野分・野火
風の音に、私はふと顔を上げた。
「野分なのかしら」
つぶやくと、桂があきれたように私を見た。
そば近くに仕える女房の中で一番若い、そして一番私に遠慮のない女房だ。乳母子だからだろう。
「姫さまったら。まだと言いますかもうと言いますか、秋ではありませんよ。もしかしてまた寝てらっしゃったのではありませんか?」
相変わらずのズケズケ言いだわ、と思いながらも私は、かすかに苦笑いをしてごまかす。
寝てなんかいないと言い切る自信がない。
このところ私はずっと、寝ているのか覚めているのか、夢なのかうつつなのかがよくわからないでいる。
桂をはじめ誰彼から、姫さまはこのところうたた寝ばかりしていらっしゃる、と笑われている始末だ。
近々行われる香合せの準備に皆はしゃいでいる。
私は『姫宮らしく』脇息にもたれ、おっとりとその様をうちながめる。そして扇の陰であくびをそっとかみ殺す。
ふと、誰かが焚いた伽羅の香りがただよってきた。
途端に胸がふさぐ。
あの人を思い出す香りだ。
いつもいつも衣に伽羅をたきしめ、得意そうに歩き回っているあの人。
珍らかなおもちゃを欲しがる子供のように私を欲しがった、今をときめく関白家の嫡流の御令息で、従兄のひとり。
そして……私の夫。
長く伸ばした髪と華やかに重ねた衣が、不意にずしりと身体をひしぐ心地がした。
私の母君は先の帝の女御として入内なさったが、私が生まれてしばらく経った頃、父君は亡くなられてしまわれた。
私は父君を覚えていない。
優しいが線の細い方だった、と、母君から聞いた。
男雛のようにたおやかで、おっとりとしたご気性の方だったそうで、母君との仲は悪くなかったそうだ。
私が知っている父君に関してのことは、これがほとんどすべてだ。
急にお亡くなりになられたことについて怪しげな噂もなくはなかったそうだが、私には伝えられていないし、訊いても、そういうことを根掘り葉掘り尋ねるのははしたないことだと母君からも窘められた。
東宮でいらっしゃった今の帝の御代になり、私は母君共々、この小さな屋敷へ下がった。
母は関白の娘だったが愛人の子だったし、関白は用の済んだ者には興味がない。
もちろん生活に困るようなことはなかったが、関白……おじいさまが私を訪ねてくることは滅多になかった。
ただおじいさまは私に対し、躾をきちんとするよう、姫宮として恥ずかしくない教養を身につけさせるよう、母君にも周りの者にやかましく指示をしていたのだそうだ。
『姫宮』である孫娘を、上手く使えるのなら使いたかったのだろう、彼は。
都の片隅で慎ましく暮らす、教養あふれる美しい姫宮。
素直で大人しい、浮き世離れたほど昔気質な姫宮。
さながら、絵物語の女主人公のごときに。
そんな噂をちらほら流していたそうだ。
私がそのことをはっきり知ったのは、彼……今の夫が訪ねてきたからだ。
「方違えで参りました。一夜の宿をお貸しください」
突然、涼やかな若者がそんな風に訪ねてきたのは、春。
桜のほころぶ午後だった。
応対に出たこちらの者が半分も物を言わないうちにから、さっさと彼と彼の従者らは上がり込んできたらしい。
戸惑ったざわめきが奥にいる私へも伝わってくる。
断られることを全く考えてない、実に傲慢な態度だ。
客人は頭の中将、関白家の嫡男である大納言の御令息、つまり私の従兄にあたる方だと聞かされた。
なるほど、それでは断りにくい部分もあろうと私も思った。
しかし、だとしても女所帯に突然訪ねてくるなど不躾だ。
皆ぶつぶつ言っていたが、最終的にはいそいそと彼らを出迎えていた。どういう訳か女たちから、なし崩しに文句を言う気が失せる様子だった。
春らしい桜襲の、着慣れた風の狩衣姿。
くだけているのに華やかで凛々しい、目も覚めるような水際立った男ぶり。
この屋敷で見ることなど絶えて無かった、若い美男のはつらつとした眩しさに、口うるさい古女房すら絶句する。
しかし、目くばせや含み笑いを交わす者もちらほらいる。桂もそうだ。
そういえば、姫さまの今後はこの桂にお任せくださいませ、決して悪いようには致しませんからとかなんとか、ここ最近よく言っていた。
あまり深い意味には捉えていなかったが、こういうことだったのかもしれない。
(つまり、頭の中将と通じていたということね)
縁談が幾つかきていることくらい、私も聞かされていた。訳知りの女房たちが、あしらうような適当な返事をしていることも。
頭の中将は、小うるさい彼女たちから珍しくも及第点をもらえた婿がねだったという訳だ。
つまり私は、方違えで偶然この屋敷へ来ることになった貴公子と結ばれる、絵物語の女主人公……とでもいうお膳立てなのだろう。
