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歪みと安らぎ

作者: 薫楓

 窓から差し込んだ夕焼けが、カオリの横顔をうっすらと茜色に染めた。

僕達はお互いに次の言葉を探しながら、ただそこに存在する相手に−つまりは僕にとってはカオリで、カオリにとっては僕という事だ−

これ以上何を求めて、そして何を求めないかについて考えていた所だった。

僕達が付き合ってもう3年が経った。ある部分は素晴らしいもので、そしてそれ以外の大部分は記憶の辺土に積み重ねられて

しまうような時間だった。

それだけの間、二人で共有してきたという事だ。


僕達はいつだって側にいて、そして何もかもを分け合ってこれたと思う。いや、いつだってというのは過大かもしれないけれど、少なくとも

側にいられるときはいつだって側にいた。

朝目覚め、僕は仕事に出かけ、そして夜に帰りまた朝までの時間を共有する。

仕事の無い日は文字通り二人で居た。誰にも邪魔されず、僕と彼女だけの世界の中で戯れていられた。

二人だけの国の中にいる限りには僕達は自由だった。法律は無い。原則は僕と彼女がそこに居るという事。

抱き合って眠った冬の朝、目覚めた時に彼女がそこにいるという事だけで僕は十分に幸せだった。

或いは誰もが眠ってしまった後に散歩をした桜並木の美しさと無邪気にはしゃいでいた彼女を見ているときに、

それ以外は何も要らないのだろう、と盲目的に信じれた春の事。

そんな日々が積み重なり、そしていつのまにか過ぎ去ってしまった。


一体、いつからなのだろう。僕達の世界では日々に日付というラベルを貼り付けない限り、見分けのつかないような倦怠に

包まれてしまった。倦怠は緩やかに僕達の心を侵食していく。

彼女が側にいるという事は当たり前になってしまった。いや、結局当たり前だと思ってしまっただけかもしれない。

実際にカオリは僕の側にいるけれど、それが失われるものだとは考えることが出来なくなってしまった。


燃え盛っていた炎はいまやくすぶり、そして消えかけようとしている。

あるいは炎を消すことなく薪をくべ続けられれば良かったのかもしれない。けれどお互いにそれをしなかったという事は、そんな必要は無かったのだろう。

倦怠が質量を持ってそこに横たわっているような息苦しさを感じた。

ある時は、それは空気のような安らぎにも感じられる。

終わりは、一体何処が始まりだったのだろうか。終わった劇が幕を下ろすように、簡単なことではない。

ましてや拍手なんて其処には無い。


「相手が見つかるまでは一緒に住みましょうよ」


カオリは、そう言って煙草に火を点けた。僕と同じマルボロのメンソールだ。

僕はそれまで吸っていたセブンスターを止めてカオリの煙草が切れても、僕の煙草を吸えるように変えたのだった。


「相手が見つかったら?」


僕は灰皿を彼女に渡して応えた。


「終わりよ、ここを引き払うの」

「何でそんなに面倒くさい事をしなきゃならないんだ?先延ばしにする位なら、今終わらせてしまっても同じじゃないか」

僕がそう言うと、彼女は悲しそうに笑った。

「明日からあなたが居ない生活に戻るのは、辛いから」

僕は彼女が言いたい事がなんとなくわかる気がした。

僕達は無理矢理にお互いを歪ませてきた。離れれば一人で立つ事すら難しい位に。

僕だって、きっと倒れてしまうだろう。彼女という支えを失えば。

愛情だとか、恋だとかそんな綺麗なもんじゃない。ただ依存してしまっていたのだ、お互いに。

支えようなんて意思が無くったって、お互いを支えあうように。


「わかった」

それ以外に僕が答えられる言葉なんて、無かった。

彼女の為でなく、自分の為に望んだのだ。


カオリはフリーライターで、僕は出版社で編集をしている。

出会いはありきたりなものだった。

彼女の記事を僕が受け持った事が始まりだ。

打ち合わせを重ねるうち、僕は彼女に魅かれていった。

彼女を見る度に自由、という言葉が形を持ったように感じられたのだった。

その頃僕は彼女や、他のライターや作家の言葉を並べて体裁をつけるだけの仕事に辟易としていた。

