ああ、何か起こるぞ!
___おお、神々よ。虐げられし我らを救いたまえ。
マルチウス帝国のある地域から必死に、高らかに上がってくる声に、神と呼ばれた管理者ミラーナが死んだ眼をしながらため息をついて、彼らを一瞥した事を、哀れなる狂信者は知らない。
「………問題ねぇ、この状況は。」
そう呟いたのは、管理者ミラーナでもなければこの物語の主人公山内信一郎でもない。クロード=エルリ=チェリー=ル=マナセイン伯爵_あの舞踏会でエレノア達が出会ったクロハの父親である。
「だ、旦那様……これは一体、どういう事態なのでしょう?」
近くにいて困惑気味に声を上げたのは、ほんの4ヶ月ほど前にマナセイン伯爵家の使用人となったオリン=ベアード=ミニスターである。10年後には、ダンディーになっているだろう事を感じさせる色男で、有能なので伯爵は重用していた。
「忌ま忌ましい連中が騒いでいるに過ぎない、気にしちゃ終わりだ。」
「忌ま忌ましい連中?」
オリンがクロードの言葉を反芻して返す。
クロードの顔は苦々しく、ヒヤリとする冷気すら漂っていて、オリンはヒッと小さく声を上げて後ずさった。
「あの、ルミナリア正教の残党がまだ何かやらかそうとしている……本当に勘弁して欲しいものねぇ、オリンもそう思うだろ?」
「ルミナリア正教……残党……なるほど、そういう事ですか。」
ルミナリア正教…我が国より北東に位置する大国ナクガア王国の国教である。
我が国には複雑な歴史背景がある、小国が併合され続けて、他国から土地を奪い奪われ出来た大国には宗教問題が起こった。帝国は一神教であるのだが、小国の中には多神教文化の国も自分達の神こそが第1と考える者も当然ながらいた。そこで帝国が行ったのは、神はただ1つだが、その他の国が信仰していた神は神に準ずる聖霊として信仰を許すという事だった。反発を受けながらも長い時間をかけて受け入れられていったが、全ての人が受け入れた訳ではない。
伯爵領は元々ナクガア王国に近いこともあってルミナリア正教の信仰者が大半を占めていた、その中で帝国の施策に反発した者達の末裔は暴徒化し始めたのだ。
「………そうだ。あの連中がまた騒ぎ始めた。」
「確か、前回は19年前でしたっけ?でも、旦那様がそこまでお思いになる程なのでしょうか?」
「あー……俺もねぇ、いつものやつだと思いたいんだけどそうだとはどうも思えないんだよ、だってあの連中……このままじゃ俺が領地経営任せてた領主代行を過労死させるんじゃないかって勢いだもん、あの優秀な男をあそこまで追い詰めるなんて今までない事だぞ。
ああ誰だ、誰だ、あの馬鹿野郎どもを調子に乗らせた馬鹿野郎は!」
「………旦那様。」
紙をぐしゃりと握りしめて、身体で怒りを表現している男にオリンは何も言うことは出来なかった。
いつもの事、彼がそういう程にマナセイン伯爵領では小競合いや暴動が起こっていた。前回は19年前、その前は半世紀程前……一世代毎に騒ぎが起こり、マナセイン伯爵自体はあの土地が嫌いだった……女帝陛下に土地を返上できるものならすぐにでもしたいくらいに、靴を舐めろと言われればすぐに舐めるくらいにあの土地を手放したいと思っていた。
「……済まんな、驚かせてしまったなオリン。
あの土地に行きたくないが、領主代行が助けを求めてきた、そして“あれ”を暴走させたら我らの責任が問われる……」
「では、帰還の支度をはじめましょう。
私は、書簡を書きますので出立には数日掛かるでしょうけど……」
「ああ、頼む。」
こめかみを押さえて、善くない出来事が起こる予感がしながらマナセイン伯爵は言葉を吐いた。
夕方、嫁いだ長女を除いて家族全員が集まった時に主は宣言した。
「なあ、お前達……俺はねぇ、後数日したら領地に戻る。だから、留守はよろしく頼んだ。おい、リチャード……もしもの事があったら伯爵家はお前に託すからな。」
