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閑話 ニコラスの話

一番古い記憶は、鼻をつくような腐敗臭のする場所で俺を見て穢らわしいものでも見たように顔をしかめる女の顔。

今思えば、あれは俺の母親だったのだと思う―――。



◆◇◆




俺はずっとここで生きていくのだと思っていた。こんな世界の腐ったところだけを詰め込んだ場所で一生を過ごしてそして一人で死んでいくのだと。


あの日は雪が降っていた。

さっきまで震えが止まらないほど寒かったのに今は何故か寒さを感じなかった。ただ、手足の感覚はなく、頭も異常にぼーっとしていた。俺はここで死ぬのだ、とそう悟った。

強すぎる眠気に身を任せてしまえ、そう投げやりになった時男の声が聞こえた。

「君、うちに来ないかい?」


この出会いが俺の運命を大きくかえる、なんて分かるわけもなくその時の俺は突然声をかけてきた身なりのいい怪しい男を睨むのが精一杯だった。




その後、男は―――旦那様は俺の返答を聞かずに腐敗臭のするであろう俺のガリガリの体を抱きかかえ、屋敷に帰った。


何が起こっているのかわからず、でも栄養失調で抵抗する力もなくされるがままになって三日ほどたった。

その時には俺はベッドから起きれないものの腹は人生で初めて満腹になっていたし、初めてちゃんとしたお風呂にも入れてもらった。ベッドは雲の上にでもいるのかのようにふかふかしている。

見返りに何を求められるのか恐怖半分、投げやりなどうでもいい気持ち半分で四日目を迎えた俺はここに来てから初めて旦那様に話しかけられた。

どうやらその時の旦那様はとても忙しかったらしく俺が目を覚ましてすぐにでも話したかったもののなかなか抜けることが出来なかったと後から聞いた。

実際、その時の旦那様は目の下のクマは酷く、部屋に入ってくる時の足取りも少し危なかった。



旦那様は言った。

「君のこれからの人生を保証するから私の娘の従者になってくれないか?」と。



その後の努力は我ながら凄いものだったと思う。なにせ今まで禄な生活をしてこなかったのにいきなり貴族の従者になるだなんてかなり無謀だ。

でも一応俺なりに旦那様に多少の恩はあったし何よりももうあんな所には戻りたくないという気持ちが俺を奮い立たせた。





それから何年かが経って()はお嬢様の正式な従者になった。

お嬢様との出会いは私にとってかなり衝撃的なものだった。

お嬢様は初対面の時、私を見て一言、「こいつ笑わなくて気持ち悪いわ」と吐き捨てたのだ。

まぁ、確かに自分でも表情筋が死んでいるとは思ったがこの方は可愛らしい見た目でかなり毒を吐くな、というのが私のお嬢様への第一印象だった。


お嬢様に仕えてからさらに数年が経ち、お嬢様は可愛らしいという言葉から美しいという言葉が似合う方へと変貌を遂げた。ただ残念というかなんというか中身はあまり変わっていなかった。

というのもお嬢様は私が従者になってからずっと私を虐げていたのだ。

別にスラム街にいた時に比べればなんてことのない子供の我儘だ、と気にしていなかったが。

そんなお嬢様にも乙女らしい一面はある。それがお嬢様が婚約者のハルロド様といる時だ。どうやらお嬢様は一途にハルロド様を想われているようで度々、熱烈なアタックをされていた。

が、最近何やら少し雲行きが怪しくなってきていた。


ハルロド様にお嬢様ではない好きな人ができた、という噂が学園に流れだしたからだ。

もっと悪いのはハルロド様がそれを否定しないこと。

更にさらに悪いのは噂のお相手がお嬢様よりも身分が低く、能力的にもお嬢様には負けているサラ様だということ。

私も何度かサラ様とお話したが確かに天真爛漫で癒される印象だった。ただ、話している時に何か違和感がつきまとい私個人としてはあまり進んで話に行く相手ではなかったが。


さて、社交界で傲慢で我儘で高飛車と揶揄されることが多いお嬢様がそれを黙って見ているわけもなく、お嬢様はサラ様を虐めはじめた。

しかし、私は違和感を感じる。なぜならあのお嬢様が何故かサラ様を虐める時ほんの少しだけ辛そうな顔をされるのだ。ほんの少し変わるだけだが長年仕えている私はその違和感に気づいていた。

そしてある日を境にお嬢様は決定的に変わられた。


その日は学園側から「イリーナ様が学園で倒れていらした」という連絡を受け、またハルロド様の気を引きたいがために倒れたのだろうか、とため息をついていたのだが帰ってきたイリーナ様はどこか様子がおかしく、帰ってきたら真っ先に私に暴言を吐くはずなのにそれも無かった。しかもそそくさと部屋にこもろうとするのでなんとか引き止めて話を聞けばなんとハルロド様と一緒には帰ってきてないという。これは私も驚いた。

何か王族相手にとんでもない粗相をしてしまったのだと青ざめているとお嬢様が自分の意思で1人で帰ってきたという。

到底信じることは出来なかったのでお嬢様の言うとおり、ハルロド様に確かめたところ、確かに今日は一人で帰ったという。

・・・なにがあったんだ?