僕はからっぽでただ、通過していくだけの存在なのだと感じていたのだ。

通過していくものをそのまま流さないように。

自分なんて空っぽな空洞の中でも、そこを通る間に少しでも意味を付け足せるようにもがいていた。

意味、意味、意味、意味。

言葉は意味を持って、そして並べられて誰かに届く。誰かに届ける為の手助けを出来るように。

青かった事は否めない。そして、その青さに彼女は魅かれたと言っていた。


5度目の打ち合わせで、彼女を食事に誘い、そして寝た。

才能を錯覚していたのかもしれない。

自分に無いものを持つ彼女はただそれだけで僕にとっては輝いて見えた。

僕が「好きだ」という感情を言葉にする間に、彼女は幾つも愛の言葉を吐けた。

つまりは、そういう事だった。僕達は恋人になる為のハードルがお互いに低かったんだ。

現実的な生活や、その先の事を考えるような事さえなかった。

子供の世界の延長。なんだって愛情に結び付けて考えられた。

幻想を抱いてしまっていたんだろう。そして僕達は一緒に暮らすようになった。


部屋に帰ると、彼女が下着姿でパソコンに向かっているような生活。

実生活に幻想なんて持ち込めない。そんな事は知っていた癖に。

それでも、才能のある人間はきっと自分には理解できないのだと思った。

僕が彼女の生活をまともなものに出来ればいいのだと。

まともな生活。そんなもんすら個人の尺度によるのだというのに。


僕は仕事が終ると、同僚の誘いを断って家に帰った。

部屋に帰って彼女の背中を見た時に安心感を覚えるようになっていた。

変わらない背中。彼女の存在はいつだってそこにあって、そして僕がこの先どんなに変わってしまうことになろうと

きっと彼女が居る限りは大切な部分は変わらずにいられると感じられた。

大切な部分が何かさえわからないくせに、そう信じられたのだった。

きっと僕はもう歪み始めていたのだろう。彼女との生活に併せる形で。

彼女はいつだって笑ってくれた。笑っていないときは酷く悲しそうな顔をしていた。

僕はそんな時何も出来ないで、どんな言葉も探せないで側に居た。

ただ、側に居た。それは彼女が望んだ事だった。

「側に居て欲しいの」

そう言って、それ以上は何も続けないで、でも僕がそこに居る事を確かめるように時々僕の方を見つめる。

それ以外はただ虚空の一点をただ見つめ続けるだけだった。

何も出来ない事がただ苦しかったけれど、何も出来ない僕を求める彼女は愛おしいと思った。

僕は煙草を吸いながら、ぼんやりと彼女の事を見つめていた。

一体、何故こんな風に塞いでしまった彼女からでさえ、あんなに自由な言葉が生まれるのかを不思議に思いながら。

補い合える関係ならそれで良かった。

僕は彼女を、彼女は僕を。

足りないものが多すぎるのだ、ただ。持っているものなんて本当はとても少なかったんだろう。

それでも、差し出せる限りなら何だって与えた。

彼女の求めるのは愛情だった。形に出来ないものだとしても、それを求めていた。

無償の愛情。その中で彼女は呼吸をしていた。

「与えられないのなら窒息してしまうわ。愛で呼吸で呼吸をしているようなものなの。いつだって、そこに無いと不安になってしまう」

彼女はそう言って僕に口付けをした。

けれど、本当は知っていた。つまり、僕達のこんな生活では彼女を満たす事など出来ない事を。

彼女はいつも側にいる誰かを求めていた。

そして、それが僕であって欲しいと願ってくれている事は嬉しかった。

「あなたは私の側にいて、苦しくない?」

たまに彼女は虚空を見つめながらそう言った。

そんな時、僕はただ「苦しくなんて無いよ」と応えるだけだった。

他に気の効いた言葉を見つけられないから。

彼女は僕の方を見て微笑んだ。そして、離れたところに居たのなら僕の側に来て、身体を預ける。

柔らかな、頼りない彼女の身体を感じながら僕はどうしようもなく悲しい気持ちになった。

一体どれだけの愛情を注いだなら彼女はそんな不安を感じないで済むのだろうか。

僕が彼女の側に居て満たされこそすれ苦しくなるなんて考えられるのだろうか。

僕の愛情は足りていないんじゃないか?

