最後の晩餐
大陸暦1833年8月14日、この日はメスリル伯爵邸ではエレノアのニフォールニア女男爵叙爵記念パーティーと俺のお別れパーティーが同時に行われていた。_俺は明日、ついに日本に帰るのだ。その実感が沸かないままこうしてお別れパーティーをしている。
「明日、明日の夕方か……いきなりすぎて実感がないな。いつも一緒にいるのが当たり前みたいになっていたからな。」
「本当にそうよ!別れる暇もなく、すぐに居なくなってしまうのよ」
俺は若返っていた筈だけれども、この若くなった身体にも皺は増えていたし髪もポツポツと白いものがあった、30代の頃の自分と変わらなかった。違うのは手に火傷があり、腕には切られた傷の痕がしっかりと残っていた。確かにここに居た筈、でもこの証も元に戻ると消えてしまう。__ここに居るという証は全て消えてしまう、姿も場所も戻って記憶にしか残らなくなる。その事が怖くて、怖くて仕方なかった。年月を経ると記憶は薄れていく。やがて歳を取って、ここに居た事も俺は忘れてしまう……漠然とした不安に押し潰されそうになった。
「なあ、俺……俺はあっちでやっていけるのかな?」
「シンイチロウさん、どうしたのですか?」
「昭美さん…いや、俺は多分もうこっちに何か大事な物を置いていこうとしている、それが何か分からないよ。でも、何か大切な物を置いていこうとしている……本当にそれで良いのかな、俺は帰って良いのかな。」
「シンイチロウさんがしたいようにすればいいのです。私やエレノア様に止める権利は無いのだから、好きに……思ったようにしてください。シンイチロウさんは帰りたいのですか?それとも、ここに残りたいのですか?」
「俺には、どっちかなんて選べないよ。マルチウスも日本も……どちらにも愛着はあるのだから。2年、もっと色々なものを見聞きして楽しんだり、自分の為に学んでおけばよかった。明日には迎えが来るのに、後悔はたくさんある。もっと居たい…そう思う。」
シンイチロウは涙が止まらず鼻をすすりながら言う。室内には、伯爵達他の面々も居たが彼ら3人のただならぬ雰囲気を察して黙々と食事をしていた。シンイチロウの事情を知らない彼ら、彼女らは今生の別れのようで大袈裟だなと思っていた。
「貴方は帰りたいのでしょ!あっちには家族だっている、あっちでしなければならないこともある。こっちには無い豊かな物だってある、そして貴方は幸せにならなければならない。……それに、ここでは幸せにはなれない、私たちには貴方を支える事なんて出来ない。貴方は強すぎるの。どんなにここに想いを残しても、私やアキミさんが居なくても、マルチウスでなくとも貴方は生きていける…そうなのよ。シンイチロウ、貴方は向こうに帰りなさい。」
「エレノア……」
エレノアはシンイチロウの背中を押すというよりは自分自身に言い聞かせるように言った。シンイチロウはエレノアの目を強く見て、覚悟を決めた。とっくの前に決めなければならない覚悟を今決めたのだ。
__俺は、帰還する。
「俺は、帰る……向こうできっと幸せになってやる。」
その声はまだ気弱だった。エレノアと昭美はそこがシンイチロウらしいと頬を弛めた、シンイチロウはその顔を見てまた涙を一筋流した。
「……そんな、泣いてばかりじゃいけない。早く3人とも料理を食べなさい、もう冷めているじゃないか。」
今夜の伯爵家の料理はいつもに増して豪勢なものであった。叙爵とお別れという良い出来事と悪い出来事とが重なってしまう珍妙な日、シンイチロウはもう2度と味わえない素朴な味をシッカリと噛み締めて一口、一口、口へと運んでいった。口に運んで噛み締めていくうちに涙が止まらなくなる、俺は食堂に最後まで残っていた。
「シンイチロウ、早く食べなさいよ。」
「エレノア、俺にとってはこれが最後の晩餐なんだよ。だから、もっと味わって食べさせてくれよ。」
そして、一時間近くかけてご飯を食べたシンイチロウは窓の外から景色を眺めた。夜の帝国には、墨でも塗ったような真っ黒な空に僅かな星が点々と散らばっていた。淡い照明の灯る部屋の天井を眺める、俺は幸せだった。この瞬間、1秒、1秒と時間が経つ度に帰るときが近づいてきていることも同時に感じてサラサラと砂がこぼれ落ちるように幸せは真っ黒な不安に塗り潰されていった。
「なあ、エレノアに昭美さん……今日は3人一緒に寝てもいいか?」
「なっ!なんて事を言うの!」
「何を今更恥じらっているんだよ、ヘンドリック様と居たときなんて酒飲んで酔い潰れて寝たり、俺の思い出話も聞かずにグースカ寝てたじゃん。変な寝顔なんて今見て何も思うこと無いから、ほほえましい思い出として時々思い出してやるよ。だから……」
「そういう問題じゃないのよ!乙女の恥じらいって物があるの!それに、ほほえましくも何も無いわ!どうせならもっとシッカリとした事を思い出しなさいよ……誰が貴方なんかと!と言いたいところだけれど最後だし良いよね。アキミさんはどう思う?」
「べ、別に……」
「大丈夫、大丈夫、ちゃんと区切りだってするしベッドを繋げればちゃんと3人で寝られる。……よし、この棒を間に置いておく、ここが境界線だ。ここを越えたらダメ、そういうことでいいよな?」
棒を布団と布団の間に置きながら鼻歌を歌うシンイチロウを見て、2人は何も言えずに頷いて承諾した。
「……最後、最後だもんな。」
「そうよ、最後なんだから。」
「そうです、最後ですから!」
そう言い聞かせて布団を被った。すると、また携帯電話が鳴り始めた。後1日あるのに……そう思って携帯電話をパカリと開くとそこには、
《言い忘れていたけれど、君が来た時に着ていた服で明日は行動してくれないかな?なるべく、君は何者かに誘拐されたということにして犯人不明ってことで決着つけたいんだよ。こっちで着ていた服だと向こうに帰った時に色々と催眠をかけるのが面倒だから、そうしてくれ。……そういえば君、靴を履いていないままここに来ちゃっていたけど……靴ぐらいならこっちのでも良いからシャツとジャケット、ズボンとかパンツとかは来た時の物にしてよ。
by管理者ミラーナ》
「……まったく、注文が多いな。急に帰ると言ったり、服はこうしろと……。
…………2人とも、おやすみなさい。」
灯りを消して、今度こそ布団を被って寝た。
涙で布団が濡れた、別れを経験するという明日が来ずに俺の命も終えて欲しいと思った。なので、朝起きると目が真っ赤で小学校で飼っていたウサギのようになっていた。




