大陸暦1833年4月14日、秘密の美景
大陸暦1833年4月、シンイチロウはエレノアに誘われて首都の街を歩いていた。
(一体どういう風の吹きまわしなんだ?)
4月の桜が真っ盛りな季節がやって来た。ちらほらと散り始めているソメイヨシノよりもやや大きな桜の花を見るのもこれが最後なのかと思うと物悲しい気持ちになる。薄紅色の花びらが石畳の上に積もって桃色の絨毯ができている。
「ねぇ、シンイチロウ?そんなにサクラを見てどうしたの?」
「いや、よくよく見てみると俺が知っている桜と比べると花が大きいなと思って。こんなにハッキリと見たことなかったから、もっと見ておけばよかった……」
「………サクラだけじゃなくて私の事も見てよ。後で後悔しても知らないんだから!」
「分かったよ、こうしていられるのも後少しなんだ。」
これからは指令もあるだろう、そうなるとゆっくり何気ない景色を目に焼き付けておくのも出来ないだろう。俺は、エレノアがこうやって自分を連れ出してくれたのはもしかすると別れの準備をさせてくれる為だったのかもしれないと思い彼女の気づかいに心の中で感謝した。
今日は日曜日、教会の礼拝堂には人々が集まっている。聖歌隊の歌声や奏でる楽器が心地よいメロディとなって響いてきた。
「あ、そうだ!ねえねえ、ちょっと行きたい所があるのだけど。」
「なんだよ急に……」
フフフと可愛らしく笑うエレノアに手を引っ張られてどこかに連れていかれた。
「おい、どこに連れていくんだよ……」
「それはナイショ。着いてからのお楽しみ♪」
手を引っ張られ、途中でクレープを買ってからまたどこかに引っ張っていく。そして、おもむろに立ち止まってから呟いた。
「人間の頭って思い出したくないこととか考えたくないことを忘れてしまうようにできているのかな……?」
「なんだよ、それ。」
急に立ち止まって気が重そうに呟くエレノアに俺は聞き返した。不思議な言葉だ、今までの話の流れに逆らって何の脈絡もなく唐突に発せられた言葉は聞いたことのない言葉のように聞こえた。
「いやぁ、だって貴方の帰還は後少しでしょ?それなのにまだそれが遠く見えるような錯覚にとらわれるなんて、ね……」
「…それを言わないでくれよ、俺だってその事実は忘れたかったんだ。帰ったら俺は2度と自力でこっちに来ることは出来ないんだから。もしも、向こうに何のしがらみも無いのだったら、もしも、こちらに居ることで俺の精神が破壊されるような事が無ければ、そう考えた事は数えきれない。世の中にはどうする事も出来ない事がある、時間も次元の違いも……そうなんだろう。」
「そうよね、ごめんなさい。」
そのまま、2人とも話すことなく黙って歩いた。あのエリスとの勝負がついて、使用人に戻った直後だっただろうか?久しぶりにいつものように働いているシンイチロウを見て、自然と涙が出そうになることがエレノアにはあった。今まで常にあった別れの予兆とは違う、切迫した寂寥の情が込み上げてきた。
桃色の絨毯が途切れて、首都の真ん中の王城近くにやって来た。普段の行動範囲からは大きく外れている場所だ。こんな中心部に来て一体何がとシンイチロウは考えた。ここら辺で売られている物はいくら借金はなくなったとはいえメスリル伯爵家にとってはまだまだ手の届かない贅沢品ばかり、買い物に来たわけではないのだろう。じゃあ、一体どこに?周りを見回すがそこには雲の上の御方の屋敷が建ち並ぶくらいでエレノアが気軽に訪ねられるような身分ではなく、シンイチロウは首をかしげた。
「一体どこに行くんだ?」
「着いた、ここよ。」
目の前には木造2階建ての小さな小屋がある。なんでこんな所に小屋が?シンイチロウはまた首をかしげた。その様子を見たエレノアは説明してくれた。
「ここって教会の倉庫みたいだけど誰にも使われていないのよ、私の秘密基地。」
「勝手に秘密基地なんかにしていいのか?」
「細かい事気にしちゃダメよ。さあ、入りましょう。」
彼女に勧められるがままにその建物に入る。随分使われていないのだろうか?入った途端にホコリが舞い上がった、そして床を踏む度にギシギシと木の軋む音がした。1階は物置になっていて、2階には大部屋が1つあってその室内には椅子や大きな木の机が置かれていた。
「しかし、なんでここを秘密基地にしてたんだ?普段の行動範囲からは大きく外れている場所だが……」
「たいした理由は無いわよ、礼拝に行って構ってくれなくなったお父様を驚かせないかと思って探していたらたまたま見つけただけ。脱走とかくれんぼは私の専売特許だから!」
クレープを頬張りながらエレノアはなんでもないように言った。彼女の物騒なお転婆は今に始まった事ではないのであえて何も言わないでおく。
柔らかな春の日差しが差し込んで室内はほんのりと暖かい。彼女曰く、外の景色がこれまた絶景らしい。
「本当か?」
「ええ、本当よ!それに美しいのは景色だけじゃないわ、ここからは宮殿もちゃんと見えるの。運が良ければ女帝陛下や皇太子殿下だって見えるんだから!それを自慢するために望遠鏡もちゃんと持ってきたのよ。」
「ありがとう。」
礼を言ったけれど、同時に後ろめたい気持ちも感じた。俺はそのめったに見られない、新聞で皇室特集などが組まれるといつもより数倍の売り上げがあるという国民から敬愛されている彼らの姿は知っているのだ。それは直接見た訳ではなく、ゲーム画面や表紙などの外から見たものだけれど。
レースのカーテンから顔を出して覗くと確かに美景だった。目の前に優美な王城がどっしりと構えていて、さらにその周りを上級貴族が住まう上品な屋敷が囲んでいる。街を歩く人は今最先端のドレスや勇ましい軍服に身をつつみ、絵画のような幻想的な風景が目の前に広がっている。
「うわあ……本当に絶景だな!」
「本当にって何よ、信じていなかったの?だとしたら失礼ね。」
リスのように頬を膨らます反応が娘のように可愛くて俺は笑った。それと同時にこうしていられるのも後少し、とネガティブな事を考えてしまうと少し寂しくなった。
「もう!何を笑っているのよ、からかうのはよしなさい。」
「からかってなんていないよ」
__最後まで、こうして笑っていられますように。
シンイチロウはそう願わずにはいられなかった。自分がここにいつまでも居られない事は分かりきっている、しかし幸せを望むのは許されているだろう。この暖かくふわふわとした青春のような感覚が帰るまで続いてくれ、目をぎゅっと閉じて思った。
そうやって思いながら、シンイチロウはエレノアと寄り添いあって手と手を握りあった。そのまま、日が暮れるまでこの秘密基地から2人は出てこなかった。




