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終業の放送が流れ、ホームルームが終われば生徒たちは一気に活気づく。生徒たちでごたつく廊下をかき分け、真と悠斗は真っ先に校舎を出た。秋の始まりを感じさせる少しだけひんやりとした風が駅へ向かう真と悠斗の肌を撫でる。季節の変わり目はどうしても切なくなるものだが、今の彼らには趣あることを考えられるほどの余裕はなかった。心なしか早くなる歩調とくるくる回る舌、かと思えば話題を探すように黙り込んでしまう。でも話さなければ、これから待ち受けていることを考えてしまうからどうでもいいことを話し続けてしまう。駅へ向かうバスに乗ったとき、制服のポケットに入れていた真のスマートフォンが振動した。画面を見れば着いたから待ってる、という簡素なメッセージ。
「もう着いたらしい」
「早くね?あいつどこの高校なんだよ」
そういえば見かけない制服だった気がすると真は思い返してみたが、状況が状況だったから制服なんてよく見ていなかったのが本当のところだった。それきり二人は黙ってしまい、駅に着くまでお互いにじっとりと纏わりつくような緊張と戦うハメになってしまった。
「渚」
バスを降り、マクドナルドの入り口へ向かえばうつ向きがちにスマートフォンをいじる渚が見えた。声をかければ、彼女はパッと顔を上げた。二人の目の前に立つ渚は、きちんと整えられた髪の毛に皺ひとつない制服、体中についていた泥や血は影すら見えない、完璧に「普通」の女子高校生だった。
「上村くん、だっけ?」
渚は真に声をかけるより、横に並んでいた悠斗を見て驚いたようにそう尋ねた。ああ、久しぶり、とだけ言って悠斗は店内に入ってしまった。真も渚も慌ててその後ろを追いかけた。
「昨日いたのも上村くんなの?」
「いや、違う。昨日のやつはまた別のやつ」
そこで真と渚の会話は一度途切れた。渚は真の背中に驚きと疑問の視線を送っていた。
(どうして、昨日の人でもないのに上村くんがいるの・・・?)
いくら視線で問いかけようと、その背中は答えてくれない。
「それで、お前が噂の『ホトリ』で間違いないのか」
三人が席に着くなり、悠斗はそう切り出した。渚は黙って首を縦に振った。
「なんでエンコーの見返りに自殺幇助なんて持ち掛けてたんだよ」
悠斗は前置きに近い彼女の現状説明を手早く済ませたいようで、ずけずけと質問していく。渚は真のことを一瞥してから、悠斗を疑ったような目で見て黙ってしまった。実は渚が悠斗に疑念を抱いているのは、真が今日の待ち合わせに彼がいることと、なぜここに彼女を呼び出したのかを説明していないせいである。呼び出した理由を君を助けたいから、と一言伝えればよかっただけだが、彼はその時彼女のことを助け出すというビジョンがどうしても思い浮かばず、その言葉を送れずにいた。自分の意気地なしから二人の会話がすれ違い始めていることに真は冷や汗が止まらずにいた。
「お前さあ、聞いてんだから答えたら?答えてくんなきゃどうしようもないんですけど」
疑心の目で見られていることに気づき、悠斗の雰囲気は剣呑としていた。渚も渚で、どうして急に会わされた、それも昨日のことも知らない昔馴染みに根掘り葉掘り聞かれなきゃならないんだ、と言わんばかりの表情だった。
「なんで上村くんにわたしがそんなこと話さなきゃならないの。真ちゃんならわかるけど、上村くんなにも関係なくない。」
(うわあ・・・強気)
真に見せる渚の態度や表情はとても弱々しいものだが、多々他人に対して彼女は強気に出るところがあると真は気づいていた。悠斗は、低い声で、あ?と聞き返したが、そのまま横目で真のことを睨んだ。
(バレてる)
真はその視線で悠斗に自分が全ての元凶であるとバレていることに気づいた。ここで言い訳をしようものなら厳しい言葉で繰り広げられる正論で論破され悠斗の手助けも白紙に戻されてしまう。何か言わなければ、と必死になっていると、渚が痺れを切らしたように立ち上がった。
「上村くんがいるなら、帰る」
「勝手に帰ってろよメンヘラクソビッチ」
悠斗の発言を聞いた瞬間、渚は手に持っていた飲み物の容器を振り上げた。
バシャッ
振り上げられた飲み物は容器ごと渚と対面する悠斗の方へ投げられた。氷と中に入っていたジュースがテーブルや床に散乱し制服に染みを作っていく。
「真ちゃん・・・」
