Chapter008:悪夢
目の前で少女が泣いていた。
見知らぬ幼い少女だ。
薄暗い場所で、可愛らしい顔が絶望に歪んでいた。
少女の引き裂かれた衣服からは白い肌が露出していた。
その白さが、濡れる血の鮮やかさを引き立てているようだった。
大きく裂けた腹から臓物が零れ落ちている。
脚が曲がってはいけない方向へと捩じれ、片目は潰れて腫れあがっている。
歯だろうか。
白い欠片がいくつか血だまりに転がっていた。
凄惨な光景だった。
目を背けたかったが、体は動かない。
嗚咽交じりの悲鳴は鼓膜を突き破りそうなほどだった。
耳を塞ぎたかったが、体は動かない。
山羊のようにも、牛のようにも、羊のようにも見える異形の獣にその身を捉えられ、少女は抵抗する事も出来ずに犯され続けている。
最早、人間のものとも分からない悲痛な声。
許しを請うようにも、有りっ丈の怒りをぶつけるようにも聞えた。
痛みか、悲しみか、怒りか、憎しみか。
あるいはその全てなのだろうか。
少女が何を感じているのか、想像もつかなかった。
絶頂に至る興奮のあまりか、異形の獣の巨大な猿のような腕がその頸椎を砕き、少女の命が尽きるその瞬間、景色が切り替わった。
水瓶聖はその日、嘔吐と共に起床した。
悪夢を見た。
あまりに生々しく、現実と見紛うような夢だった。
吐くほどに気分の悪い夢は生まれて初めて経験するものだった。
ふら付きながら起き上がると、枕もとの時計が目に入った。
時刻はすでに昼に差し掛かろうかと言う時間帯だった。
目覚ましをセットしていた時間はとっくに過ぎている。
遅刻だ。
慌てて起き上がってみると、意外にも体はすんなりと動く。
絶望的に気分は悪いが、だからといって体調を崩したというわけでもないらしい。
「あ、出井門先生ですか? おはようございます。水瓶です。すいません、ちょっと寝坊してしまいまして……」
電話には着信履歴があった。
学校からだ。
担任からだろうとすぐに連絡を入れ、吐瀉物まみれになったベッドを片付ける。
余計な心配をかけることもないだろうと、理由は寝坊という事にしておいた。
制服に着替え、髪の毛のセットもそこそこに、急いで学校へ向かう。
食欲はなかった。
学校は好きだ。
一人で家にいるよりは、仲の良いクラスメイト達と一緒に居るほうが気分が晴れると思った。
住んでいるアパートを出て、近所の教会の角を曲がるとすぐに学校だ。
その途中、ふと視界の隅に映った景色に足が止まった。
「…………え?」
なんだろう、と。
最初は何故、自分が足を止めてしまったのか分からなかった。
そこにはちょとした裏路地へと続く小道が伸びている。
建物の影になり、昼間だというのに薄暗い。
少しだけ遅れて、悪夢が現実と繋がった。
「あ……」
その景色に見覚えがあった。
夢で見た景色がこの先に続いていると理解している自分がいた。
「嘘、でしょ」
そう呟きながら、もう確かめずには居られなかった。
足は、何かに引き寄せられるかのように薄暗い道を進んでいく。
そこに辿りつく前に、答えは分かっていた。
鼻をつく濃い鉄サビの臭い。
足元には点々と残る赤い道しるべが続いていた。
その道しるべの先に、血を、熱を、命を失い冷たくなった青白い体が、自身の血の水溜まりの中に沈んでいるのを見つけた。
大きく裂けた腹から臓物が零れ落ちている。
脚が曲がってはいけない方向へと捩じれ、片目は潰れて腫れあがっている。
砕けた歯のような白い欠片がいくつか血だまりに転がっている。
首の骨が砕け、頭は力なく地面に落ちていた。
「うっ……!」
そこには妙な熱が残っていた。
小さな体から零れ出た熱量が、まるで魂がその場所に囚われているかのように淀んで残っている気がした。
起き様に空っぽにしたハズの胃が再びひっくり返る気分だった。
酸味をおびた胃液だけが逆流して口からこぼれた。
「なん、で……夢じゃ……なかったの?」
夢などではない。
とっくに理解していた。
夢で見たものと同じ惨劇の現場を、そこにある確かな現実としてその目で見てしまったのだから。
コツ、と硬い足音を背後に聞いたのはすぐ後だった。
驚き、警戒して慌てて振り向いた先に、ほとんど全裸のヤクザがいた。
「そこでメリーさんとお会いしたんです。一年くらい前の話ですけど」
九郎は悪魔の気配を辿り、その元凶に出会ったというわけだ。
事情を聞き出し、事態を把握した九郎は、そのまま水瓶を教会へ招いた。
「つーワケで悪魔の活動を抑え、封印するためにこの教会で俺が保護している」
「え? 一年も教会で暮らしてるの?」
「はい。もともと家も近かったですし、居心地いいですよ。私、一人暮らしでしたし、メリーさんが居てくれる方が防犯の面でも安心ですし」
にわかには信じ難い話だが、カルタも悪魔そのものと遭遇しているのだから素直に信じるしかなかった。
