7日目、幽体離脱:女泣かせのヘンリー
朝、目覚めると俺が目の前にいた。
入れ替わりの時と似ている、まるで幽体離脱したような………。目の前の自分はぐんにゃり、そしてよれよれとしていて情けない姿になっている。
《自分でも、これは無いんじゃないか………》
目の前の自分、昨日見た選挙通って浮かれきっていたダメなアイツよりはマシだが、こっちもこっちで白目剥いてて情けない。
これって間違いなく幽体離脱ってヤツだよなぁ……さっきから物を取ろうとしてもすり抜けちゃうし。身体は非常に軽い、ジャンプしたら屋根をすり抜けて空高く飛び上がってしまったので驚いた。まるで煙みたいだ。
《もしかして、昨日のあれを見て消えたいと思うほどに恥ずかしくなったのが原因か……?》
信じられない高さから人を、建物を、街を、見下ろしていた。これはきっとアマテラスの呪いなのだろうけれども、本当にそれだけなのだろうか……その呪いは自分の思いと同調しているのではないかと、心の奥でほんの少し引っかかった。
『考えても仕方ないな……身体に戻ろうにも飛ばされ過ぎて帰れそうにないな、どうしよう』
どうしようどうしようと思っていても何も始まらないので、適当にブラブラと道を歩いた。街の人々は自分の姿に気づかず、時々出会う散歩中の犬や野良猫達のみが俺の姿に訝しげな睨むような視線をこちらに向けてきて反応するのみだった。
『暇だな……また、ヘンドリックの所に行って……いや、アイツの所に行っても刺々しい事言われるだけだ……どうせ今日だけだし我慢するか。』
首都ランディマークは春の暖かな陽射しを受けていた。家と家、壁をすり抜けて楽しむ。普段感じない感覚がなんとも心地よかった。
「ニャー(どうも、6日ぶりです!俺です、ロンですよ……シンイチロウ、どうしたんだそんな透けてしまって)」
『幽体離脱してしまったんだよ。』
「ニャー(幽体離脱ッスか、あっちの方にも似たような人を見掛けたよ?)」
『そうなのか?ありがとう、教えてくれて。』
三毛猫のロンは毛繕いしながら教えてくれた。
それは、多分幽霊ってヤツだと思うんだけれどな、人と話せるのはうれしいと思ってそのロンが見たという人物を探した。
少しして、それらしき人物を見つけた。その男はアベル様の後ろにピッタリとくっついて居た。この姿になってから同じような人を発見したのは初めてだったので浮かれていたせいか前に彼が居たことに俺は気づいていなかった。彼は俺の存在に気づいて声をかけてきた。
『お前、お前も成仏出来なかったのか?』
『成仏、俺は……』
その男は、70代…もしかしたら80に近いかもしれない険しい顔をした老人だった。でも風格があって顔の皺は深かった。
男は訝しげにこちらを見てからハッとした顔で見てから悲しげな顔をして言葉を言った。
『お前は、確かメスリル伯爵家のシンイチロウだったか……?お前の事はよく知っている、ここいらじゃあ有名だからな、お前の存在。噂によれば、こことは異なる世界から来たんだろ?1度拝んでみたいと思ってたんだぜ
ああ、俺の名前はヘンリー、幽霊になってもう15年近く経つ、よろしくな。』
『ヘンリー、か……よろしく、お願いします。知っていると思うけど、シンイチロウです。しかし、幽霊の間で有名だなんて知りませんでした』
自然と敬語になってしまう。しかし、幽霊はどうしてそんなに俺の正体まで……と頭をひねったが、よくよく考えてみると人に姿も見えずに不法侵入し放題な幽霊に秘密など有って無い物だと思い至った。
『そんなかしこまらなくてもいいじゃねぇか?幽霊になったらたとえ王様でも大臣様でも、同じ平等な幽霊なんだからな!あんたは幽霊ではないみたいだが、今はおんなじような感じだし、問題なんてねぇよ!』
『確かにそうですけど……』
陽気な人だなぁと思う、さっきの険しい顔はなんだったのか……コロコロと表情が変わって面白い幽霊だと思った。
『さて!ここで生前は女泣かせのヘンリーと呼ばれたこの俺が、今幽霊の間で流行っている遊びを教えてやる!