そんな事を思って、どうしようもなく苦しかった。彼女は黙って僕に口付けをして、そして眠りに付く。

いつのまにか、寝息を立てているのだった。

少なくとも僕の側では安心して眠る事が出来るのだと思うと、満たされた気持ちになった。

彼女は僕の心をこんなにも乱す。そして、それは全て僕が彼女を愛してるからなのだろう。


「愛情は失われないと思う?例えばそれが枯れてしまうような事って考えられる?」

彼女はふと、そんな事を言った。

それについて何かを考えるように目の前にあったグラスを手で弄びながら。

「それは君への愛情について、という事?」

「ええ。或いは私のあなたに対する愛情の事でもあるのよ」

僕はその言葉に酷くショックを受けたのを覚えている。

僕の与える愛情が続く限りには彼女は僕を愛してくれると思いたかったから。

それぞれが別個に存在し、そしてリンクするような物ではないことを改めて思い知らされた気分だった。

無償の愛情について考えなくてはならなかった。

僕が僕として存在する事で彼女は僕を愛してくれているのだろうか?

それとも現在の僕へという限定的な愛情でしかないのだろうか?

少なくとも、僕の彼女への愛情はそんな限定的なものではないと信じていた。

「少なくとも僕にとっては失われないものだと思う」

彼女はその言葉に顔を青くした。それが一体何を意味するのかはわからなかったけれど。

「私はそんな感情を信じる事が出来ないの」

そう言って、俯いた。

「つまり、この瞬間に存在していたものが次の瞬間にはふっと消えてしまうことだって有り得るのだと思うのよ」

僕はとても悲しい気持ちで彼女の言葉を聞いていた。だから、現在与えられる愛情の事を考えてしまうのだろう。

未来に分割する事なんて考えられない。今、そう、たった今そこに在る愛情しか信じられないのだ。

「君がどうであれ、少なくとも今僕を愛してくれているなら、きっとそれでいいんだと思う」

彼女は微笑んだ。

「嘘なんて吐いていない」

僕は彼女の瞳を見つめて、そう言った。

彼女は何も言わず、僕の瞳を覗きこんでいた。

注意深く、何かを探るように。僕はただその視線を真正面から受ける事が自分に出来る全てだと思っていた。

どれだけの言葉を費やしても、どんな事をしたって彼女に信じて貰えないとすれば何の意味も無い。

失って、そして当たり前に傷つくだけだ。

そんな事を繰り返して僕は今まで生きてきた。

それはとても恥ずべきことで、誰もがいつか手に入れるはずの無償の愛情とは遠いところに居たのだった。

いや、それは身内に求めるなら少しは易いのだろう。

僕は母や父や弟に関しては無条件に親密な感情を抱ける。

だからこそ、それは血を分けたものにだけしか感じられないのではないか、とすら思ってしまう。

僕は彼女を愛している、けれどそれは見返りを欲しているのではないか?

