春はまだやって来ない
__ポチャン…!
そう小さな音を立てて、手から離した俺の手紙は空を舞って、地面へと落ちる前にスーッと宙で姿を消した。__これが世界を越え、時を越えて繋がっていた俺と彼女らを繋ぐ最後の時だ…信一郎にはそう思えてならなかった。
『さあ、これで未練を断ち切れ。お前はどう足掻いても彼女達に2度と会うことはできないのだから。』
「………そんなのできるのか分からないよ。」
信一郎は息を吐いた。もう冬を過ぎ春が来ようとしているので息は白くならなかった。既に失われた日々、俺はあの地に居たからこそ輝けた、ここではそれは出来ないと思う。今更、戻ることなどできない。激しくぶつかり合って、時に傷つきあってきたあの場所に戻る術も…もう何も残ってはいないのだから。
『信一郎、お前が考えていることは分かるが…それは叶えられない。』
「アマテラス、それは分かっている。戻りたい、だけど戻れないのは分かっている。なあ、時々でいいからここに来てもいいか?」
『まあ、別に構わぬ。
信一郎、お前はシンイチロウの幻影をどうする気だ?このままだとお前は奴に苛まれたまま人生を終えるだろう、乗り越えなければならないと思う。』
「時の経過と共に彼も消えてくれるだろう。俺はそう思う、俺が幸せを掴めたら見守っていた彼だって消えてくれるだろう。」
両手の拳を握りしめて弱々しい声で言いながら空を見上げた信一郎に釣られてアマテラスも空を見上げた。空を見ている間、アマテラスは大昔の事を思い出していた。
__遠い、遠い昔…5000年以上前の縄文時代、アマテラスは1人の縄文人に恋をした。悠久の時を生きてきたアマテラスの記憶は曖昧だ、印象に残った事や一般常識ならば覚えていられるが、数千年も経つと記憶は抜け落ちていく、それでもこの事は朧気ながら覚えている。昔、出会った縄文人に恋をして、手酷くフラれた彼女は彼に酷い事をした。彼の姿を猪へ変えて、猪となった彼を仲間に狩らせた。そして、彼の子孫が動物のような顔に生まれるように設定して、簡単には死なないように天性の運を授けた、まさに呪いとも呼べる行為だ。そして、彼の子孫はまだ呪いから解き放たれてはいない、5000年も経ったというのに。きっと万年経っても彼の血が受け継がれる限りは解かれる事はないだろう……我ながら残忍な事をしたと思う。
「_テラス…アマテラス、どうしたんだ?」
『いいや、何でもないんだ。何でもない、少し昔の事を思い出していただけだ。』
信一郎はきっと一生忘れられない、あの世界での出来事を。自分はまた呪いを広げてしまったのだ……ただのおみくじがこうなるとは、世の中も分からないものだ。
「ふーん、そうか…」
『信一郎、済まなかったな……色々と。』
「何がだ?ああ、異世界へ行かされたことか?気にするな、良い経験だった。青春時代に戻った感じがして、とても楽しかった。」
『ああ、それは……』
アマテラスは別の意味で謝ったのだが、信一郎はそれをアマテラスが思っていたのとは別の意味と解釈したようだった。さらさらと吹く風に髪がなびいた。
「アマテラス、俺に色々なことを教えてくれよ。例えば式神の創り方とか!後、管理者だったら地球温暖化とか何とかしてくれよ!」
『まったく、注文が多い!式神?まあ、お前に創れない事も無いがあまり度々創るなよ?あれは紙に魔力を送り込み命を吹き込む…妾ぐらいになれば好きな時に創れるが、そなたならば…1日5回が限界だな…あれはお前が今持っている身体の力を引き出す魔法モドキではなく何もない所から何かを作り出す物だから魔力を多く失う…それに、式神が創れるようになった所で向こうに送れる訳ではないからな。』
「分かっているよ!俺、1人じゃ寂しいんだよ…俺の話を何も言わずに聞いてくれるような奴が欲しいんだ。」