ついてこい、シンイチロウ……長いしシンちゃんと呼ばせてもらう。シンちゃん、ついてきな!』
『強引な人だなぁ!』
ランディマークの街を歩いていく。この頃色んなニュースが飛び交っている、蒸気機関車の路線が開通したとか景気の良い話だとか……産業革命がモデルなんだなぁと思うような話も飛び交っていた。
そして、あまり舗装がされていない石畳を過ぎて、舗装すらされていない砂利道を通って郊外にある某幽霊屋敷と噂される荒れ果てたお屋敷の前に立ち止まってから、ここだと自慢げな顔をして屋敷の中に入っていった。その後を追って、
『えっと……やむを得ずお邪魔します……?』
『律儀なヤツだな、ここは男1人しか住んでないし幽霊なんだからバレない、バレない!』
ヘンリーに背中を押されて中に入った。
雨風に曝されて、思いっきり押せば外れそうなドアをすり抜けて中に入ると、数多くの黒い幽霊の姿があった。幽霊の1人が言う。
『ヘンリー様、全員集まっています!始めましょう!』
『ああ、そうだな……では、これより“第1082回御札どれぐらい触れるか選手権”を開催させてもらおうじゃねぇか!』
ヘンリーの説明によれば、最近は土地の持ち主がここに売れない画家の卵を住まわせているようで、彼は律儀に御札をちゃんと貼ってくれるので幽霊達は集まってどれ程触れるかを競いあっているのだとか。
その売れない画家の卵は今はどうやら寝ているようで、この時代は当たり前だが、電気などという便利な光源は通ってなく、主流であるガス灯も消されていて、レースのカーテンの隙間から射し込んでくるかすかな光のみが頼りだった。
『どうだ!参加してみないか?これがまた意外と楽しいぞ、ワクワクとして。』
『いや、いいよ……俺はパスしておく。』
『じゃあ次いかせてもらうか。』
口を尖らせてヘンリーは幽霊に何か言ってから、こちらに向き直って次の所へと向かおうと言った。次は絶対に楽しいぞ?とコロコロと上品に笑いながら言った。
《なんか嫌な予感がするな……背中の辺りにイヤーな感じの鳥肌が》
『ぼさっとしてないでついてこい!』
ヘンリーに急かされて俺も歩幅を大きく、足早に歩く。今日は晴天で人の往来も激しい、その中には所々ではあるが幽霊も混じっていた。彼らは普通に道に溶け込んでいて、明らかに足が無かったりする人以外はジーッと眼を凝らして見るか幽霊と言われなければ分からないほどに彼らは日常に溶け込んでいた。
『ほらほら、こっちだ!ちゃんとついてこいよ』
『はぁい、でもこっちって……』
歩いているヘンリーについていく内に自分は所謂繁華街と名高い裏通りの方に入っている事に気がついた。表通りには商店などが建ち並んで昼はこちらが賑わっているが、今居る裏通りは商店が店を畳んだ後にぼんやりとした虚ろな明かりを灯して、様々な胡散臭い妖しげな店が商いをする。法的に発行を禁止されている禁書を商う店にいかがわしい格好をした派手なオネーさんとあんなことやそんなことをする店、男色家の欲求を満たす店まで……そんな裏通りには、お貴族様の出入りも激しいというお噂だ。
そんな裏通りの中で寂れている店の中に入って、奥の方へと招かれる。そこには、着替えをし終わった娼婦の姿がある。
『ほらー、どうだ……ここじゃ覗き見し放題だ!あの子なんて良くないか?』
『ああいうけばけばしいのは好みじゃないっていうか……そういう問題じゃなくて、なんか悪いなあ……』
不法侵入をしたばかりかこんな眼福な光景を拝めるなんてなんか悪い気がして世の男達に申し訳なくなった。
『触ればいいじゃん、どうせ触れる事なんて出来ないんだから、近くで見るだけでも充分ハッピーだろ?』
『いや、そういうんじゃなくて……』
悶々とした俺の様子を見たヘンリーはなるほどと何か納得したように見てから、気持ち悪い笑顔を向けてきた。
『なるほど、生殺しじゃ苦しいもんな。でも安心しろ、幽霊の特権を使えば何とかなる!例えば……あの女でいいか。』
『何をするつもり……』
ヘンリーは娼婦の女の中に飛び込んだ。
すると、今まで艶かしさを漂わせていた女の雰囲気が変わった。何というか、がさつな雰囲気になったような……すると、女がこちらを向いて話始めた。
「よう、俺!俺だ、ヘンリーだ!まあ、こうして取り憑いてご飯食べたり遊んだりは出来るわけ、どう?やってみない、お前も」
『いや、結構です。』
なるべく、内側から沸き起こってくるムズムズとする気持ちを無視しながら澄まし顔で言った。でも、幽霊生活も長く、生前も俺より年長者だったヘンリーにはそういう気持ちなどお見通しなようで、わざとらしく甘ったるい声を出して笑いながら誘ってくる。
「もー、そんな事言っても限界なんでしょ……あら、この子のパンツは何柄か…クイズでもしてみる?」
『っ……し、しないよ!』
そのままツマンナイのと言いながらヘンリーは身体を女に返した。そして、萎えたなどと言いながら店から出ていった。
