シンイチロウの選択
元の世界に戻るか、ここに留まるのか__。
究極の選択肢を彼女は私の目の前に置いた。少し前の自分なら迷うことなく前者を選んでいただろう、だが今は迷いが生まれている。
『……さあて、どっちを選ぶのか。』
アマテラスの顔からは何も読み取れない。嘘をついているようにも見えるし、本当の事を言っているようにも見える……彼女の真意が読み取れない。
彼女は手に持っていた袙扇をヒラヒラとふって、魔法か何かで空間を歪ませてSF漫画に出てきそうなブラックホールという形容の仕方がよいのか、ブラックホールのように手を伸ばせば吸い込まれそうな空間を創っていた。向こう側の景色は不鮮明に霞がかったようではっきりしないが、秘書の後藤倫太郎とおぼしき男の姿が見えた。
「ご…と…後藤!」
手を伸ばすのを躊躇してしまう。久しぶりに見た彼が、本当に秘書の後藤倫太郎なのか、不安に感じたからだ。
『シンイチロウ、これは嘘だ!奴が、お前を戻してくれるなんて、そんなことするわけない_ミラーナ様との契約で7人の人間をお前は救わないといけないんだから!』
「ヘンドリック、俺はどうしたらいいんだ?」
そう言われてもシンイチロウの心を掻き乱すだけだ。元に戻るかこのままか、簡単に見えて実は難しい……あれほど帰りたがっていた世界なのに、今ではすっかり執着が薄れてきている。
『お前の自由だ、それは』
俺の問いに、ヘンドリックは慈愛に満ちた顔で言うだけだった。
__永田町を闊歩していた落選するまで挫折すら知らなかった信一郎。
__歳相応とまではいかないが、成長している異世界生活にもなれたシンイチロウ。
どちらを選ぶのか。
「俺は……」
石崎博人に敗れて、惨めなあの2010年の冬に戻るのか。あの惨めで、不愉快なあの場所に戻るのか!あのまま通っていたら、民自党が政権与党のままであったなら自分も政務官になれただろうに、そんな幻影を抱いたまま憐れむ人々の視線を受けながら虚しく次を待つのか……。
それとも、このままメスリル伯爵家使用人のシンイチロウとして大陸暦1832年の2月に留まるのか、そしてほぼ満ち足りた中、家族にも会えないことをなんとも思わずに満足してここに骨を埋めるのか……。
「俺は……」
信一郎とシンイチロウの狭間で俺は揺れ動いていた。向こう側の後藤は誰かと話しているようだ。
後ろを見ると、ヘンドリックが心配そうにこちらを見て私の選択を待っている。エレノア達や魔方陣から離れた所にいた信者達はまだ気を失っていて目覚めていない。
後ろに転がっている彼らを眺めながら、嫌な考えを1つ、1つ消していく。
外の状況は最悪だろう、暴動は鎮圧するために幾人の犠牲者が出たのか想像したくも無いが、そういうシンイチロウにとっては非現実的な出来事が起こっているだろう。ここの状況だって、彼らが目覚めれば襲いかかってくる可能性が無いわけではないので命の保障は出来ない。
ホコリ臭くて、古い本のような香りが充満した調度品などない部屋でシンイチロウは1つの到達点に達した。__今は、この選択しかない。
「俺は……」
震える声で言葉を続ける。
「俺は……向こう側に行かない。
いや、いずれは帰らなきゃいけないだろう、でも……今は、今はまだやらなきゃいけないことが残っている。」
『……ミラーナの指令の事か?それならば__』
アマテラスが眉をひそめて聞くが、それではない。
「違う、それではない。少なくとも、あの少年__彼を助けてからじゃないとちゃんとした選択をする事は出来ない。まだ心の整理をつけていない。」
『フハハ、なるほどな。理解した。
その選択、間違ってはいないぞ。何故なら、妾は元よりそなたを元の世界に戻すことなど出来ぬ身であるからな。この世界に干渉してお前を殺すことは出来ても、お前を戻す事はミラーナとの約束で出来ん。
そなたの間抜けた面は面白かったぞ。』
「お前は………」
さっきまでの悩んだ時間を返してもらいたい。あれほど葛藤したのに、悩んだのに……。俺は結局神に振り回されただけだった。
『だが、惜しかったな。お前がこの向こう側に行こうとしていたなら、転移門はお前を異物と判断して存在ごと消していた……妾の願いも叶ったのじゃが。』
「………」
冗談めかして言ってるけど、漂わせている物がマジだ。間違えなくて良かった!
