侯爵邸の炎上
6月下旬の7月にも近づいてきたある夜のこと、シンイチロウは昭美とエレノアを連れて首都中心部の外れに位置しているクライム侯爵邸へと向かっていた。
「本当に成功するのかな……」
「今更引き返す訳にもいかないでしょう?行きますよ。」
「そうよ、そうよ!私達、こんな格好しているんだから。」
エレノアと昭美さんはそれぞれドレスを着ていた。それは、クライム侯爵が令嬢アングに好んでさせていた髪型や着せていた可愛らしい種類のドレスである。艶々とした絹に似た質感を持つ布で造られた最近流行りの本物の絹に手が届かない庶民でも手を出せるドレスとして有名なものを購入して、さらに昭美さんの情報からエレノアの手持ちの小物を付けて生前の侯爵令嬢アングが着ていたものに近い作りになっている服、見た目はゴツいがすぐに脱げるようにエレノアが徹夜して改造した世界に1つだけの作品だ。正直言って、子供ならばこれでも似合うと思う。しかし、少々子供っぽいというのだろうか余計な小物が多いと言えば良いのか着る者の年齢に対して合っていないと思うのだ。服のセンスに無頓着な俺がそう思うくらいなのだから貴族ならばもっと敏感に感じるだろう。
………そうやって精一杯に侯爵令嬢アングの真似をするわけ、それは彼女に成りきることが今回の作戦だからだ。
「クライム侯爵が本当に令嬢アングの幽霊が出たと思って吐いてくれたら楽だけどね。俺だって無用なことはしたくないから吐いてほしいけど……」
剣を腰にさげて俺は目立たない人通りの少ない裏通りを歩いた。来たばかりの時は暗いと思っていた帝国の夜も目が慣れて、灯り無しで歩くこともできるし、ある程度は人の気配も察することができる。
そして、舞踏会が盛んに行われている通りを少し抜けると暗くなる、クライム侯爵邸はそんな外れにあるのだ。いつもより明るい夜道を歩いて、エレノアの手を引いていると静かに彼女は言った。
「大丈夫、貴方の姿はハッキリと見えるから。」
「ハッキリと?今は夜だぞ、ハッキリと見える訳がない。」
俺はまず、そこで違和感を感じた。そして、すぐにまた違和感を感じる。
「なんか、焦げ臭くないか?」
「そうね、なんか魚が焼けるような臭いが……」
「_ッ!ま、まさか、先を越された!?」
急いで走ってその先にあるクライム侯爵邸に行くと、いつも陰鬱な2世紀前の雰囲気を醸し出していた屋敷は轟々とした炎で燃え盛っていた。
「ま、まさか……誰が、そんなことを…女帝陛下?それとも……」
「いいや、多分裏切り者だとバレたのかもしれない。……本人に聞かないと分からないけれど。」
シンイチロウの背中にタラリと汗が流れる。見せしめというのは、シンイチロウ自身には経験なかったが周りではそうされた者も居る。
「でも、どうやって!この炎よ、危険だわ!」
「………エレノア、急いでそのドレスを脱いで俺に水を被せろ。ここで諦める訳にはいかない、俺は死んでもいいから行ってくる!」
「そんな……」
「エレノア様、シンイチロウさんがそう言うのならやりたいようにさせてあげましょう……でも危険ならばすぐに引き返してくださいよ!」
「ああ、分かっているよ!」
シンイチロウは2人が持ってきた水を頭から被って、ジャケットを水に濡らしてそのまま燃え盛るクライム侯爵邸へと走っていった。
「シンイチロウ、そこまでして帰りたいのね。」
「………向こうには、家族も居るのですからそうなのでしょうね。エレノア様、私達は水をかけて火を消しましょう。」
「そうね……」
外のエレノアと昭美の会話はシンイチロウには届かなかった。
________
クライム侯爵邸へとなんとか入ったシンイチロウは先程浴びた水の冷たさにくしゃみをしたい気持ちになった、しかし息苦しく呼吸はできない。1階はもう所々火に覆われていて人が居たとしても救いようが無い。2階へと繋がる階段はなんとかかろうじて無事であった。もしももう1階で侯爵が死んでいたら……そう思ったものの火の手が回るのが早すぎて悠長に確認している余裕もない、この広間へ入るドアの装飾のされているドアノブも熱くて刺すような痛みがして悲鳴をあげた。……玄関や廊下などに人の姿はない。
「……あ_熱い、しかし誰もいないな。」
煙で一寸先も見えぬ状況で手探りと空気の流れなどで判別しているが誰の姿も見えない。仕方ない、2階で何か見つけるかと階段らしきものがある方向へと向かうと何かに躓いた。何なのか見てみると男の死体だった、クライム侯爵でも侯爵令息でもない…恐らく使用人のものだろう、近くには豪華な首飾りを着けた少女の死体…これはアングの妹君だろうか。……心の中で謝ってから2階の方へと昇った。
「ぐっ!2階はまだかろうじて無事だな、しかしいつまで続くか分からないな。早く、探して居なかったら脱出するか。」
