湖の波長……?
__真っ青に澄んだ水面に浮かぶこの下界を映し出す湖に波紋が浮かんだ。1つだったはずのそれは2つ、3つと浮かんで幾重にもぶつかり合ってわずかに波を起こした。
「こ、これは………?」
天上世界の湖近くにある東屋でミラーナは眷属ヘンドリックに淹れてもらった紅茶を飲んでいた時に湖に不可解な波長を感じ取った。不愉快なイラつくような忌々しさがプンプンとする、初めはまたアマテラスが攻めこんで来たのかと身構えたが、どうもそうではないようだ。思えば彼女はコッテリと叱られてすぐにそんな事しようとは思えない筈……まあ、彼女の懲りない性格を考えるならそれも充分あり得る話ではあるが、今回は彼女ではなかった。
「ミラーナ様、どうかしましたか?」
「いや、何も……」
ヘンドリックには何も感じられなかったのか首をかしげていた。けれど、その顔は何処か愉快そうで無性に腹が立った。腹が立つ、睨み付けると彼は不思議そうに両手を広げて肩をすくめた。チビチビと紅茶を飲みながら湖の方を見つめる。
「ところで、1つだけ質問があります。」
「なんだ?簡潔に済ませてくれ。」
「彼は、シンイチロウをどうするつもりですか?……彼に悪意があるわけではない、それは承知していますが、彼はシナリオに巻き込まれてドンドン泥沼へ嵌まっているような気がしてなりません。それは__」
質問自体が奇妙だったので眉をひそめる。これじゃまるで、シンイチロウを泥沼に落としているのが自分だと言われているみたいだ、そうやって抗議しようとしたが、かつて自らが行った仕打ちを考えるとそう言うのはよくないと思ってグッと我慢して言う。
「僕は、彼を気にかけるほど暇じゃないよ。何でも屋とは違ってやることがあるんだから。それは分かっているだろう?
アマテラスが彼の事を呪っているんだ、そうに違いない。」
「はぁ、そ、そうですか……」
捲し立てるように早口で言うミラーナをヘンドリックは気だるげな目を向けて見てからまた目を逸らした。
ヘンドリックがぎょっとした顔をして後ろを見ていた。先程の湖から感じたものとは違う波長を感じて武器を手に取って振り返ると、忌々しいアマテラスがそこにいるではないか。
「ミラーナ、そなた…シンイチロウをいつまでそちらに留まらせる気か?妾はいい加減待ちくたびれた。」
尊大な彼女が扇を片手に優雅に立っていた。
嫌な奴が来た、ミラーナに重いため息が出る。
「……別に、良い感じの指令が見つからないから。」
「そうやって、日をズルズルと引き延ばしているのには何か狙いがあるのか?妾はせっかちじゃ、はようしなさい。そうしないと、シンイチロウを本気で殺すぞ。」
「嘘だ。君がそうやって直接的に言う時は本気じゃないんだから。ああ、お茶でも飲んでいく?」
「い、要らん!
とにかく、早くしなさい!」
顔を赤くして扇をせわしなく扇ぐ彼女は、そう言いながら嵐のような速さで帰っていった。
「一体なんだったのでしょう………」
「さあ……なんか彼女の気持ちが分からない。一体何の用で来たんだ?……まったく、なんで僕の周りはああいう変な奴らばかりなんだ?」
「類は友を呼ぶというでしょう……」
「その言葉ってよくよく考えてみると悪口じゃない?まるで、天才の横には天才が集まるけれど、変人の側には変人しか集まらないと言われているような気分になるよ」
「私は、別に悪口として使った訳ではありませんよ。」
嘘だ。君は間違いなく僕が思った通りの意味で使っただろうに、そう思って苦笑した。彼はミラーナの気持ちには気づかずに湖の方を眺めていた。よっぽど息子に似たあの熊のような男の方が気になるらしい、少し前まで共に地上で暮らしていたんだ。そして、今の彼の頼りない身の上を考えると彼が心配するのは当たり前かと思い、黙っていた。
《……なんか、面白くない。先程から感じるこの波長は一体何なんだ?よくないものだとしたら……彼まで死なせてしまったら、ヘンドリックになんと言われる事か。そして、後味が悪すぎる。》
湖の方から感じるチリチリと焦がすようなもの、執拗なほどにずっと見られているような感覚。これは一体なんなのだろう。ヘンドリック、彼ではない。彼は湖の方を向いている。僕が抱いている罪の意識?……いいや、そんな筈はない。そんな事、認めてはいけない。きっと違う。
心の中で自分自身に問いかける。
「ミラーナ様、彼はきっと生きます。彼は強い人間ですから、きっと大丈夫ですよ。」
まるで僕の心の内面を読んだかのような声、そんな筈はない。僕の多層思考の声は上位者権限を持つ者にしか聞こえないのだから。眷属である彼に聞こえる筈などないのだ。
問い詰めようとしたが、彼の顔が今まで見たことないくらい穏やかで笑顔だったので特に何をすることもなく放っておいた。
「……彼は一体どうしているんだろうか。」
少し気になったので独り言のように呟いて、ヘンドリックの横へと行って湖を眺めた。
下には、シンイチロウが侯爵令嬢アングと共に地上でたくましくおままごとのような危なっかしい生活をしていた。彼を見た時にミラーナは何となくだが、自分が感じた波長の正体がなんなのか気づいた。
「そりゃあ、ヘンドリックだって気づく筈ないよ。自分の事だもの、他人の彼に気づけるわけがない。」
胸のつっかえが取れたミラーナは湖から離れて、制御装置の前に立った。黒鉄のボディーがツヤツヤと輝く装置を少し弄ってから、ミラーナは鼻歌を歌いながらそこから離れた。先程までモスキート音のように煩わしく感じていた波長が消えて、ミラーナの心は湖の水面の澄んだ青のごとく晴々としたものになった。
ヘンドリックが怜悧な視線を向けて咎めてくるが、『違うんだよ、君が思っているような事はしていない』と笑いを噛み殺しながら彼の方を目を細めて見た。