否も応もない、これが姫と呼ばれる身分の娘の婚姻だ。ぐったりしながら思う。
私は確かに『姫宮』と呼ばれる身分ではあるが、後ろ盾は弱い。
父君はなく母君とも三年前に死に別れ、後はおじいさまだけ。
でもそのおじいさまからもすでに半分、忘れられている存在だ。
そんな私に、関白家の血筋で従兄でもある夫。
否はない。色々な意味で順当な夫だろう。
まさか、曲がりなりにも姫宮である私を、手を付けるだけ付けて捨て置くような薄情な真似もするまい。
彼が後ろ盾であればこの屋敷も安泰、仲立ちをした女房たちはそう踏んだのだろう。
思えば、万事そんな感じで私は今まで生きてきた。
言われるままに手習いをし、書を読み歌を詠み琴を奏で、几帳の陰でうずくまるようにして日々を過ごしてきた。
幼い頃はまだしも、動き回ったり大きな声を出すとはしたないと叱られ、声を立てて笑うと品がないと窘められる。
置物の様にそこにいて、他人に対する時は几帳と扇の陰で恥じらうような仕草をするよう教えられる。
貴女様は先の帝の女二の宮でいらっしゃる、軽々しくお気持ちを露わにされませんようにと、ことある毎に言われて育った。
年頃になってくると、先の帝に似てらっしゃる、まるで雛人形のようなと言われることが増えてきた。
鏡に映る自分を見てもそう思わなくはなかったが、ちっとも嬉しくなかった。
表情のないこわばった顔はまさに人形、不気味でさえある。
美しいと言われてもお世辞にしか思えず、私の心へ響いてこない。
薄暗い部屋に差し込む春の白っぽい陽射しを見つめ、私はそっとため息をついた。
生きているのか死んでいるのか、起きているのか眠って夢を見ているのかすらわからない、御簾越しの陽の光のような曖昧な存在。
それが私だ。
主にご挨拶を、と奥にやってきた頭の中将は、几帳を隔てた先でまずは突然の訪問を詫び、こちらを透かし見る。
「覚えてらっしゃるとは思っておりませんが、貴女とお会いするのは実は二度目なのですよ」
彼は言う。
「貴女と貴女の母君様がこちらのお屋敷に来られたばかりの頃です。私は五つほどで、おじいさまについて物見遊山のような気分でこちらへ参りました。物見遊山ですから勝手に奥へ行き、そこで偶然、私は貴女とお会いしたのです。雛人形を思わせるようなお可愛らしい貴女に、子供心にも強い印象を受けました。茫然と立ち尽くしている私を見付け、貴女は可愛らしいお声で『だあれ?』と問われましたね」
扇で半分顔を隠したまま、私は身じろぎした。
遠い記憶のかけらが頭の隅にかすめた気がした。
「私はうろたえて逃げ出してしまいました。子供だったとはいえ、あの節は大変失礼をしてしまいましたね」
「まあ、あの時の小さな男の子が……と、主も驚いております」
私の身じろぎからそれと察し、そばの控えていた年増の女房が訳知りな返事をする。
覚えていて下さったのですか、と、途端に中将はにこにこする。
几帳越しにも察せられる開けっ広げな笑顔は愛嬌があり、可愛らしくさえある。
なるほど、この愛嬌なら大抵のわがままは許されるだろうし、女にももてるだろう。
頭の中将は当代指折りの雅男、という噂も、そういえば聞いたような気がする。
「懐かしいお話が出来ました。これというおもてなしも出来ませんが、どうぞくつろいでお過ごしくださいませ」
そんな当たり障りのない返事を女房にさせ、私は彼との面会を終えた。
その宵。
当然、彼は忍んできた。
いつもならそばにいる女房たちがいつの間にか、潮が引くようにいなくなっていた。気付くと私は独りだった。
所在ない徒然に、半ば仕方なく私は琴をつまびく。何と決まった曲ではなく、気ままに絃をはじく。私の好きな弾き方だ。
「趣のある音色ですね。少しばかり寂しげなのが気になりますが」
声に、手を止める。
来るだろうことは予想していたが、独りでいる時に間近で男の声を聞くと、にわかに恐ろしくなる。
逃げ出したい衝動を、私はなんとか押しとどめる。
「姫宮。まずは謝らせて下さい」
几帳の向こうで彼は生真面目に言う。
「こんな慌ただしい形になってしまったことを。もっとゆっくり、じっくり仲を育てたいと思っておりましたのに。実は急がなくてはならない事情が出来てしまったのです」
彼はひとつ息をつく。
「実は関白……おじいさまは近々貴女を、東宮の御息所の一人として送り込むおつもりなのです」
ああ、なるほど。
そういう使い方なら私を育ててきた意味があるわね、と、他人事のように私は納得した。
東宮は私の母方の叔母である女御、つまり私と同じく関白の娘から生まれた方。
帝は父君の弟でいらっしゃるから、東宮は父方母方両方で私の従弟にあたられる。血筋から言って私以上の者もそういないだろうから、東宮が御位に就かれれば私が中宮か皇后。