例えばいつもより長い口付けや愛のささやきを。

ただ自分がそれを望んで、そして彼女がそうしてくれるなら幸せなんだと思うような。

同じように彼女も求めている。だから、それに応えたいと思うのだ。

少しの間離れる事さえ厭うように、永遠を懇願するかのような瞳を見つめていられる。

その瞳の奥にある激しさにたじろいだとしても、踏みとどまれる。

彼女の愛情は全てを燃やし尽くすような激しさと一度絶やせば簡単に消えてしまうかのような儚さを内包するような類の炎だった。

絶やさないように、細心の注意を払わなければならないような炎。でも、近づきすぎれば焼かれてしまうような熱に僕は戸惑うばかりだった。

或いは燃やし尽くされてしまうことを望んでいたのかもしれない。

それはある意味では救いだった。

全てを捧げて、ぶつけて、その結果燃やし尽くされるのならきっと僕という存在は彼女を愛したまま、その姿を留めたままに失われる。

比喩的な意味で、だけれど。

こんな風な恋なんて二度と出来やしない、と諦める事が出来るのだから。

愛情が枯渇する位愛したなら後に残るのは一体何なのだろう。そんな事を考えても答えなんて無いのに。

けれど、その瞬間の事を思うと身震いがする位幸せな気持ちになれる。

愛情に殉ずる。

それは信仰に近い感情なのかもしれない。信じるものの為に全てを捧げる。それが良しとされるような世界。

異教徒に囚われたキリスト教者は背中の皮を剥がれても彼の神を捨てなかった、という。

その苦痛の中にさえも見出せる信仰は最早まともではないのじゃないかとさえ思うけれど、憧れるものでもある。

神なんて信じていない僕にとっては永遠にわからない感情だと思っていた。

それどころか、愛情だっていつかは冷めてしまうものだと悟っていた僕にとっては恋愛の中でさえ我を忘れられる事があるなんて思いもよらない。

青い恋は青いまま散った。信じていた感情が魘された熱病のようなものだと知ってしまってからは、僕はそんな病を避けて生きてきた。

結果として、それはとても味気ない人生だったんだと思う。

焦がれるような想いなど遠い。美しい人は好きだった。けれど、それは愛へは繋がらない。

空っぽの感情は一体何が原因だったんだろう、と考えるとそれを埋めるはずの愛に蓋をしていたのに思い当たる。思い当たるだけだ。

だからといって、そんなものを求めようとさえ出来なかった。傷つくのが怖い、ただそれだけで。

けれど、今は違う。

蓋をした愛はもう二度と閉める事が出来ないかのように溢れ、彼女を満たそうとした。

永遠に枯渇しない愛情を信じる事が出来る程。勿論、感情には物質的な枯渇などありはしないのだろう。

だとしたら、それが枯渇するとは一体何を意味するのだろうか?