冗談めかして言った食事の席にざわめきが広がった。長男リチャードは『はぇ!?』と妙な声を上げて慌て始め、次女のクロハは『帰るか……なるほど、エレノア達でも誘おうかなぁ』と呑気な事を言っていた。それに対して『クロハ、旅行じゃなくてマジで一大事だから』と若干口調を砕けさせて旦那様が言った。
「えっと、いきなりですが何故にそのような事を?」
困惑気味に聞いた長男リチャードにマナセイン伯爵は言う。
「……“アルト”が助けを求めてきた。
それがどういう事か分かるな?だから、俺はあの地に戻る。」
室内がシーンとした。
“アルト”……領主代行を任せている男で伯爵の従兄弟に当たる男である。調整役として一族の中で1番優れている男が救援を求めてくる、伯爵としても根性をかけて本腰を入れなければならない。この子供達が、伯爵程事態を理解しきれているとは思えないが、それだけが不安だが伯爵は行かなければならない。
「……お父様、ウチも連れて行ってくれんかいな?」
「別に構わないけど…覚悟はしといてね。後、エレノア嬢を連れていくのはダメだからな?」
「分かったわ、ありがとう」
そう、この時は“あの2人”を連れていく予定はなかったのだ。__翌朝、まるで何かに飛び込んでいくような勢いで2人が、マナセイン伯爵邸のドアを荒く叩くまでは。
__ドンドン、ドンドンドン!
「……誰だ、こんな朝から。」
オリンは大あくびをしながら目覚めた。
時計は朝の5時。寝ぼけた顔で扉を開けるとエレノア嬢と使用人シンイチロウだった。シンイチロウの手には、15㎝ほどの可愛らしい幼女趣味の人形がある。何故かその人形を見た時に違和感を感じたのだが、その理由は分からなかった。
「助けて!何も聞かないでとにかく助けて!」
よく分からないが2人を中に入れてから話を聞く。愚痴っぽくなっている事を聞くと、エレノア嬢が弟のポーター君とケンカしてそれにシンイチロウは巻き込まれているという事らしい。
「いや、俺は忙しいから。……色々とね。」
「朝からなんの騒ぎや!……ってエレノア?」
それから女子のトークに飲まれていった。
エレノアが一緒に数日居てくれないかと頼んだところ、クロハは申し訳ない顔をして言った。
「ウチな、後数日したら領地に行くんよ……だからエレノア達と遊べんのや。」
「そっか………」
エレノアは残念そうな顔をする。
……ん?なんか、なんだろう……背中がゾワッとするような嫌な予感がするのは何故だ?
「じゃあ、エレノアも一緒に行こう!」
これは、あの地の恐ろしさを知らない故だ。
あの地が恐ろしいのは、オリンだって知識としては知っている。それをクロハがどの程度理解できているのか、分からないが。宗教、いや信心ほど人々を団結させる恐ろしい何かはない。そのような土地へ行くなどただの死に急ぎ野郎だ。
「いいの?マナセイン伯爵領は今、危ないらしいという噂を聞いたけど?」
「そうなんか!初耳や、一体どこからそんな根も葉もない噂が!……まあ、アルトおじさんがやられたなら根も葉もなくないか。」
確かに根も葉もなくない……だが、噂が広まるの速いな?
『行った方が良いんじゃないか?死にたいなら、な…。』
エレノア嬢でもクロハでも、況してやシンイチロウでもない可愛らしい誰かの声がした。
「……エレノア、危険な眼に遭うかもしれないぞ。」
「危険ね……貴方がいれば、そんなの乗り越えられるわ。それに決めた、私エレノアは人生初の大規模な家出をすると!」
「うわあ、なんか嫌な予感しかしねえ。」
シンイチロウのぼやきに、オリンは心の中でこれから起こりうる災難とそれが降りかかるだろう事を思って、心の中で彼に合掌した。
___まるで、神の見えざる手が働いたようにシンイチロウは災難へと巻き込まれる事となった。それを遠い、遠い彼の生まれ故郷から見ていたアマテラスが怪しげで艶やかな笑みの表情を形作ったそうな……。
__ああ、何かが起こる予感がする。