つまり、関白家の権力基盤はさらに磐石になるという筋立てだ。
頭の中将は大きく息をつく。
「でも私は、指をくわえてそれを見ているつもりはありません。姫宮、私は……幼い頃から貴女を思っておりました」
突然の告白に私は困惑する。
「先程、子供の頃に偶然貴女とお会いしたという話をしましたよね。あれは運命だと思っております。あの瞬間から私の胸に、あなたの面影が刻み付けられました。正直に申し上げて、今までまったくよそ見をしなかったとは言えません、お恥ずかしい話ですが。しかし私の心にいる唯一の女性は姫宮、貴女です、五歳のあの日から変わらず。貴女を得るのに相応しい男でありたい、それが今日までの私を支えたと申し上げても過言ではありません」
よくしゃべる男だこと。私はややあきれた。
無駄なまでの愛の言の葉、語れば語るほど重みがなくなる。
頭の中将は雅男ではなかったの?こんな稚拙な口説きで、女というものは簡単に惑わされるのかしら。
私が黙っていると、彼はさらに熱を込めてかき口説く。
「こんなことを一度に言われても、今すぐ信じてはいただけないでしょう。でも本当なのです。これから少しずつわかっていっていただけたらと、勝手ながら思っております。やんごとないお血筋の貴女に、私ごときが釣り合うとも思っておりません。しかしこれから一生をかけて貴女に相応しい男になってみせます。貴女を思う気持ちだけはどんな高貴な方にも負けない、その自信だけは永遠に揺らぎません」
縷々語った後、刹那彼は目を伏せたが、すぐ思い切ったように顔を上げた。几帳越しながらにらむような強い目だった。ぞくっとする。
「そちらへ行ってもよろしいでしょうか?いえ……参ります」
同時に几帳が押しやられ、桜襲が伽羅の香りと共になだれ込んで来た。強烈な香りと強い腕の力に、私は、不覚にも痺れたようになってしまった。
明け方前に男は帰った。
後朝の文も来た。
初めての共寝に茫然としていた私は、返事は桂に任せてしまった。
型通りに彼は三日通い、略式ながら我々は夫婦になった。
思惑を邪魔されたおじいさまは当初、怒り狂ったそうだが、もともと彼はご自身と気性の似ているこの孫息子に甘い。
渋々認め、祝いの品々も贈ってきた。
必要な届け出も済ませ、私は正式に頭の中将に降嫁した。
夫は、半ば強引に妻にした私へ引け目があるのだろう。
三日とあけずまめに通ってくる。
結婚してふた月ばかりだからまだ確かとは言えないが、すべてではなさそうながら、愛人たちとも切れた様子だ。
私の周りにいる女房たちにも気を遣い、楽しい話をしては皆を笑わせる。
愛を語る時は軽すぎる彼の言の葉は、こういう場合、悪くなかった。
時に彼は、我々の気を引き立てる華やいだ催しも考えた。
もうすぐ行われる予定の香合せがそうだ。
「この間、珍しい香を手に入れましてね。古い時代に伝わった香木のかけらだそうです。春日野の近くにあるうちの小さな荘園で見つけたのですが、どうしてこんなものがあそこにあったのか不思議ですね。あちらには古い血筋を自称する変わった巫覡もいるのですが、まあその話は又にしましょう。試しにその香木をほんの少しだけ焚いてみましたが、深みのある厳粛な香りでしたよ」
夫がそんなことを言い出し、桂が軽妙にその話を受ける。
「まあ、珍しい。どんな香りでしょう、想像もつきませんわ。古に思いをはせながら心静かに聞きたくなる、そんな玄妙な香りなのでしょうね」
桂はさほど美人ではないが髪が美しい。
椿油で櫛けずった髪はぬれぬれと黒く、控えめに差された紅もぬれぬれと赤い。女主より色合いは地味だが、その分色を重ねた衣はすっきりとしていて、闊達な彼女の立ち居振る舞いによく似合っている。
「ですがお殿さま。香りというものは組み合わせ次第で思いもかけないほど変わるもの。もちろん、その香木にかなう香りは出来ないでしょうが、我々も香りにはうるさい方ですのよ?」
「なるほど。確かにこちらはいつもいい香りに満ちていますね。例えるなら、女主は深山の百合、そばに侍る皆は芽吹きの梢やせせらぎのごとし……と言いましょうか」
調子のいい会話がやり取りされ、和やかな笑顔が広がる。
桂は元々闊達で物おじしない質だが、どうも夫に馴々しい。
ひょっとすると、夫の愛人にでもなりたいのだろうか。
そんな浅ましいことをふと思い、自分に驚く。
愚かしいと思いながらも、妄想はどんどん広がる。
いや……もしかすると。
ずっと前から彼女は、夫の愛人の一人だったのかもしれない。
しかし桂の身分では数いる愛人の一人以上にはなりえない、男に忘れられればそれまでだ。
だから私に引き合わせ、自分のところへ彼が通ってきやすくなるよう、画策したのでは?