携帯が鳴った。仕事の打ち合わせがあるんだった。

休日なのだけど、どうしても今日しか時間の合わなかった作家が20分程遅れるという連絡を入れてきたのだ。

僕は彼女へ打ち合わせに出かけるから、と告げると支度を始めた。

彼女はとても悲しそうな瞳をして、笑った。

「どうして、仕事にいけるの?私を置いて。こんな日に、私を置いていくなんて」

外はどうしようもない位重苦しい雲が広がっていて、そんな日には彼女はとても憂鬱な気持ちになるのだという。

特に一人で居る時には耐えられない位。

「いっそ雨が降るならマシなのに」

彼女はそう言って、僕を背中から抱きしめた。

「仕事、なんだ」

僕はそれだけ言うのが精一杯だった。彼女が納得しない事はわかっているけれど。

それ以外、一体なんて言える?彼女の我侭を責める事なんて出来ない。

彼女にとって、僕はそれだけ必要なんだ。こんな日じゃなくても、こんな曇の日じゃなかったとしてもきっと

同じように僕を抱き締めてくれただろう。

二人で居られる限りには、二人で居たい。それは彼女だけじゃなく、僕にとっても同じ事だった。

そして、僕がもっと幼くて自分の感情に振り回されて生きていたならきっとそうした。

けれど、僕は仕事をして金を稼がなくてはならない。

目的は彼女との生活を維持する為だ。霞を喰って生きられるわけでもないし、家賃を払わずにこのマンションに住むことも出来ない。

「私が稼ぐわよ・・・だって」

そういう彼女の前で僕はとても無力だった。

彼女は今僕の側に居て、机の上に開けっぱなしになったパソコンで文章を打ってそれをメールで飛ばせば

金を稼ぐ事が出来る。そして僕にはそんな事は出来やしない。それは才能が其処にあるか、無いかという単純な問題だった。

僕にだって同じような、特別な何かがあるのなら同じように、彼女の側にいられるような、いつだって彼女の側にいられるような

方法でこの生活を維持していけるのに。

残念ながら僕にはそんな才能もないし、かといって働かずに生きていけるような資産も無い。だから、彼女の言葉を遮って、言う。

「行かないと」

彼女は迷子の子供のように頼りなく、其処に立っていた。僕は振り返らずに出かける。

そんな事を何回繰り返してきたろう。

彼女の金で生きていく代償に払う愛情なんて、まるで金で買われた愛情のように思えてしまう。それは自分自身の問題で、もし本当に

そうなってしまった時、果たして彼女は僕を愛してくれるのか自信が無いからだ。

つまり、全てを手に入れた彼女が飽きてしまわないか、という事が不安なのだ。

それでなくても彼女には才能があって、僕にはそれが無い。何故、彼女が僕を愛してくれるかの理由さえわからない

わからない事は考えないようにしている。考えることに意味は無い。ましてや他人の心なんて何一つわかりやしないのだから。

彼女は僕に飽きるかもしれないし、飽きないかもしれない。

けれど飽きられた時の事を考えると、どうしようもなく苦しくて、そしてそんな苦しさから逃げようとして彼女を苦しませている。

賽の河原の石積み。

愛情を積み上げては、崩してまた積み始める。終わりなんて無い。終わりが見えないように、そうしている。

それはとても現実的なことだと思う。つまり、引き伸ばされた永遠を錯覚するためにという意味で。


いつからか僕は「お金なら私が稼ぐから」そう言って笑う彼女を恐れ出していた。

つまり、彼女という存在の側に居る時僕はただ空虚な存在である自分を思わずに居られなくなっていたのだった。

彼女にも問題があるとしたって、自分の存在や愛情なんてただ其処にある時にしか感じられない程度のものなのだ。

それが彼女にとって、という枕詞を伴うものである事さえ忘れて、自分の存在のちっぽけさを感じさせられていたのだった。

僕がいつだって彼女の側に居て、そして愛情を注ぐ事なんて出来ない事も。

仕事を失えば、僕はこの部屋を借りる事は出来なくなるし、そして食べ物だって服だって何だって失ってしまう。

金を稼げないのなら現在の生活さえ維持できない。愛情がそこにあったって、それだけでは生きていけないのだから。

現実と彼女と、それは隔たりがあったとしても僕にとっては重要な問題だった。

自分一人だって生きていける、なんて言えなくなってしまっている。

生活は続くし、そこに彼女がいないのならきっと生活の意味さえ無くなってしまうだろう。味気ないモノクロの世界。

錯覚さえ覚えた。彼女がいない世界なんて生きるに値しない、と。


彼女を失う、という事を考えた時未来から色が消えてしまったような気がした。

そんな事を考えなくなってしまっていたのだ。自分の注ぐ愛情の意味さえも。

僕は彼女に求められ、それに応えるために無理をしてでも愛情を注いでいると感じていたけれど、

それは自分が彼女に安心を与えられるようなやり方で彼女を愛せていなかったという事でもあった。

切迫して求められる愛情に対して、僕は切迫した愛情を注いでいた。余裕の無い世界。

二人だけの国はいつからか危ういバランスの上に成り立っていたのだろう。

どちらかがひけば、崩れてしまう程。

僕達はそれに気づいていた。けれど、お互いにその理由を考えさえしなかった。

愛情以前に、ただお互いが其処に居るという事に満足してしまうような関係が出来上がってしまっていたからだ。

今まで求め、そして注いでいた愛情はその平穏の中でも絶える事は無かった。

ただ、表面に現れなかっただけだったのだ。

それは悲しい事だったのだろう。二人だけの世界の中に自分の世界を持ち込んでしまっていたのだ。

愛情は消極的に空回りしてしまっていたのだった。つまり、求めても与えても充足に遠い所で重なり、そして

積み重なるたびに古いものは風化してしまっていた。

現在だけが其処にはあった。永遠に現在だけが重なり続けるのだろう。刹那的な愛情が、どこにも辿り着けず、その刹那性ゆえに失われ続けている。

現在は未来へと繋がらず息絶え、そして過去に繋がるには鮮やか過ぎた。

失い続ける事に疲れてしまったのだろう。

僕達はその疲弊に倦怠を感じていただけに過ぎなかったのだ。疲弊の原因はどこにも繋がらない現在の繰り返しであっても、まだお互いを愛していたからに他ならなかった。

それは永遠に引き伸ばされた現在でしかなかった。積み重ねる事も、それを止めることも出来ない。

永遠に細分化され、そして現在以外にそのどこにも存在し得ないような感情が横たわってしまっている。

「いつか、枯れてしまうのかな?」

枯れてしまうまでは変わることも出来そうに無かった。


一体どれだけの時間が流れれば彼女のいない生活を生きられるようになるのだろうか。

彼女の側に居て、彼女以外の恋人を探そうとする事なんて出来るのだろうか。

愛情が無いとしても、お互いの存在だけは求めてしまうような関係に先なんて無いのだろうか。

いつまでも終らないのなら、きっとそれは未完成の小説のように中途半端なものになってしまうだろう。

でも、引き伸ばされた永遠を錯覚する事も結局は同じ事なんだろう。

永遠なんて其処には無いし、僕達がただお互いに疲弊しながら限りある時間、限りある愛情に幻想を抱く事に他ならない。

どうしたって、いつか終わりは来るし、その時に気づくんだろう。失ってしまう事を。

でも、今はそんな事が問題なんじゃない。

錯覚でも幻想でも其処にあった愛情すら失われたまま彼女の側にいる事に僕は耐えられるのだろうか?

