夢心地な時間
ヘンドリックは、つい先日この世界に迷いこんだあの異世界の男の事を考えながらサクサクと麦畑を歩いていた。
(あの男……似ている。)
__何処か少し似ているのだ、かつての息子に。違う所があるとするならば、あの子はあそこまで横柄な態度でもなければ、ものぐさな人間でもなかった所だろうか。
………ヘンドリックにも人として生きた時間があった。ある王国の田舎貴族の家に生まれ、兄弟が早世したので爵位を継ぎ、結婚して子供に恵まれて……つい半世紀ほど前まで人として当たり前に生きていた。
「ヘンドリック、何を考えているんだい?」
ある事情で管理者ミラーナの眷属となって働き始めてから早四半世紀……ここは下界と時間の流れが異なる場所、私が眷属となったのはついこの間なのに下界で懸命に生きる人の間には25年も経ってしまっているのだ。………私の名前を知る知り合いももう少なくなってきた、息子だって四半世紀前に無念に死んだ。そのうち(いや、もうとっくの昔にかもしれないけど)私は歴史上の人物として刻まれ紡がれるだけの存在となるのだろう。
「マルチウス帝国にはかつての空気を纏う“彼”がいるからだろう?ほんのちょっぴりの感傷に浸っていたのかい?」
「いえ、別に………。ただ、あの山内信一郎はどうなるのかと思っただけです。」
山内の名前を出した途端にミラーナの顔は強張った。何か申し訳ない事をした、そういう風な顔だ。彼のそんな顔は見たことが無かったので驚いて見ると次の瞬間には、もういつもの澄まし顔だった。
「彼はきっと生きて帰れるだろう、こっちの世界で怪我でも負わない限りは。死んだ所で向こうの世界に転送させられるのは、彼の遺体だ……向こうに帰りたいのなら死ぬのが手っ取り早い方法だな。」
ハハハと残忍な事を言いながら彼は嗤った。
「貴方、何か隠していませんか?
もしかして、また“ショーンの時”のように下界に干渉したのですか!?」
ミラーナは心外だとばかりに下手な笑いを見せてから、昔の罪でも思い出すかのような祈るポーズを取りながら、
「“今回”は何もしていない、干渉などしていない。ほら、調べてごらんなさい……そうすれば僕の無実は分かるから。__だから、これ以上は…これ以上は何も聞かないでくれ。」
絞り出すように彼らしくない弱気な答えが返ってきた。
ヘンドリックは居たたまれない気持ちになってミラーナの元から離れた。それから調べても彼の言う通り、下界に干渉したような形跡は見つからなかった。
下界では、何億人もの人が今日も懸命にその日、その日を大切に生きていた。そこに、昔の知り合いは居ても、ヘンドリックが1番幸せになってほしいと願っていた息子の姿は無かった。
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俺はどこまで沈んでいくのだろう……断片的でおぼろげな記憶を思い出しながら、身体だけが沈んでいくような気持ち悪い夢心地な感覚にとらわれていた。デジャ・ビュをとても感じる、この世界にやって来た時と似たような感覚だ。
何故か俺は、父から受け継いだ昔ながらの日本家屋の長い長い廊下を歩いていた、この廊下はいつも涼しくて不気味なほどに薄暗かった。妻はこんな気味の悪い家は嫌だから新しい家を買おうと言うのだが、幼少期の思い出や青年期の煩悩が詰まったこの家から出ることは出来なかった。
長い廊下を歩いて1枚の障子戸の前に立ってから勢いよく横に開くと、広々とした一室で1人娘の真理がゴロンと寝転がってゲームをしていた。
『お前は、久々に顔を見ようと思ったらゲームか!』
『うっさい……今、良いところなの!』
画面に映るイケメン達に情けない顔をしている娘を見ながら、ワケわからないという気持ちになる。後ろに控えていた秘書の後藤に『これはなんだ?』と聞くと『このゲーム上のヒロインになりきってイケメン達との擬似恋愛を楽しむ乙女ゲームというモノです。あ、ちなみにこのゲームは『瞳を閉じて、恋の学園』というタイトルのもので人気作品と言われています。』というやたら詳しい返答が返ってきた。