急に身体が重くなり、私は、脇息にぐったりともたれかかった。
邪推だ、邪推以外のなにものでもない。
でもそう考えると、色々とつじつまも合う気がしてくる。
私の目を盗み、時間を盗んで逢引する二人が、私を噂し合って笑っているのではと思うとなんだかくらくら眩暈がする。
そんな馬鹿なと思うそばから、でも打ち消す根拠はないとも思い、胸が騒ぐ。
眩暈に耐えながらじっとしていると、何処からともなく轟々と風の鳴る音が聞こえてくる心地がした。
私が不思議な風の音に気を取られているうち、話はいつの間にか夫と夫の友人たちと我々とで、私的な香合せの合戦をする、ということになっていた。
「負けるつもりはありませんわ。我々が勝ったらぜひ褒美を下さいませ」
桂の挑発を受け流すように、扇を弄びながら夫はゆったりと笑む。どこかなまめかしい笑みだ。
「かまいませんよ。でもその代わり、私たちが勝った時は貴女方から褒美をいただきますからね。覚悟しておいて下さい」
なにやら含みのある物言いに聞こえるのは……私の心が歪んでいるから?
再びごうと風が鳴り、ふっと気が遠くなった。
私はひとり、見渡す限りの野の真ん中に立っていた。
轟々と吹く向かい風の中、立っていた。
足元では脛ほどの丈の草が千切れそうな勢いでなびいている。
(ここは……どこ?)
思うと同時に納得している。
ここは夢。私が見ている夢の中。
ひときわ強い風がごうと吹いた。
引き千切られる勢いで髪がなびく。
黒い蛇のようにうねる髪。頭が持ってゆかれそうだ。
思わずうずくまり、目をぎゅっと閉じる。
耳元でびょうびょうと鳴る風。ひたすら恐ろしい。
「恐ろしいからといって、ずっとそうしているのか?」
風のまにまに聞こえてくる声。
冷ややかで、完全にこちらを馬鹿にした声音だ。
思わずかっとする。顔を上げ、声の主を探すが誰もいなかった。
「恐ろしく、ない」
あえて声に出し、言い切る。本当にそうだとその瞬間に気付く。
そう、恐ろしくなんかない。
すべてを根こそぎ吹き飛ばす風は清々しく、むしろ心地いい。
私は笑う。
風の轟音に負けないよう、高らかに。
そう、姫宮たる方が声を上げて笑うなどはしたないなどと、鬱陶しいことを言う訳知りなどここにはいない。
だってここは、私が見ている夢の中なのだから。
風の中へ小袿を脱ぎ捨てる。
色を重ねた五つ衣も。
重く恐ろしい音を立て、衣はうねりながら次々と風に飛ばされてゆく。
単袴姿になった私は、風に押されるまま走り出した。
最後の走ったのはいつだっただろう?
三つの頃?それとも四つ?
どちらにせよ十年以上前だ。
それなのに走り方を覚えている自分に驚き、嬉しくなる。
「飛んでゆけ!飛んでゆけ!」
おなかの底から声を出し、叫ぶ。こんな晴れやかな気分は何年振りだろう。
「飛んでゆけ!飛んでゆけ!」
「……姫さま!」
強い声と同時に肩を揺すられ、我に返る。どうやら脇息にもたれたまま、うたた寝をしていたらしい。
「どうなさいました、ひどくうなされていらっしゃいましたよ」
目を上げると、すぐ近くに桂の顔があった。
本気で心配してくれているようだが、それがかえってうとましい。
「何でもないわ」
邪険なくらいぞんざいに答え、私は大きく息をついた。
このところ、私は夢の中で遊んでいる時間が増えた。どうかすると覚めている時の自分の方こそが幻のような気がする。
野分のように風の吹きすさぶ夢の野は、心の鬱屈までも根こそぎ吹き飛ばしてくれる。
私は野の真ん中に立ち、声を限りに叫び、笑う。
風に押されて全力で走る。
ああ……幸せだ。なんて清々しいのだろう。
眠っている時間がどんどん増えてゆく。
私自身危うさを感じるし、からかっていた周りの者の顔も微妙に曇るようになってきた。
