで眼を覚ましてくれると思っています。同じ痛みを知っているならば話は違ってきます。ミロ様、どうかお力添えを!」
「……ううん、そこまで言うなら一応タニア様を説得してみる。」
ミロは軽く誤魔化すように笑って言った。
「ありがとうございます」
「いや、君達の泣き落しに僕の心も少しクラッと来てしまったのも事実だ。それに、イワン……彼とは友人のようなものだったけれど、正直ここまで愚か者とは思わなかったからその毒牙から彼女らを救ってやりたいとも思ったんだ。」
「彼も自分で撒いた種とはいえ可哀想に……」
シンイチロウがほんの少し同情していると、ミロはゲームでは吐かなかった毒舌を吐いた。ずいぶんと友人に言うものではない手厳しいものだった。
「僕は愛すべき馬鹿には手を差し伸べるけど、愚か者は手を差し伸べられない。馬鹿は何度も言い聞かせればチャンスはあるけれど愚か者は何度言っても変われないんだから。」
「そうですか……」
現実のミロとゲームとの解離が激しいことを感じながら、シンイチロウ達2人はタニアとキャサリン2人を引き合わせるという約束を結んだ。
__ああ、それにしてもイワンは貴族社会で白い目で見られるくらいだろうなと思っていたのだが、どうもキャサリン様やタニア様、そしてそれより以前の方の他にも何股もかけようとしていたようで一気に光の速さで悪評が広まり近づく女性が居なくなった処か、あまりにも悪質だと彼を社交界追放にする動きまで出てきた事には驚きであった。彼は、ナショスト派や“王の集い”関係者まで怒らせてこの先出世は望めないだろう。特に後者は伝統と血統が服を着て歩いているような御方達ばかりなのでたかが男爵の嫡男ごときが格上の伯爵令嬢に暴言を吐いたことを由々しく思って烈火のごとく怒っていると根拠はないが信憑性の高そうな噂まで流れたのだからシンイチロウは呆れた。