後藤にも話すつもりはない、そう言った信一郎…孤独に生き続けること、それはとても寂しい。だから、分からなくもない。信一郎はきっと、言ったら言ったで後藤が離れる、それならばいっそのこと隠しておいた方がいいという心の表れだろう。……もしも、自分が管理者でなくこの平成の世を生きる人間だったとしても自分が人を殺したなどとは言えないとアマテラスも思った。それを言ってすべてを失うくらいならアマテラスは黙っていたいと思う。
『そうは言うが、その為だけに式神を……?もっと上手く使ってやれ。それと、地球温暖化は妾にはどうしようもない。』
信一郎の背後から感じるシンイチロウの気配を無視して言った。神社の外、少し離れた所では秘書の後藤倫太郎が彼を探しているのが見えた、もう少しで話を切り上げて彼を解放せねば…。
「なんで地球温暖化がどうしようもないんだよ!どうにかしてくれよぉ、神様なら!」
『あのな、神と言えどもどうしようもない事もある。それに、地球温暖化など存在しない!人間がもっともらしいことを並べてそのような存在しない現象を造り上げただけだ!海面上昇?そんなものは地球のサイクルだ、また後何千年、何万年も経てばやって来る。南極の氷が溶けている?まあ、人間にも多少の原因はあるがそういう波みたいなもんだ。なんでもかんでも妾に頼られても困る、なんなら今すぐにでも氷河期にしてやろうか!そうしたら、そうしたで地球寒冷化などと名付けてまたもっともらしいことを言うに決まっているだろう!それに、地球のサイクルは信一郎の代でどうにかできるようなものでもない。放っておけ。』
「………なんかごめん。」
申し訳なさそうにする信一郎の顔が誰かとダブって見えた。誰かの影が見え隠れしている、彼はこんな顔をする人間だっただろうか…異世界生活で彼が変わった、それもあるかもしれないが本当にそれだけなのだろうか?
『そうだ、後藤倫太郎がお前を探していた。そろそろ戻ってやれ、式神の創り方ならば今度教えてやるから。……だから、戻ってあげなさい。』
「ああ、そうだな。さすがに怒られる。
じゃあな、今度…ちょっと最近は予定パンパンだからいつになるか分からないが次会ったら教えてくれよ!」
そうやって笑った彼の顔に懐かしさを感じた。昔、昔、遠い昔に顔もほとんど忘れてしまった誰かにこんな顔を向けられたことがある、信一郎の姿を見送ったアマテラスは目に涙を溜めながら社の方へと戻っていった。
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冬神神社の周りは物静かで暗い雰囲気がある、ゆっくり歩きながら後藤が自分を見つけてくれるのを待っていた。
「桜、まだだな……」
桜の木を見つけて足を止めた、蕾は膨らんでいるが花開いて盛るにはまだ数日かかりそうだ。向こうは秋、いいやこちらとでは流れている時間が違う。こちらの1日は向こうでは半年経っていることとなるのだ、もう帰還から2ヶ月経った。向こうはもう30年……娘よりちょっと上の歳だったエレノアももう俺の歳を越えて還暦間近の婆さんになっているのかもしれない。こっちではまだ2ヶ月なのに向こうは俺より歳上……変なものだ。
「俺は、幸せになる……なってやるよ」
そう咲いていない桜に向かって宣言してからのんびりと歩いていると、後ろから肩を掴まれた。これはきっと後藤だ。
「わっ……!」
「わっ!じゃ、ありません!一体どこを歩いていたのですか、随分探したのですよ!」
後藤は口を尖らせて怒った様子で言った。……はて、予定は無かったと思うのだが。
「探した?今日は何もなかったと思うけど、何かあったのか?」
「来客ですよ、早く帰りましょう。どうしても貴方を出せって言うんですから!」
「はぁ?誰だよ、追い返せなかったのか?」
「追い返せる訳ないでしょう、お客さんを。とにかく、早く来てください!もっと走って!」
面倒だな……けれど久々の感じに頬を綻ばせる。振り返ればシンイチロウがこちらを優しく見ていた、信一郎の中で止まっていた時がカチリと音を立てて動き出したような気がした。
終わりです。