どっちかというと水瓶の教会暮らしの方が驚いた。
水瓶が生活できるように、わざわざ九郎が教会自体を改修したらしい。
何でも屋か何かなのか、このヤクザは。
「聖の場合、正確には悪魔の巣か、あるい門……通り道のようなものになっちまってる。一匹倒してもまた次が湧くだけだ」
「俺がぶっ殺した悪魔も、水瓶から出てきたのか?」
「恐らくは、な」
九郎の答えは曖昧だった。
水瓶が補足するように説明してくれる。
「私もあまりハッキリとは認識できているわけではないんです。ただ、たまに夢の中で悪魔の感覚と繋がることがあって、その時ならちゃんとわかるんですけど……」
今回の場合、自身の体に妙な気配を感じた水瓶は昼休みの間にこの教会に戻って来ていた。
聖なる水で体を清め、悪魔の活動を抑えるためだ。
この教会自体も九郎が仕込んだ特殊な結界になっているらしい。
ここに逃げ込むだけで意味があるようだ。
「なるほどな、そういうことだったのか。俺はてっきりサボりかと。意外な一面見ちゃったかと思ったぜ」
「違います」
ここまで聞けば、なんとなくだが話が見えてくる。
悪魔憑きの少女。
それを狙うロナやコロネル。
それらは無関係とは思えない。
偶然にしては出来すぎというものだろう。
「憑かれた原因は不明。一年前に突然発症した。しかもかなり特殊な形でな。場所も悪い。悪魔憑きの中でもかなり厄介なタイプだぜ。実際、悪魔祓いは難航している」
「うぅ、すみません……」
「バカ。お前が謝る必要はない。後は俺の仕事なんだからな」
素直に納得する一方で、ただ疑問もあった。
「でもよ、悪魔の活動はずっと続いてるんだよな?」
「あぁ、そうだ」
「だったら、次々に人が死んでるってのに全く騒ぎになってないっておかしくないか?」
「別におかしくはないだろ。普通に隠蔽されているだけだ。良くある話だろ」
当然のように言われた。
「誰がそんな事するんだよ?」
「さぁな。何処の誰かは知らないが、悪魔に殺された死体を回収している奴等がいる。恐らくはそいつらの仕業だろう。裏の世界の事だ、下手に首を突っ込むと碌な目に合わないぜ?」
「……そうか。それもそうだな。わかった」
カルタはあっさり引き下がった。
この場での詮索は止めておく。
やはり、一度おっさん共から話を聞く必要があるらしい。
「分かったならガキ、今日はもう遅いから帰れ。何かあったらまたこの教会へ来ると良い。聖、こいつの荷物を持ってきてやってくれ」
「はい」
九郎の指示で水瓶が教会の地下へ姿を消したそのタイミングで、九郎の表情が変わった。
「お前が何をしているのか、何をするつもりなのかは知らない。知る必要もないと思っている」
「……なんだよ。俺はただ巻き込まれただけだぜ?」
「それでも良い。だが、一度悪魔と関わってしまったら、もう逃げられない」
サングラス越しに、鋭い視線がカルタを貫いた。
「だから、この件に関わるつもりなら一つだけ忠告しておく」
「何だよ。別に積極的に関わろうってつもりじゃねぇよ。でも、逃げられないんだろ? 言っとくが、悪魔だろうが何だろうが、俺は素直にやられるつもりはないぜ」
「ハン、威勢の良いガキだ。だが俺はお前の命を心配しているわけじゃねぇ」
九郎は白煙を一息、ゆっくりと教会の空に溶かした。
「天使には気を付けろ」
また知らない単語が飛び出してきた。
悪魔と来て、今度は天使だ。
随分とファンタジックな世界になったものだと溜息が出そうだった。
「天使? なんだよ、それ」
「すぐに分かるさ。俺のカンが正しければな」
その後、すぐに水瓶がカルタの私物を持ってきてくれた。
九郎はそれっきり何も話さなかった。
水瓶から私物を受け取り、大事な飴の数だけは確認してカルタは素直に教会を後にした。
一度、西猫に見つかりそうになったおかげで用心して、水瓶の写真は制服のポケットではなく財布の中に隠していた。
詮索されていない限り、恐らくは見られていないだろう。
飴にしても、ぱっと見ただけでは普通のお菓子にしか見えないようハズだ。
「世話になったな」
「いえ、メリーさんも言ってましたけど、いつでも遊びに来てくださいね」
「あぁ。なんか、ここにはまた来る気がするよ」
「ぜひぜひ! ではまた明日、学校で」
水瓶が天使の笑顔で見送ってくれた。
「ん、なんだコレ?」
帰り際、写真を確認しようと開いた財布の中に一枚の小さな手紙が仕込まれていた。
「聖には今まで通りに友達として接しろ。この程度の事で距離を置くやつは殺す」
やけに達筆なその文言は、恐らくは九郎からカルタに宛てたものだろう。
めちゃくちゃ物騒な話だった。
距離を置くつもりは毛頭なかったが、しかし「この程度」で済む話ではない気がする。
「水瓶の親父か、アンタは……」
九郎のキャラがいまいち掴めないまま、カルタは自宅に戻った。