でも夢の、風吹きすさぶ野から去る気にはなれなかった。
夢の野で、私はついに長く邪魔な髪を肩の辺りでばっさりと切り落とした。
守り刀と称して懐に小刀を忍ばせ、眠ったのだ。
ひょっとするとあちらへ小刀を持ってゆけるかもしれないと思い付き、試してみると成功した。
きしみながら切られた髪は、風がすぐに何処かへやってくれる。
てのひらに包めるだけの束を、少しずつ時間をかけて絶つ。
髪を小刀で絶つざっざという音が、最初は恐ろしいような気もしたが、すぐ慣れた。むしろ小気味いい。
切った毛先もバラバラで、情けない、尼のような姿だろうがかまうものか。
頭が軽いとここまで心が晴れやかになるのかと、私は感動した。
いっそ出家しようかと本気で思う。
(出家したら……桂と夫の、あるのかないのかわからない仲を疑い、もやもやしなくても済むのかしら)
思ったが、そんなつまらないことを考えるのはやめにした。
ここは夢。
私だけの夢の中。
ただ狂え。
風のまにまに声が聞こえる。
どうやら、私を呼んでいる声らしい。
「颯子、さつこー」
本名だ。
私を本名で呼ぶ者は限られる。
それに滅多に呼ばれることもなかった。父君、母君、そして……。
「颯子!」
耳元で不意に声がし、がっしりと後ろから羽交い絞めにされた。
「あああ、なんというお姿。なんという、なんという……」
きつく抱きしめうめく声。
そう、私を本名で呼ぶ者の、残り一人はこの声の主……夫だ。
「貴女ともあろう方がなんというお姿に。一体どんな物の怪に魅入られ、こんなひどい姿でこんな寂しい夢の中に閉じ込められたというのです!」
急速に心がしぼむ。
この人は何をしに来たのだろう?何を言っているのだろう?
せっかく晴ればれとした気分で遊んでいるのに、どうして邪魔をするのだろう?
腕の戒めを解き、彼は私の前に回って顔を覗き込む。
痛ましそうな、苦しそうな瞳。
彼は傷付いている。とても。
私は不思議だった。
「戻りましょう。今ならまだ戻れます。私が来た道を辿れば一緒に戻ることが……」
途端に激しい怒りが胸に突き上がる。
勝手だ。勝手だ勝手だこの人は。いつもいつも!
「戻りません」
私がきっぱりそう言うと、夫は驚きのあまり、大きく目を見開いて絶句した。
今までろくにしゃべらなかった人形のように大人しい妻が、恐ろしいほどきっぱりと歯向かったのが信じられないのだろう。
「戻りません。それに、私は物の怪になんか魅入られてません。私はここが好き、好きだからいるの。お戻りになられるのなら、おひとりでどうぞ」
やや早口でそう言うと、私は彼を振り切るように走り出す。
風が私の背中を押す。
転がるように駆けながら、どこまでも走ってゆけそうな気がした。
しばらくあっけに取られていたが、夫はあわてて追ってくる。
私の背中を押す風は、彼の背中もやはり押す。
いくら夢の中でも、形だけとはいえ武官を務める若い男の足にはやはり敵わない。
再びがしりと、私は夫に抱きしめられた。
「物の怪の魅入られている本人は、魅入られていることに気付かないものなのですよ!」
夫は叫ぶ。泣きそうでさえある声だった。
「貴女は絶対に何か怪しいものに魅入られていらっしゃる。だからこんな瘋癲ななりで、こんな寂しい夢に喜んで囚われていらっしゃるのですよ!戻りましょう、戻って目を覚ませば、何もかもが元通りに……」
高い声を上げて私は哄笑する。ひるんだように夫の腕が緩んだ。
「元通りなんてまっぴら」
彼の腕から逃れ、向き合って対峙する。
結婚以来初めて、夫の目を真正面から睨み据える。
彼の目が激しく揺らぐ。おびえたような途方に暮れたような、迷い子のような顔。
これが、いつも自信満々で怖いもの知らずな、当代一の美男ともてはやされているあの頭の中将だろうか?