『ふうん、なんだこの金髪のチャラチャラしたロン毛は……!ロン毛なんてもうブームじゃないだろ!そして髪の色、見たところ学園モノのようだが、校則はどうなっている!』
『代議士、それを突っ込んではいけません。
そして、その代議士が散々にけなしているその男は、そのゲームの王道キャラ、ジョージア=チャーチ=アップル=ル=ドーファン=ド=マルチウス皇太子なんですから!』
名前長っ!アップルにドーファン、ドーファン……って勘違いじゃなければフランスの王太子の称号じゃなかった?どう見てもイギリスっぽい風景なのに。
『後藤、後藤はよく分かってるわね!』
真理は後藤と気が合う。……父親の俺よりも。
後藤も後藤だ、そんな女がやるゲームなんて……と思うのだが、土佐日記に『女がする日記なるモノを男である私もやろう……』とかいう有名なお言葉もあるわけだから、別に構わないのかと渋々思い直した。
『そういえば、この眼鏡をした男の横にいる少女、この子はなんか寂しそうというかなんか背負ってそうだな。』
恐らくその時画面には登場人物の集結場面でも映っていたのかもしれない、記憶は曖昧で乱雑に渦を巻いて溶けていく。
『ああ、この子……この子はねこのルイルートの悪役の女の子なんだけどね。家が貧乏だから成金貴族だったこの眼鏡の少年ルイって言うんだけど、このルイと婚約するんだけど、色々とね……私だってこの子だけは可哀想だと思ったわ。』
『うん?そうなのか……』
この娘に物語への感情移入等を期待するのは間違いだと思っていたのだが、その娘がそこまで言うとは相当の悲惨な生い立ちのキャラだと思う。
『彼女は何もしていないのにルイに嫌われて、周りが彼女に罪を全て押し付けたのにそれを1人で全部背負って、最後は殺されたの。』
____その可哀想な悪役の少女の名はセイラ=キャシー=チェリー=ラ=メスリル伯爵令嬢。
その名前を聞いた途端に電流のようなモノがバチリと頭の中に流れてきて、そこで俺の意識はまた明るい色彩を帯びてきて、急浮上しようとしてきた。
『それはね、私の妹セイラとマリア様の息子のルイを結婚させる事よ。それが借金返済の手っ取り早い方法。』
エレノアの声が反芻して響いた。
__ダメだ、そうすると彼女は……セイラは死ぬんだぞ!
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「悪役令嬢セイラ……」
俺は、どのくらい眼を閉じていたのだろうか。
長い長い夢を見ていたようで、眼を開くとあの見慣れているのに懐かしく感じる日本家屋の木の天井ではなく、ヴィクトリア調の別空間のような埃っぽい部屋だった。
「良かった、目が覚めたのね!」
目覚めた瞬間エレノアが抱きついてくる。
「ああ、だから離れてくれないか。
それと、言いたい事がある。君が出した確実的な借金返済方法……あれは却下出来ないのか?」
「どうして?それ以外に良い方法が思い付かないのよね……。」
確かにそうなのだろう、金持ちと家柄が良い者との結婚は珍しくなくなりつつある時代、セイラとルイの婚約も珍しくはない。
双方にメリットのあるこの方法は単純かつ手っ取り早い最良の方法である。
「……本当に良いのか?」
悪役令嬢に仕立てあげられるセイラ、けれども今からならまだ10年以上も時間がある。ルイだってまだ乳飲み子だ、家庭環境を強制して行けばなんとか物語開始までに2人を幸せにできるのではないか。
(まあ、俺は借金さえなくなってくれれば別に良いんだけどな。)
早く7人を救うことが出来れば良い、そうやって早く日本に帰ることが出来ればそれで良いんだ。
(間違っても、あのロン毛の皇太子とかゲーム関係者にはこれ以上は遭遇したくないんだけどな)
ルイと婚約を結ぶには、家族との顔合わせは必要だ。そこで俺も多分ルイ少年……今は2、3歳と遭遇する事となるんだが、そう考えただけで心なしか胃がチクチクとして痛い……。
__結局俺は、エレノアに全て任せて何もせずに事件解決になろうとしているのだが、これで良いのか?