虚無を飼う(1)
定例会を控えたとある放課後の部室。
遥が、何も入っていない虫かごを持って嬉しそうに覗き込んでいる。
「何がいるんだ?」
「虚無だよ」
当然のように言う遥に、俺は一呼吸おいて尋ねる。
「今さら聞くことでもないのは分かってるが聞かせてくれ。何言ってんだ?」
「ふふん。かわいいでしょ」
俺の疑問には応えず、遥が虫かごを見せつけてくる。
「馬鹿には見えないとかそういう……」
「残念。中に何もいませんよ。からかってごめんね」
「んだよ」
「おー、よろしくやってるかー?」
だいぶ品位の無い挨拶をしながら、高志が部室に入ってきた。
遥は高志に虫かごを見せる。
「見て見てー」
高志は真顔で虫かごを見て、少し小馬鹿にしたような顔をしてから言った。
「可愛いイナゴだな」
「あ、そのネタ知ってるー?」
二人で俺の知らないマニアックな話をしかけたところで、空也が静かに入ってきた。
「あ、空也。いらっしゃい」
遥に虫かごを脇に置いて手招きをする。
空也はその場でオロオロしながら、ずっとドアの方をチラチラ見ている。
どうかしたのかと尋ねる前に、一人の女子生徒が叫びながら部室に入ってくる。
「お兄ちゃん!」
空也とよく似た青みがかった黒髪を左側のサイドテールにして、水色の蝶の髪飾りが付いている。
スカート丈、爪の色、細身の腕時計、第一ボタンを外して少し下がっているリボン。いずれも校則遵守ギリギリの教師にうるさく注意されない程度の着こなし。一言でいうと……ギャルだ。(「ぷぷ……ギャルとか表現ジジイっすか」と煽ってくる脳内遥(ミニサイズ)は隅に追いやる。)
「雲母」
「あ。ららちゃーん」
気まずそうに呼ぶ空也と、ニコニコと彼女が勝手につけたあだ名で呼ぶ遥。
古柴雲母。中等部に通う空也の妹だ。
雲母が遥を見やり、不機嫌そうに近づいて話しかける。
「人のこと変な名前で呼ばないでください」
「そぉ? 【古柴雲母】ちゃん?」
遥の声に反応して、雲母の体が一瞬固まる。
上級魔術の一つ、相手のフルネームを呼ぶことで相手を拘束することができる。
そのせいか、遥は知り合いのことを自分でつけたあだ名で呼ぶことが多い。
今回は威力が弱めだったのか、すぐに解けた。
雲母が深く息を吐いて、低い声で言い放つ。
「そういうところ、私嫌いです」
「仲良くしましょ」
売り言葉に買い言葉をしてしまう遥の性格で、それは難しいのではないかと、俺は腹の中で思った。
遥は何事もなかったかのように座って、名簿とペンを取り出す。
「入会希望ということでいいのかな?」
「兄さんを一人にはしておけませんので」
「お兄さん、しっかりしてるよ。信用してあげたら?」
「信用していないのは貴女のことです」
「私何もしてないよォ?」
「幻術使いを信用する方が難しいです」
「おやお嬢さん。何か勘違いをしているようだね?」
遥はわざとらしく肩をすくめてヤレヤレと首を振る。
「確かに私は世にも珍しい幻術使いですけれど」
「言うほど珍しくもないけどな」
俺は間髪入れず突っ込みをする。
幻術は制御が難しい割に、作り出すものがまやかしなので需要がなく、使いこなせる者が少ないのは本当だが。
「む。そうは言っても幻術って、そんな便利なものじゃあないんだよ」
彼女はそう言いながら机に置いてあった裸電球を手に取り、三回指で弾く。
電球に忽ち灯りがともる。
「そもそも魔力というのは電気とか火みたいに、元になるエネルギーをずっとくべ続ける必要がある」
遥が雲母に電球を手渡し手を離すと、灯りが消える。
雲母は電球を軽く振ったり叩いたりするが、何も起きない。
遥がにっこり笑ってから言う。
「貴女は私が洗脳か何かをして、空也を操ってるとでも妄想してるようだけど、そんな魔術は存在しないよ。夢から覚めれば、今まで見ていたものが夢だと気づくように……」
遥が憂いの帯びた表情で呟く。
俺は、少し離れたところで、ぼんやりしている空也に声をかけた。
「どうした?」
「拳銃を装備している相手と対等に交渉する方法を考えている」
「話聞いてない風なのに、すっごい的確なんだよなぁ」
空也がとぼけた顔をこちらに向ける。
俺は肩をすくめて空也の隣に立ち、遥達の話の成り行きを見守ることにした。
雲母はしばらく唸りながら考えていたが、へこたれずに声を出す。
「そんな……そんなずっと惑わさなくても、脅す方法なんていくらでもあるじゃないですか!」
「あ、気づいたみたいだ」
俺は独りぼやく。聞こえてなければ良いが。
雲母の訴えに、遥が無表情で頷く。
「全くだ。」
彼女は首をゆっくり傾けながら、さっきまでとは変わって低い声で囁く。
「人を騙す秘訣は、本当のことを混ぜて言うことだよ。君はよく分かっている」
「やっぱり貴女は信用なりません」
二人とも、睨み合ったままだ。
「暴れんなら表出ろよ」
遥が扇子で手遊びをしているのを見て一応注意しておく。
「やっだ翼くんそんなことしないよぉー」
遥が上機嫌の声色を出して扇子を握ったまま両手を胸の前で振る。だから、その手に持ってる物を離せ。
俺は無言で目を細めて遥を睨む。彼女は両足をパタパタばたつかせながら何度も投げキッスしてくる。
そんな様子を呆れて見ていた雲母に、遥は急に向き直って喋る。
「てかさー……」
そして、それぞれを指差しながらこう言った。
「私は翼くんのことが一番好き。ららちゃんは空也のことが一番好き。何も問題ないな!!」
「そんなんじゃありません!!」
「えー。誰も恋情だなんて言ってないじゃーん。この翼くんだって、数年前まで一番好きなのは実の妹ちゃんだったんだから」
「おい、誤解を招く表現止めろ」
間が悪いことに、ちょうどそのタイミングで佐代里が部室に入ってきて、やはりこちらを怪訝そうに見る。なんで俺が悪者みたいな顔されなきゃならんのだ。
「さて、どの程度の矢印が誰から誰に向いているかはとりあえず置いといて、今日は定例会の予定だったんだけど、参加してく?」
「勿論です」
雲母の返事に遥が満足そうに頷く。その頃、生徒会の用事を途中抜けしてきたであろう光がやってきた。
「よし。ではみんな揃ったし、いい時間だし、そろそろ始めましょうか」
遥が手を二回鳴らし、意気揚々とホワイトボードの前まで行って、得意気な顔で振り返った。