身体が熱い。ざくざくと脈打っているのがわかる。
「あなたは元通りの私がお好きなのでしょうけど、私は嫌い、大嫌いよ。重い衣も重い髪も、姫宮以外の私を認めないみんなも、ぜーんぶ嫌い、大嫌いなの!」
叫んだ途端、身体が火柱になる。
炎になった私は風に煽られ、貪欲な赤い舌のように草を嘗めた。瞬くうちに辺りは火の海になる。
「さつこ、さつこー」
よれた狩衣の袖で顔を隠しながら、夫は狂おしく私の名を呼ぶ。
すさまじい熱気に彼はよろめく。
草を伝った火は容赦なく彼の全身を嘗め尽くした。
ぱちぱちと音を立ててはぜ、夫の身体は瞬くうちに炭になり……やがて白い灰になり、風の中へ消えた。
伽羅の香りが一瞬強く、匂った。
我に返る。にわかに恐ろしくなり、がくがくと身体が震えてならなかった。取り返しのつかないことをしてしまった。
(いいえ、そんなことは。これは夢。夢なんだから)
自分に言い聞かせるように思うが、不安は去らない。
風はない。
音もない。
しんとしたただ中で、焦げたにおいだけがゆらゆらと立ち上ぼる。
「気が済んだか?」
唐突に後ろから声をかけられ、私は鋭く振り返った。
後ろにいたのはヒトではなかった。
しかし物の怪とも思えない。
全身が雪のように白い、立派な白い角に緋色の瞳の神々しい牡鹿。
神の使い、という言の葉が自然と浮かんだ。
「恐ろしいからとずっとうずくまっていたくせに、うずくまるのをやめたら夫まで殺してしまうのか?」
聞き覚えのある声だ。
こちらを馬鹿にし切った、冷ややかな声。
風の吹きすさぶ夢の野でうずくまっていた私へ、最初に話しかけてきた声だ。
「夢に浸って逃げるくらいなら、うつつで戦え、女」
相変わらずの冷ややかな声で、白い牡鹿はズケズケ言う。
女、などとぞんざいに呼ばれ、私はひるむ。
一瞬後、なんと無礼な私は姫宮なのにと腹が立ったが、神の使いから見れば姫宮だろうが下々の娘だろうが同じようなものなのかも、と思い直す。
「お前を救いに来た夫すら焼き滅ぼす力があれば、大抵のことは出来よう、違うか?それともこのまま永遠の焼け野原にぐずぐずと溶け込んで、朽ちるように死ぬつもりなのか?まあ別に、どちらでもお前の好きにすればいい話だが。おれには直接関係ない」
不意にすべてのからくりが見えた気がした。目の前が赤く染まる。
「お前が……お前が私を、この野へ陥れたのね!」
叫びと同時に再び全身が火柱になる。炎の舌が白い鹿を凶暴に嘗める。
しかしこの異形の鹿へ、炎の舌はどういう訳か届かなかった。
真っ白な毛皮に焼け焦げひとつつかないのだ。
「無駄だ、女。残念ながらおれはおまえより『上』なのだ。ここはお前の夢、夢主のお前を凌駕する者はほとんどいないが、おれはその数少ない『上』なのだ。あがいても無駄だ」
言いながら白鹿は、じりっとこちらへ近付いてくる。
私は絶望的な気分で立ち尽くすしかなかった。
「それに、人聞きの悪いことを言うな。何故おれがお前を陥れなくてはならないのだ?自分の夢に自分から浸り込んでおきながら、言いがかりも甚だしいではないか」
さすがにかっとする。
「だって、だってお前は私がこの野へ来たばかりの時、小馬鹿にするように言ったじゃない!『恐ろしいからといって、ずっとそうしているのか?』って。私を挑発して、このいつも野分が吹きすさんでいるような野の中にとどめたじゃない!」
「知るか」
白鹿は鼻を鳴らす。
「お前がおれの声で、己れの心を聞いたのだろうよ」
胸がぎくっと鳴った。そんな馬鹿なと思いながらも、何故か否定出来ない。
「お前とてこの日ノ本に生きる命のひとつだ。否応なくおれと関りがある。おれの声で己れの心を聞くこともあろうよ」
不思議なことをやや面倒くさそうに言うと、白鹿は私をひたっと見た。
「で?これからどうするのだ?帰るのか?とどまるのか?帰れば生きるが、とどまれば死ぬ。お前だけでなく、お前の夢に絡み取られたお前の夫も」
『お前の夫』にぎくりとする。
「あの人は……関係ないでしょう?」
やはり面倒くさそうに白鹿は言う。
「だがあの男は、お前の夢の中へ自分から入り込んだ。その為にわざわざ自分で馬を駆り、春日野に住むおれのお気に入りの巫女姫を頼りに来たのさ。おれの巫女姫は夢を司る。いわゆる国津神の裔さ。天津神の裔たるお前たちより、ずっと古くから日ノ本に住んでいる」
何故か得意げに白鹿は言う。
「加持や祈祷も一切効かない、眠りに囚われて目覚めない妻を助けてくれと。おれたちはよせと止めたが、あの男は自分で夢に沈んだお前を説得すると言って聞かなかったのさ。仮にお前の妻が夢から戻ってこなければ、お前も戻れなくなる可能性があると言ったが、かまわない、とな」
「どうして……」
私は思わず涙ぐむ。腹が立つ。
「どうしてあの人はいつもいつも、こんなに勝手なのかしら。私のことなんかほうっておけばいいじゃないの」
「知るか」
白鹿は再び鼻を鳴らす。
「文句があるなら本人に言え。この焼け野原の何処かにいる。必要なら探せ」
言うだけ言い、白鹿はふいっと何処かへ駆け去った。引き止める暇もなかった。
私は再び焼け野原のただなか、ひとりになってしまった。
「あなた……」
小さな声で呼んでみるが、当然返事はない。
「あなたー!」
声を限りに叫んでみたが、沈黙の焼け野原にただ虚しく吸われて消えた。
「あなた、あなた……」
彼を探さないと。早く。早く。
焦りに似た何かが胸をざわめかせ、急き立てる。
もつれる足で前へ進む。
あの勝手な男へ、まずは文句を言わなくては。
私にも心がある、思いがある。
勝手に『私の為』に色々されるのは迷惑だと言わなくては。
(そうよ迷惑なんだから。ずっとずっと前から)
自分勝手でうとましい男だけど、こんな訳のわからない死に方は駄目。
あの頭の中将が、殺しても死にそうもない小憎らしい男が、こんな死に方なんて有り得ない。
そう、とにかく有り得ない、有り得ないのだ!
