噛ませ犬元司教脱走
大陸暦1833年を迎えたマルチウス帝国の首都ランディマーク。マナセイン伯爵家の次女クロハは使用人のオリン=ベアード=ミニスターを連れて歩いていた。
「たまにはこういう所に来てみるのも良いなあ。オリン、なんでも好きに買ったる!」
「いや、私は別に……」
オリンは戸惑いながら言葉を発した。今日のクロハはとても機嫌が良い、だから気前よく使用人に物を買うなどという言葉が飛び出たのだろう。あのクライム家の令嬢もごく稀に機嫌が良かったり、何かの気まぐれで女物の可愛らしい小物をくれたりしたものだった。
「ん?あれ、シンイチロウやない?」
思い出に浸っているとクロハが人通りが少ない路地の方を見つめてそう言っていた。シンイチロウ、俺の恩人の1人であり少し前までメスリルに勤めていた使用人だった彼。クビになってから行方知れずと聞いていたが、何故……。
そう思って振り返るも彼の姿はなかった。
「………誰も居ませんよ?」
「おかしいな……さっき確かに見たんやけど。」
首をかしげる彼女に『そろそろ大通りへと戻りましょう』と声をかけて、大通りの方へ戻っていってその後も甘いものを食べたり、色々と見て回った。楽しそうにしている彼女を見て、心をほころばせたがそれも目の前、かなり向こうにある光景を見てしまって真顔に戻ってしまった。
「あれって……!」
「ほら、言うたやろ!やっぱりシンイチロウや!でも、あの隣の女は誰や?見たことないなあ、浮気か?シンイチロウの相手はエレノアだけやと思いよったから…」
「エレノア様と彼の間には何もないですけど。まるでそれじゃ彼らが密通でもしてたかのようなニュアンスも含まれているように感じますが。」
「それや!もしかして、それで伯爵が早とちりしてクビにされたんやないか?それならつじつまも合う。」
「………まあ、エレノア様と彼の間には何人たりとも入り込めないような所がありましたが、それは……」
「そうとなったら2人を追いかけて真相を確認せなあかんな。」
まあ奥様、旦那様がメイドや従僕とイケない恋なんてちょっと探せばゴロゴロ転がっているゴシップだから珍しくなどないけど、彼がそんな事しそうには見えなかったんだけどなあ。オリンがモヤモヤと考えながら彼らの後を追っていると彼らは買い物をして、シンイチロウが荷物持ちをしてヒイヒイ言いながら謎の女性の後を歩いていった。そして、一息つこうとしたのか喫茶店へと入っていった。
「……喫茶店か、それにしても何者なんや?見たことない、いや……どっかで見たような……」
そう言いながら喫茶店へ入って、彼らとは離れた所へ座って様子を伺う事とした。彼女は顎がややしゃくれている、それを除けばそれなりに優美な美人だった。
「けんど何言うとるのかこっからじゃよう聞こえんな」
「あ、では私が読唇術を使って読み取りましょうか?ここからだと十分会話も読み取れるので。」
_________
「シンイチロウさん、貴方はどっちを選ぶ気なのですか?」
「どっちって何をだ?もう注文ならしたし選ぶものなんてないと思うけど。」
シンイチロウは席に座って注文してから頼んだものが来るまでの時間に投げ掛けられた質問に怪訝に視線を彼女の方へ向けた。
「そうじゃなくて、向こうとこっち……」
「その話は止めよう、今はここの事だけを考えたい。俺はここに居るんだから、今を楽しみたいんだ。」
ちょっとした贅沢にと結構前に買って吸う事のなかったタバコに手をかけて吸い始めた。
「もう!私、タバコの匂い苦手なんですけど。」
「ごめん、ごめん。たまにはいいだろ、今じゃ喫煙者の立場なんて肩身が狭いものだ、ここほど自由にスパスパ吸ってられんから。」
「そんな事してたら年取ってから肺がんになりますよ!」
「昭美ちゃん、タバコぐらいでケチケチしてたらそっちの方こそイライラして死にそうだ。」
「もう……」
「いいじゃないか。おっ!注文してたの来たぞ」
「食欲だけは旺盛なんですね……」
2人は届いた料理を黙々と食べ始めた。
_______
「だいたいこんな感じでした。」
「なーんかシンイチロウが困ったちゃんになっとる気もするけどそれよりも、“向こうとこっち”ってどういう意味なんやろか?」
オリンの読唇術で彼らの会話を聞き取ったクロハは考えていた。そして、ある考えに至った。
「はっ!まさか、“向こうとこっち”って事!?」
「流石に早とちりしすぎじゃ……勝手にスキャンダルと結びつけちゃいけませんよ。」
「むう……確かにそれもそうや。でも、何者?」
ウンウンと唸って考え続ける彼女を横目にオリンが新聞を読んでいると、ある記事が目に入った。
「こ、これは……」
その記事の見出しは《北の大地の暴徒を指揮した元司教脱走……!》というもので、あの北の1件で捕縛されたカマセ=イヌ=オシエ=ル=アクヤク元司教の逃亡を報じていた。
「そんなに騒いでなんや?………ほう、あの司教さんが逃亡したんか、そんな骨のある奴には見えんかったんやけど。」
「そ、そうじゃなくて私が言いたいのは、彼がマナセイン伯爵家の一員である貴女に危害を加えるやも……急いで旦那様に相談を!」
「そんな重要な事やないやろ……」
嫌がる彼女を引っ張って屋敷へ戻ると、マナセイン伯爵もオリンが感じたものと同じような危機感を持っていたらしくクロハにはしばらく外出禁止の命令が下ったのだった。