先程まで居た階下はもう火の海だった。燃えやすい木造の屋敷は瞬く間に火の手が広がっていく。手前からドアを開けていくが人の姿は見当たらない。奥の部屋となった、奥にはいつぞの舞踏会で見かけたクライム侯爵夫人の亡骸がある。しかし、誰もいない。
「誰もいない、後3部屋か……!」
最初の部屋でうずくまる人影を見つけた。まだ、生きているようだ。顔を確認すると__クライム侯爵だった。
「クライム侯爵……!」
「ぅ……だ、誰だ?」
クライム侯爵は怯えたような声で言う。生きている、それにホッとしたと同時にこれで情報を得られると思っている自分も居て自分の冷たい部分にゾッとした。
「侯爵、私は少なくとも今は味方です。このままでは野垂れ死にます、早くここを脱出しましょう!」
「……………」
侯爵は無言で何も言わないまま突っ立っていて動かない。がらんどうな人形のようだ。
「“妖精おじさん”は貴方なのでしょう?貴方にはクーデターを止める気持ちがある、その気持ちが消えていないのならばここを出て、何が起こったのか、そしてクーデターの情報を与えてから死ぬのでも遅くはないでしょう!」
「………それが目的、ならば女帝陛下の手の者か?え、違う?……我々とも敵対しているようだし、何者かも分からぬな。」
「私の正体などどうでもいいでしょう!早くここを出ましょう。」
「………これでよい、これでよいのだ。」
侯爵の気持ちがまったく読めない、火の手はついに2階にも回ってきているようだ。クライム侯爵の手を引いて外に出た途端に身体が炎に巻かれた。熱さに悲鳴をあげながら、なんとか窓を開けて下のエレノア達に呼び掛ける。
「今から、その植えこみの上に何かクッションになりそうな物を置いてくれ!早く!」
下に居たエレノア達の迅速な動きでクッションが早く出来上がる。
「……身体強化モドキ!」
魔法モドキを使うと身体にみるみる力が沸いてくる。クライム侯爵を抱き上げて窓から飛び降りた。スローモーションのように周囲の世界の動きがゆっくりに見えてから植えこみの上に落ちた。
「……痛ッ!」
植えこみの上に落ちたとほぼ同時に飛び出た窓から炎と煙が吹き出ていた。打ち身とドアノブに触れた時の火傷がただれて痛かったが、逃げなければと思い近くの森までクライム侯爵を担いで避難した。
________
森でエレノアがいつの間にか持っていた救急箱の消毒を塗られる。傷が痛んだ。
「シンイチロウ、貴方ね……!無理するなってあれほど言ったのに、それにあれほどの炎よ。貴方が死んだかと思ったわ!そうなったら、私……」
「ごめんってエレノア、でも終わりよければ全てよしだ。」
煙で視界が悪かったのでよく見えなかったが、クライム侯爵は顔が青紫に腫れ上がっていてお岩さんのようになっていた。
「……侯爵、それは“王の集い”から受けたモノでしょうか?」
手当を終えたクライム侯爵へ聞くと険しい顔をして、こう言われた。
「……人の手の内が聞きたいならば自分の手の内を明かすのが筋と言うものではないか?」
「クライム侯爵、俺は貴方側でも女帝陛下の手の者でもありません。むしろ、その2つは敵と言っても良いような関係です。クーデターのことも知っています、貴方が情報を流していることも。そして、血判状を盗んだのは俺です。」
「あれは君だったのか……私は、彼らにも異端認定されて完全に居場所を失った。君の言う通り、彼らから受けた。執事のビスマルクも妻も娘も死んだ……私は暴行を受けた後にほんの隙をついて隠れていたからなんとか助かった。しかし、見つからないならば焼き殺せと火を付けられるとは……」
クライム侯爵は憑き物が取れたような顔をしていた。人がどうしてこうも変われるのか、シンイチロウには運命の複雑さが分からぬものだと思った。昭美は父親を目の前にして複雑な顔だった、見つめると俯いてそっぽ向いた。
「はぁ……とりあえず、侯爵をメスリル伯爵家で匿うぞ。」
「アキミさんは貴方の年の離れた従妹という設定よね?侯爵はどういう設定にするの?」
「えっと、そうだな………じゃあ、侯爵はこのアキミさんのお父さんという設定で伯爵には伝えてくれ。」
「えっ!?シンイチロウさん、それは……」
「アキミさん、今はごちゃごちゃ言っている余裕はないわ。急いで離れましょう!」
遠くでは黒龍のように煙が立ち上っていた。あまり侯爵が外に居て助かった所を見られるのは不都合だと思い、
「侯爵、申し訳ありませんがすぐにここから離れます。」
と言う。運動不足気味で疲れていたクライム侯爵は声を裏返らせて声を上げた。
「ど、どこに行くんだ!」
「メスリル伯爵家です、そこで侯爵はここにいるアキミさんのお父さんで田舎から出てきたという設定で使用人として働いて貰います。それで__」
そこまで言った時に草むらがザッという音がして黒装束の男達に囲まれてしまった。__シンイチロウ、絶体絶命のピンチである。