物騒な裏通りを出てから街に戻る。昼になって街の往来はお昼時な事もあってか大人しくなっていた。
『………ッ!』
『どうしたのです、ヘンリー……?』
ヘンリーの目の先にはエドワード様が居た、あの人は大使なのに暇なのかな……それに夜は女体化した俺に襲い掛かってきたし。彼の姿を見たヘンリーはとても眼を見開いて驚いている、まるで鳩が豆鉄砲……いや、マシンガンでも喰らったみたいな顔していて、こちらの方に驚いた。
『いいや、何でもないさ。行こうぜ、もう今は何も案内できそうなのは無いし……行くか、話でもしようか。』
『はぁ、気紛れな奴。』
広場の座る場所まで来て、ベンチに腰掛ける。
何か複雑な顔をして、こちらを向いてから『さあ、何でも悩みを話せ。俺の方が年長者だ、力になれるだろ』と言った。
『悩み、悩み……か。元の世界に帰りたい、それぐらいだな。でも、今戻っても俺は中途半端に与えられた使命を投げ捨てる事になるし、戻ったとしても俺は、溶け込めないかもしれない……あまりにも慣れすぎて。河童の国に帰りたがったりするのかもな、俺も。
それに、俺は罪を犯してまで帰りたいと思ったのに…あの気持ちは嘘だったのかとまで思えてくるんだ。』
『なるほどな……それは深刻だ。
だが、罪とは誰もが犯す物だ。そして、その罪は無知で何も知らずに犯しているならば余計に質が悪いが、お前はそれを罪だと理解している…そこは偉い。何をやったのか……殺しか?それとも人の人生を壊したか?それとも下着を盗んだ?俺はお前が何をやったのかまでは分からんが、お前達の生活は何の犠牲によって成り立っている、肉を食べるだろう?それに、動物を殺さないなどと言っても着ている物は毛皮だったり、どこにでも動物を殺して作った物は溢れているじゃねぇの。つまり、動物を殺さずに生活するなど不可能に近いんだよ。人間、たんぱく質を取らねば生きていけん…生き物を殺してはいけないのなら、植物だってダメだ。そうしたら木で家を建てるのもダメ、麦や米を食べるのもダメ……水のみで生きていけと言われているも同然。でも、そんなの寿命まで生き永らえる前に飢え死にするさ。
人間の命なんて、多くの動物に支えられてるんだよ……そう考えたらお前のやったことなど細事だろう。』
ヘンリーは長く饒舌に言った。
屁理屈ってヤツじゃないのか、それは。俺は、殺しをやったんだ……許される訳などない。そういう風に物思いをしていると、だいたい俺がしでかした事がどんな物なのかを目敏く察したのか、こんな励ましの言葉を言った。
『なあ、俺の人生も数多くの人間を蹴落として、間接的に人を殺して生きてきた。シンちゃん、元の世界に帰りたいと思ったならやりゃいいじゃねぇか、思ったようにそうすりゃいい。
そんなの気にしてたら偉くなれねぇぞ、偉くなったらなったで要らぬ敵を増やして大変だがなぁ。偉い奴にクリーンな奴なんざほとんど居らんよ、俺の経験からそう言えるがそれはどうしてか分かるか?それはな、嫌でも権謀術数を覚えて自分が落とされないようにしないといけねぇから。甘い人間はすぐに落ちてしまう、お前だってその願いを叶えたいなら心を鬼にして、何でもやらなきゃならん。』
『ヘンリー……』
ヘンリーは手を握ってきた。その手は温かかった。優しい声で、自らに言い聞かせるような声で、ヘンリーは言った。
爽やかな春の風が強く吹いて髪をわずかになびかせる。
『さあ、そろそろ帰れ……お前、さすがに肉体から離れすぎたら死ぬぞ。俺はいつもアベルの近くに居るから……会おうと思えば会える。
そうだ、もしかすると、これが最初で最後の交流になるだろうから最後に言っておく。お前は死ぬな、生きて帰れ。
あと、ヘンドリック様によろしくと言っておいてくれ。』
『ヘンリー……お前は、お前は__』
だが、耐えきれなかったのか身体はどんどんと磁石のように引きずり込まれていく。
まだまだ聞きたいことは沢山あるのに、時間は来てしまったようだ。サラサラと砂時計の砂が零れ落ちるかのように俺の身体も肉体に戻っていった。最後に見えたのは、ヘンリーが寂しげに何かを思い出すかのようにこちらを見て苦笑いしていた光景だった。
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目覚めると、ヘンドリックのげんこつがいきなりとんできた。
『ずいぶんと長い昼寝だったなぁ!起きないから心配したが一体何をしていた。早く仕事に行け!この寝坊助!』
「いや、これには訳が………!」
『問答無用、とっとと行け。』
俺は起きて早々怒られ、酷い眼に遭った。
けれども、これで呪いは終わった。7日間の長い、長い呪いはようやく終わった、そう思うと心が晴々とした。
ヘンドリックはそう思っているシンイチロウを眼を細めて、口許をほころばせて父親のような笑みを浮かべて眺めていた。