『__さて、起きろ蛆虫共!』
パチンと指をならすと少年とエレノア、ゴンザレスだけが眼を覚ます、狂信者達は眼を覚まさない。
『……もう少し手加減した方が良かったかのう。ここまで効くとは思わなかった。』
噛ませ犬共は放っておくとして、先に目覚めた3人は眼を擦って頭を抱えて当たり前だろうけど、混乱していた。
「確か、救世主様と逃げようとしていたときに“癒す者の長”に連れ去られて戦いになってから………なんだっけ?」
「ゴンザレスとシンイチロウ探しに出発して……なんでこうなったのだろう?まったく思い出せないわ?」
「あれは、オリンさん……?なんで、オリンさんが……!?」
記憶にも混濁が見られる。
そして、ゴンザレスは後藤とオリンを見間違えている。気持ちは分からんでもない、俺も最初は見間違えたんだから。
『残りの者もそのうち目覚めるだろう……早いところ、その3人と共にここから出た方がよいのではないか?妾は、もうそなたには用がないからの……』
『言われなくともそうするさ。シンイチロウ、早くここを出よう。』
ヘンドリックに手を握られて3人と共に部屋を出ようとした刹那、アマテラスの造り出した時空の歪みの向こうにいる後藤の姿がやけに先程よりも鮮明に色彩を帯びてとても激しく揺らめいて見えた。
「後藤……今頃は苦労かけてるだろうな。アイツにはいつも俺の尻ぬぐいばかりで……」
鮮明になった後藤を見ているうちに様々な事が思い出される。
懐かしさに浸るのもこれが最後と、この世界の方を向いて、しばらく向こう側と再び別れを告げていると、ギギギという変な軋むような音がした。シンイチロウだけではない、ヘンドリックもエレノア達も皆この音を聞いていた。
「な、何よ!あの音」
「何が起こるの!?」
皆が混乱するなか、シンイチロウは妙に冷静にこの事態を見ていた。ここには、ギギギと軋むような金属製のモノはない。噛ませ犬が書いた謎の魔方陣や祭壇と、信者達が祈りを捧げる為の長椅子くらいで軋むような音が立つほどの大きい金属製のモノはない。
『ムム?これは……』
最初に異変の正体に気がついたのはアマテラスだ。彼女が向いている方向を見て、シンイチロウもその異変の正体に気がついた。
__後藤の姿が段々とハッキリと鮮明に見えてきているのだ。
「おいアマテラス、なんで後藤があんなにハッキリと見えてるんだ!」
『……こちらの世界に干渉しすぎたかの。お前達、下がっていろ。』
俺の問いにアマテラスは何やらブツブツと推測を立てながら言った、“魔法分子”や“時空の歪み”などという単語が断片的に聞こえてきただけで全部を理解する事は出来なかった。
アマテラスはブラックホールのような歪みに向かって力を込めている。だが、段々と押されぎみでこのままじゃこちら側が呑まれそうだ。
《__警告__
時空に不確定な歪みが見られます、魔法分子残留量……_が不足しており、継続不可能です。システムを中断してください、システムを中断してください。温度上昇中…_温度上昇中…_システムを中断してください、オーバーヒートの危険性あり_》
『ぐっ……!
このままじゃ呑まれそうだ、オートモード…これで、なんとか呑まれる事は防ぐか。』
アマテラスが手に持っていた袙扇が電子音を発して警告をしている。どうやら、アマテラスはあの扇を使って制御などをしていたようだ。
「後藤……!」
アマテラスが何をしているのか、異世界転移という非現実的な出来事を経験しても所詮はただの凡人であるシンイチロウには理解出来なかった。
「後藤…!」
アマテラスが汗だくになってふらつく。
辺りの景色はスッカリ変わっていた、間違いない…2010年の1月18日までシンイチロウが使っていた選挙事務所の中だった。
『あの狂信者共の祈りのせいで空気中に漂う魔法分子が変質して、2010年の日本と繋がってしまったようだな……。なんとか呑まれる事だけは防げた……下手したらあの教会ごと異世界転移していただろう。
……安心しろ大丈夫、しばらくしたら戻る。』
「後藤、なのか……!」
後藤に触れる事は叶わない。
元々、元居た世界とこちらは次元に人が分からないほどの小さな小さなズレが見られる……だから触れられない。
今は、この教会に2010年のあの景色がプロジェクターを使って投影されたような感じで、彼の姿は透けている。いや、私達が幽霊のように覗き見ているという表現が正しいのだろう。
「後藤…久しぶり、だな。」
返事がないはずの声をかけた。
その刹那、感知できる筈のない彼が、私の声に対して返事をしたような気がした。
__議員と秘書の視線はその時確かに交わっていた。