生きて、野を出でもらわねば。
突然、ふっ……といい香りが鼻先をかすめた。
どこかしら甘い、渋みや苦みもかすかにあるこの香りは。
(伽羅?)
思わず立ち止まり、鼻から深い息を吸い込む。
しかしさっきの香りは感じ取れない。
あきらめて一歩踏み出した途端、またふわりと薫ってきた。
(この辺の何処かだわ)
そうだ、香りというのはかごうとして遮二無二息を吸い込んだり、顔を近付け過ぎては正しく感じ取れないものだった。
私は膝を折り、両手を地面につけるようにして、ゆっくり呼吸をした。目を閉じ、遠くのせせらぎのような虫の音のような、あるかなきかの香りを『聞く』。
聞き耳を立てるように香りをたどり、私はゆっくりと焦げた草をかき分ける。
もろもろとした灰の中にある、まろやかな形の何かが指先に触れる。おそらくは絹で作られた、小物か何かだろう。
「あ……」
灰の中から取り上げてみると、それは真白の羽二重で作られた、小さな匂い袋だった。
遠い日に乳母が、端切れを使って作ってくれた。
伽羅の香りをたきしめた、私のお気に入りだったもの。
「だあれ?」
幼い声が聞こえ、はっと顔を上げる。
私の目の前に、肩を過ぎるほどのおかっぱ頭の童女がいた。
色白でまろやかな頬の、桃の花びらを重ねたような唇の、愛らしい童女。
眉を隠す前髪は艶のある漆黒で、形の良い目の中で黒々とした瞳が輝いていた。不意に胸が苦しくなる。
「それ、姫のよ。返して」
反射的に返そうと差し出しかけた手を、何故か私は引っ込める。
不思議な衝動だった。懐に匂い袋を押し込め、きびすを返す。
「返して、返してよう」
涙声で追ってくる小さな足音から早足で逃げる。
涙声に罪悪感を抱きながらも私は、とにかくその場から去る。
理由なんかない、どうしても返したくないのだ。
踏みしめる床板の冷たさ、懐に押し込めた小さな袋の存在感、そしてそこからかすかに立ち上ぼる伽羅の香りが、甘やかに胸をうずかせる。
これは記憶。古い日の衝動の記憶。
うずき続ける甘やかな罪の記憶。でも誰の?
「見つけたようだな。どうするのだ?」
冷ややかな声。それこそ夢から覚めたように私は、声へと振り返る。
白鹿だ。
少し離れたところに像のように微動だにせず立ち、緋色の澄み切った瞳が穿つようにこちらを見つめていた。
「お前の夫だ」
私は手の中の小袋をそっと見る。
「お前の夫の、核、と言うべきだろうがな」
ああ……そうだ。
確かあの日、私はお気に入りの匂い袋を落とした。
気付き、さっきまで遊んでいた部屋へ戻った。
すると身なりのいいちょっと年上の男の子がそこにいて、驚いた。
その子が私の匂い袋を持っていて、返してと言ったのにどういう訳か返してくれなかった。
なんて意地悪な子、男の子なんて大嫌い、幼い私は泣きながらそう思ったものだ。
(あの子が)
夫。
関白家の嫡流・藤原某の御令息で、私の従兄でもある頭の中将。
「しかしその状態ではどうしようもないな。お前が連れて帰ってやらねばここで朽ちるしかあるまい」
淡々と恐ろしいことを白鹿は言い、私はぎくっとする。
「せめて鳥とか虫とか自力で動けるものなら良かったのにな。匂い袋ではどうしようもない」
「連れて帰るってどうやって?」
私が問うと、白鹿は面倒そうに目をすがめた。
「それを持ってお前が夢から覚めればいい。簡単なことだろうが」
あまりにも自明なことのように言われ、戸惑う。
「あ、あの。でもどうやって……この夢から覚めるのでしょうか?」
ふん、と白鹿は鼻を鳴らす。
「ああ……お前は夢の覚め方を忘れたのだったな。途中までおれが送ってやる、そもそもはその為に来たようなものだ。ただ、おれに先導されてこの夢から本当に覚めれば、二度と同じ夢には戻れないぞ」
『二度と同じ夢には戻れない』
その一言に、何故か心臓がぎゅっと音を立てた。
白鹿は静かに続ける。
「こんな夢に浸り込むくらいだ、お前は生きていたくなかったのだろうよ。これを手放せば、ゆるゆると朽ちてゆく穏やかな死に方は出来なくなるが、それでもいいなら今すぐ送ってやる。お前次第だ、どうする?」