しかしそれを被ったのは悠斗ではなく真であった。真は咄嗟に振り上げる渚の手を掴もうとしたが、一瞬出遅れ仕方なしにそのまま悠斗の前を遮るように立っていた。悠斗にも多少被害はあるが、元はと言えば真がちゃんと説明せずにいたからこうなってしまったわけだった。そして、今何より彼が恐れているのは悠斗の怒りに触れて協力を断られてしまうことだった。ジュース被るくらいでこの場が収まるならそれでいいと思っていた上での行動だった。
「悠斗は必要なんだよ、お前のこと助けるためには。」
ちゃんと説明してなくてごめん、と付け足して真は立ち去ろうとしていた渚の腕を掴んだ。
「口悪いけど、俺よりお前のことちゃんと心配してるんだ。だから、いろいろ説明してほしい」
ワイシャツは広範囲で濡れてしまったが量が少なかったせいかズボンや顔は濡れずに済んでいた。渚は呆然としながら、うん、と小さく返事をしてそのまま席に着いた。悠斗は洗濯する予定だった使用済みの体育着を鞄から取り出し、真に渡した。
「ちょっとトイレで着替えてくる。渚、テーブルとか拭いといてほしい」
「わ、わかった」
トイレに向かう真の後ろを悠斗は追いかけた。
「おい、真。お前どういうことだ」
「スミマセンスミマセンスミマセン」
後ろにぴったりとくっついてくる悠斗の顔が怖すぎて見られず、正面を向いたままひたすら謝り倒していた。
「ただ伝え忘れてましたーってことなのか言い出す勇気なかったんですーってことなのかどっちだ」
「あ、えっと、あの」
「とんでもねえ痴呆野郎か甘えたビビり野郎のどっちかだよ、答えろよ」
「ビビりなんですごめんなさいすみませんでした!!」
トイレの個室に入った後も、扉一枚隔てて圧力をかけてくる。事の発端は真にあるわけだが、悠斗は結果的に汚れ役となり不要な諍いを生み出してしまったわけでこの怒りも当然である。真はそのことを謝ろうと悠斗、と話しかけた。
「お前、今安心してんだろ。あの時あの勢いがなかったら言うつもりなかったんじゃねえの。俺と渚が揉めなかったら自分の口から『助ける』って言うつもりなかっただろ」
真に話しかけられているのをまるで聞こえていないかのように悠斗は扉一枚挟んで真に話し始めた。その声にははっきりと真を糾弾する色がにじんでいた。真はその言葉にぎくりと体を強張らせた。
「たかが幼馴染、別に好きだったやつでもない、そんな奴を助けるために行動する勇気がないってなら責めねえよ。それをちゃんと言えよ、人間自分がかわいいのが当然だ。けどな中途半端な正義感と行動力で見捨てきれねえ、でも責任は負いたくないって気なら俺は協力しない。この件、いや渚はお前の発言と行動にかかってんだよ。どっちかにしろ」
悠斗は渚との会話が食い違い始めてきた時点で真がどっちつかずな行動をしていることに気づいていた。そして、きっと今自分が厳しい言葉を言っても本当に彼が理解し、覚悟を決められるかはまた話が違うということもわかっていた。
(お前自身の覚悟がなきゃ、どうしようもならない時が必ず来るんだ。しっかりしろ、真)
いわば、船である。真がどこを目指すか決めるから、目的に向けて帆を張るなり舵を切るなりすることができる。目的を決め目指す自分の意志がなければ、強い風や荒れる波には勝てない。真の言葉、行動の一つで船の向かう先は全く別のものになる。その責任の大きさを理解できないなら、渚も巻き込んで沈没しかねない。
「今、ちゃんとするって言ってもそれが嘘になることくらい、お前ならわかっちゃうよな」
しばらくの沈黙ののち、真はどこか自嘲的にそう言った。
「ああ、そうだな」
「今はまだ覚悟はない、けど中途半端なことは二度としない。逃げようとしたら、ぶん殴ってでも引きずってでも連れ戻してほしい。頼む」
真が今言える精一杯であった。本気で自分の事を心配している悠斗に嘘をついたところで嘘を見破られ呆れられてしまうだけだし、なにより小学生のときからの付き合いだ。思い切りが悪く、意気地なしなんてこととうの昔に彼にはバレてしまっている。だからこそ、真もまた自分の最大限にできることを考えた。
「見捨てる気は」
「自分でもびっくりするくらい無いんだよ。不思議だよな」
「まあそれが聞けただけマシか」
扉を開ければ、生意気で人を見下したような笑顔の悠斗。ずいぶん性悪な笑顔だが、これでも彼なりに気を遣っている方である。真にはそれがわかる。
渚の元へ戻れば、どこか気まずそうにそわそわしていて落ち着かない雰囲気であったが、すぐに彼女は口を開いた。
「わたしの小さい頃の噂、知ってるよね?まあ、あれ全部大体本当のことなんだけど」