現在、という限定的な時間を切り取るのなら僕は今だって彼女を愛している。ただ、彼女から愛情を得られないというだけで。

見返りを求める愛情なら破綻してしまうような状況であっても、それでも僕は愛情の伴わないカオリとの生活。

そんなものだって、捨てられないなんて。


僕は一体何を求めているんだろう。


僕達は行き場を失くしてしまったのだろうか?


カオリは僕の言葉を聞くと、安心したように笑った。

「そう言ってくれると、思った」

僕は彼女の微笑みに見惚れてしまった。

相変わらず、彼女は僕にとって特別な存在である事を感じさせる微笑み。

愛情の伴わない生活、というのはカオリからの愛情を受ける事が出来なくなるというだけの事なのだ。

僕は側にいられる限り、彼女から離れる必要は無い。

そういう関係になるという事だけだった。望まなくたって、与えられる限りの愛情を注ぐ事は僕の自由だろう。

「私は、本当にあなたの居ない生活なんて考えられないのよ」

彼女の言葉を全て信じる事なんて馬鹿げた事だと思うけれど、信じてしまえるのだから仕方が無い。

僕は彼女の瞳の中を覗き込んだ。出来るだけ、深く。

深遠に弧が広がってもその中心は変わらないように、彼女は変わらないのだろう。

そんな事は一瞬の錯覚かもしれないし、ただの思い込みかもしれない

けれど、それを信じられないのなら僕が生きる意味なんてないのだと思えた。

「僕だって、同じだ」

そう答えると、やっぱり彼女は笑った。とても幸せそうな笑顔だった。

それは今までと変わらず、僕を幸せな気持ちにしてくれるような素敵な笑顔だった。


結局、というか当たり前に僕達はそれまでの生活を維持していた。

彼女のいる部屋に毎日帰る。彼女は相変わらず愛情を求める。身勝手だ、と思っても僕はそれを注いでしまう。

何一つ、失われてはいなかった。関係性の問題なのだろうか。

僕は彼女の恋人である事を止めただけで、彼女を愛しているという事に変わりは無いのだから。

彼女は僕に愛情を求めたけれど、恋人に求めるような切実さは失われていた。

切実さ。

つまりは僕は自由になれたのだ。恋人である事をやめて、初めて彼女と向き合えたと思う。

一方的な愛情はそこには無い。

僕は僕に与えうる限りの愛情を注いでもそれ以上を与えようなんて努力はしなかったし、彼女はそれで満足していた。

愛されない不安は、いつか離れていく事を思うからなのだろう。

僕達はいつ離れたって構わないという前提の元でまだお互いが側に居るという事を認識した時に

それまでに得られなかった安らぎを得る事が出来たのだ。

開け放たれた窓から飛び立てない2羽の鳥達。

けれどそれは飛び立つ必要が無いから。此処には望む全てがある。

広い空を自由に舞う事よりも、限られた世界で囀っている事の方が素晴らしい事だってあるのだ。


永遠に揺るぎのない愛情なんてこの世界のどこに無いのだとしても、この限られた世界で、限られた時間の中では存在し得る。

どれだけの時間続くのかなんて考えたって仕方ない。そう思えれば幸せなのだろう。どうせ僕達の命だって期限付きなのだから。

僕が死んだ後、彼女にとって残された時間に。彼女が死んだ後、僕にとって残された時間に。

お互いが抱き注ぐ愛情が続くのならそれはお互いにとって永遠よりも確実で、そして素晴らしいものなのだと思う。

或いは明日には失われてしまうものかもしれないけれど、未来の事なんてわからない。

それならば永遠に続く愛情や、明日失われてしまう愛情について考えるよりも現在触れられる愛情だけを信じて生きる事の方が素晴らしいし、

生産的だ。


僕は今日もまた、彼女の待つ部屋へ帰る。

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