「え、あ、あのう」
何を訊きたいのか自分でもよくわからなかったが、疑問ばかりが胸にあふれた。
だが口をついて出てきたのは、ひどく間の抜けた問いだった。
「あの、私……ひょっとして死にたかったのでしょうか?」
「知るか!」
吐き捨てるように白鹿は言った。
「己が生きたいのか死にたいのか、そんなこともわからんのか?あああ、こんな馬鹿に付き合っているのはもううんざりだ」
緋色の瞳が鋭くすがめられる。
「おい女、もう一度だけ訊く、さっさと決めろ。目覚めるのか?とどまるのか?」
苛立たしそうに白鹿に詰め寄られ、私はうろたえる。
思わずぎゅっと握ったてのひらの中で、匂い袋が小さくきしんだ。
目をやる。伽羅の香りがかすかに立ち上った。
(彼には死んでほしくない)
生きてほしい。絶対に。強く思う。
「目覚め、ます」
ふん、と白鹿は鼻を鳴らす。
「なら、来い」
白鹿がきびすを返す。途端に目の前が真っ白になった。
眩しい光の中、見事な角を振り立てて跳ねる鹿の影をみた……ような気がした。
低い読経の声。それに、なんだか煙い。
(護摩でも焚いているのかしら)
ぼんやり思う。
「ひ、姫さま?」
裏返った声。私は重いまぶたをこじ開ける。
ろくに櫛けずっていない髪を邪険に耳にかけた、そそけた顔の女。化粧ひとつしていないし、なんとなく汗じみたにおいさえする。
こんなみすぼらしい女房がうちにいたかしら、とぼんやり思う。
「姫さま姫さま。ああ良かった、お目覚めになられたのですね」
興奮した甲高い声。この声は……。
「か、つら、なの?」
上手く動かない唇を動かせ、私は馴染みの名を呼ぶ。
私の手を取り、桂は何度もうなずく。
洒落者の桂とも思えないみすぼらしいなりだったが、そんなことはまったく考えていない様子で、感極まって涙ぐんでいる。
「もうお目覚めになられないかと。お殿さままで眠り込んでしまわれましたし」
『お殿さま』にはっとする。
慌てて身を起こそうとしたが、くらりと目の前が揺れる。
「いけません、急に動かれれば……」
慌てる桂の腕へ、私はすがりつく。
「あの人は?あの人は何処?」
くらくらする視界に耐え、私はあえぎながら問う。
血相を変える私に桂は戸惑う。
戸惑いながらも、あの人はあの人はと問う私を支え、几帳の向こうへ連れて行ってくれる。
衾をかぶり、夫はまぶたを閉じて横たわっていた。
ふらつく頭でいざるようにして近付く。
髪が乱れ、面やつれし、口の周りには髭がうっすら生えていた。
いつもの隙のない彼からは想像もつかない姿だ。胸が詰まった。
そっと彼の頬に触れる。ほんのりあたたかい。
ざらざらとした髭の感触すら、たまらなく愛しい。
(生きている……)
良かった。ただそう思う。
夫のまぶたが細かく震え、ゆっくりと開いた。
私に気付き、彼はかすかに笑った。
遠い旅から帰った人のようだった。
「どれだけ心を尽くしても……」
つぶやく声は小さい。
「どれだけ言の葉を重ねても。貴女には通じない。それどころかますます遠くなる心地がしていました。当然ですね、本来なら一番先に言うべき言の葉を、私はずっと飲み込んだままにしておりましたから」
一瞬、夫は泣きそうな目をした。
「あの日。貴女が大切にしていらっしゃった匂い袋を、勝手に持っていってしまって本当に申し訳ありませんでした。十年以上経ってしまいましたが、お許しいただけませんでしょうか?」
私は笑んでかぶりを振る。
「もういいのですよ。それに、私も実は言わなければならない言の葉を、ずっと飲み込んでおりました。おあいこですわ」
え、と彼は、少しおびえたように瞳を揺らす。
夢の野で私に激しく拒絶されたことを思い出したのかもしれない。
私は彼の、迷い子のような頼りない顔にそっとふれる。
「あなたが好きです、口惜しいけど」
思いがけない、と言いたげな彼へ、私は柔らかくほほ笑む。
「あなたが好きです。憎らしい頭の中将も、意地悪な小さい男の子も」
その瞬間、私は、一面の焼け野原の下から淡い緑が萌え出る幻を見た。
新緑の野に、優しく柔らかな風が一陣、吹き抜けた。