私はその晩、ずっと頭を悩ませていた。

が、その次の日もお嬢様はおかしかった。


お茶会に行くだけなのにやけにルンルンと今まで見たことのない上機嫌でドレスを選んだかと思うとお茶会でとんでもない美貌の知らない男とどこかに言ってしまった。

帰ってきたお嬢様の目元は少し赤くなっていて泣いていたのか、と男を睨むが男はそれを気にした様子でもない。

それどころかお嬢様はやけに距離の近い男を友人と言ったのだ。その男、アーネストも親しげにお嬢様を呼び捨てにしていた。

クスクスと囁きあい、笑い合う二人を見て味わったことのない黒い感情が湧いた。


()の方が長く傍にいるのに

お嬢様から離れろ


私は感情のままにお嬢様とアーネストを引き剥がす。

その後もお嬢様とアーネストは自分たちだけの世界でもつくったかのように、長年連れ添った相棒のように、まるで愛し合う恋人のように、話して、笑っていた。

お嬢様があんなにも愛していたはずのハルロド様の誘いにも乗り気ではなく、いつもは一歩も引かない口論をしていたロイド様達をも黙らせた。

そしてお嬢様は誰でもなく、隣のあいつに笑いかける。今まで見たことのない無邪気な可愛らしい笑顔で。


あいつだけは絶対にお嬢様に近寄らせない


そう思った。


それからもお嬢様はおかしいままだ。

あんなに楽しそうに通われていた学園にもまるで戦争にでも行くかのような重苦しい雰囲気を纏われて行く。

私は後ろでそんなお嬢様の様子を首をかしげてみていた。

まぁ、あの傲慢なお嬢様に戻られるよりはいいか


なんて考えていた。


全然良くなかった。

学園に登校されたお嬢様は先生と話されてからしばらくした後、突然私との主従関係を解消しようと言い出したのだ。

私は心がズブズブと真っ黒になるのを感じた。


あの男がいるから、俺はもういらないのか。

貴女も俺を捨てるのか。

貴女に長年仕えていたのは俺なのにあんな男に貴女を取られるのか。


そこまで考えて自分のこの黒い感情は『嫉妬』なのだとやっと理解した。

焦りと、恐怖と、嫉妬で俺はついスラム街での暮らしを思い出してしまった。


あそこに戻るのも、お嬢様に捨てられるのも嫌だ。



そんなことを思ってお嬢様を見る。

と、お嬢様は「そうではない」と言う。

私が選ぶのだと。私がお嬢様の元からいなくなるのか選ぶのだと。


初めて自分で選べ、なんて言われた俺は戸惑う。

今まで、選択肢なんてなかった。


でもわざわざ私と視線を合わせるために膝をつき、優しい声で諭すお嬢様を見ていたら無性に愛しくなり、私は無礼だとわかってはいても堪えきれずにお嬢様を抱きしめた。

確かな温もりがそこにはあって、密かにびっくりした。


お嬢様はきっと私が主従関係を解消すると思っているだろう。

その予想を裏切られた時、お嬢様はどんな顔をなさるんだろう?


不安になりながら返事をすると声が震えてしまった。

そんな情けない私の頭をお嬢様が優しく撫でた。

それで私は覚悟を決めた。


この人のそばに一生いようと。


その言葉を伝えるとお嬢様は軽蔑の目で見るでもなく面倒くさそうにするわけでもなく、お金の心配をしだしたのでそれは否定する。

それでも尚、狼狽えまくるお嬢様を見て私は自分の表情筋が緩むのを感じた。

クスクスと笑えばお嬢様は奇声をあげて驚く。それにますます笑ってしまった。

こんなに笑ったのは人生で初めてだ。


何故か今の可愛らしいお嬢様の方がお嬢様の本当の姿がして私は今まで勘違いしていた自分自身がおかしくなって、さらに笑う。



しばらくは驚いていたお嬢様も私につられたのかくしゃりと笑う。

思ったよりも威力の強いお嬢様の正面からの笑みにくらりとしながらもこのぬくもりを離さないよう、私はまわした腕に力を入れた。


心なしかお嬢様が青ざめたり赤くなっている気がするがしばらくこの腕を離すつもりはない。


「これからも末永くよろしくお願いしますね、お嬢様」


私はお嬢様の可愛らしい様子を見て笑った。

一気に世界が色づいて見えた。










願わくばこの腕の中で一生―――。

ただ、ただニコラスが嫉妬深いというお話ですw

ブックマークが一気に増えていてビックリしました、お読みいただきありがとうございます!

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