「母親がうつとか弟は障がいがあってほぼ軟禁状態とかってやつか」
悠斗の言葉に一つ頷き、渚は自らが「ホトリ」になるまでを語り始めた。
一番幸せだったなって記憶は、若くて優しいお母さんともう顔も思い出せないお父さんと狭い寝室で川の字で寝てた記憶。起きると、右にはお母さん左にはお父さん。今住んでいる家より全然狭くて街自体も綺麗じゃなかったけど、夕方お母さんと買い物に出て、夜はお父さんの膝の上で一緒にテレビを見る。平々凡々、どこにでもいる家族。しあわせだったなあ。近所に住んでた真ちゃんとももう友達になってたよ、鬼ごっことかいろいろやって楽しかった。
「ママ、泣かないで」
「ごめんね、ごめんね、渚。ごめんね・・・っ」
小学校に上がる時に、お父さんとお母さんは離婚した。お母さんすごく泣いてたんだ、お父さんはわたしの顔一回も見ないで玄関を出て行った。それから会ってない。それからすぐに、今の父親が来てね、お母さん再婚したの。医者ですごいお金持ちの男の人。この時に、気づいちゃったの。お母さんは、おじいちゃんに無理やり離婚させられて、無理やりこの人と結婚させられたんだ、って。お母さん全然幸せそうじゃなかった。後から知ったんだけど、お母さんの実家は三代続く医者一家なの。お母さんにはお兄さんが一人いて、その人が家を継ぐ予定だったんだけどね、亡くなったの。お母さん、唯一大好きだったおばあちゃんも早くに亡くなってたし、おじいちゃんとも不仲だったから駆け落ちみたいにお父さんと結婚したの。けど、伯父さんが亡くなってどうしようもないから、優秀な医者を婿養子にしようとお母さんを無理やり連れ戻したみたい。
「お前がこの家に戻れた意味がわかるなら、早く子どもを見せに来い」
「不妊?かわいそうに。でも、あなたの役目は元気な男の子を産むことだからね、頑張ってちょうだい」
親戚とかおじいちゃんからお母さんすごい責められてて、毎日のように泣いてた。父親との間に必ず男の子を産めって毎日言われてた。しばらくしてから、弟が生まれた。名前は、漣。よかったね、って思うでしょ?わたしも嬉しかったよ。
「こんな、こんなかわいそうな子を産むなんて・・・。」
「まともな子どもさえ産めないのか、お前は!」
重度の知的障がいを持って生まれてきたの。罪はないよ、あの子に。でも、誰も許してくれないの。お母さんのことも、弟のことも、わたしのことも。それから何度も病院に行って不妊治療してってお母さん頑張ってたの。でも、弟が生まれて一年たったくらいの暑い暑い夏の日、学校に行こうと思って何気なくお母さんの寝室を開けたら、冬用の分厚い羽毛布団を頭から被って全く動かないお母さんがいたの。怖かった。何が怖かったかって伝えられないけど、これはやばいんじゃないかって思ったの。とりあえず学校に走って行って、保健室の先生に言った。父親はきっと見て見ぬふりだろうし、動けない弟になにかあったら怖いし、他人に言った方がいいと思って。そう、体よりも先に心が壊れてしまった。
「ママ、元気出して」
「ママ、泣かないで」
「お母さん、渚のことわかる?」
「お母さん、どうしてこうなっちゃったんだろうね」
あの日からお母さんの声を聞いたことがない。お父さんと別れてから、お母さんはずっと病院につながれてる。子供を産むために、気が触れて死なないように。お母さんの不妊治療が出来なくなったから、次はどうなると思う?
「優秀な医者になれ」
今までろくに話したこともなかった父親がそう言って、わたしに暴力を振るうようになった。
「ねえ、わたしのこれって生きてるって言う?毎日、汚い父親に殴られたりヤられたり、バカみたいに勉強させられたり。わたしの人生って誰のものなの?」
涙も鼻水もとめどなく流れていた。綺麗な泣き顔とは程遠い、それでも彼女は強く真たちを見据え問いかけた。誰かに占領され、その身の自由を奪った人生は生きていると言えるのか。ただ、呼吸を繰り返し心機能を維持することが人間の「生きる」という行為なのか。
「だから、こんなんなら死んでやろうと思って、ホトリになったの。けどね、バカだなって怒っていいよ、聞いて」
真は真っ直ぐに自分を見つめる渚の瞳の力強さに逃げたくなった。でも、決して逃げてはいけないと思った。これが彼女の心の声だからだ。
「わたし生きたい、助けて」
あの夜に渚の後ろ姿から聞こえた「生きたい」という叫び声が、渚の声と重なって真の頭の中に響いた。うん、と彼は迷いなく頷いた。