Chapter006:浅夢
どこかで時計の針が時間を刻む音が聞こえていた。
その音は遠くで鳴っている気もするし、近くで鳴っているような気もする。
「お兄ちゃん」
呼ばれて顔を上げると、妹が立っていた。
「どうした?」
「あのね、今日は■■■の■■■■なんだって」
その声は所々がヒビ割れていて良く聞こえない。
可憐な声に時折混じる不快なノイズ音に思わず表情が歪みそうになる。
「もー、お兄ちゃん。ちゃんと聞いてよう」
ぷくっと頬を膨らませて拗ねるような表情をして見せる少女の顔も、全体に影が落ちているように暗くぼやけて判然としない。
華奢な体の上に揺れる白百合のようなワンピース姿には確かに見覚えがあるはずなのに、それ以上の事は思い出せない。
ただ、大切な存在だった事だけはしっかりと覚えている。
「あぁ、ゴメンゴメン」
「だからー……」
何度聞いても同じだ。
その会話は不鮮明で、曖昧で、きっと永遠に繰り返したとしても理解なんてできやしない。
反動の後にはいつも決まって同じ夢を見る。
どうせすぐに忘れてしまうのに、何度も何度もこの傷ついて歪んだ記憶だけは繰り返す。
忘れようとしているのか、忘れまいとしているのか。
それすらもわからない。
「はやく行こう」
白く細くて小さな腕に引っ張られる。
一面の花畑を駆け抜けて、その先の真っ白な門を潜り抜けるのだ。
鼻腔をくすぐる甘いその花の匂いはハッキリと覚えていた。
結末は全て知っている。
幼い二人が門を潜り抜ける事はなく、後に訪れるのは絶望だけだ。
美しい楽園のような世界は地獄の業火に焼かれて見る影もなく無残に消え失せる。
そこには灰も塵も残る事はなく、全ては何もない真新に返るだけの未来しかない。
「■■■!!」
目の前で焼け落ちる小さな体を受け止める事も出来ずに、ただその名前を叫んだ。
はずなのに、その名前すら今はまだ、思い出せない。
「――ッ!!」
声に成らない悲鳴と共にカルタは目覚めた。
飛び起きるようにして上体を起こしたせいで、余計な悲鳴が連なった。
「あだだっ!」
いつもの筋肉痛だ。
何かを掴もうと手を伸ばした姿勢のまま、全身が呪われた石像のようにして固まってしまう。
「あ、あの……玄岸くん、大丈夫ですか?」
「み、水瓶……?」
見知ったクラスメイトからもの凄く心配そうな視線を向けられていた。
「大丈夫だ。問題ない」
条件反射でそう答えていた。
水瓶のその格好にも色々と疑問はあるが、まずは落ち着いて自分の状況を整理してみる。
学校の屋上に悪魔とやらが現れて、西猫が殺された。
だからカルタは教会でそれを消滅させた。
その後でこの少女、水瓶聖に出会った気がする。
最後に見た景色の記憶は教会の中だ。
「えーと、ここは?」
目を覚ましたカルタはやたらとファンシーな部屋にいた。
こじんまりと並ぶ家具は地味で簡素なものばかりだが、それらはぬいぐるみなどの何かしらのピンクな小物で埋め尽くされている。
おかげで小さな部屋が余計に狭く感じられるほどだ。
部屋自体に少し古びた印象はあれど、それは小汚いというものではなかった。
「ここは私の部屋です。玄岸くんが急に倒れたから、それで心配で……」
「わざわざ運んでくれたのか。悪いな、手間をかけさせた」
完全に力の抜けた人間の体というものは想像するよりもずっと重い。
女の子が一人で運ぶのはかなりの苦労を伴うだろう。
「いえ、すごく近くでしたから。私の部屋、教会の地下なので」
「そうか。確かに近いな。それは良かった」
予想以上に近かった。
なんでそんなところに住んでんだ。
というのは突っ込んでも良い所なのだろうか。
さも当然のように言われるとカルタも反応に困る。
「玄岸くん、ひどい汗ですよ。またシャワー、浴びますか?」
水瓶が不意にズイと顔を寄せてきた。
軽くパーマのかかった前髪が額をくすぐる。
水瓶は真剣な表情だ。
それだけ心配してくれているのだろう。
ハンドタオルで顔を拭われる。
確かにひどい汗だった。
それよりもあの古びた教会にシャワーなんて付いてるのだろうか。
そっちの方が気になる。
すごく気になる。
「いや、良い。すぐに帰るよ」
夢を見たのだろう。
夢を見たことは覚えているのに思い出せない不思議な夢だ。
久しぶりではあるが、薬を使うといつも見るから慣れている。
起きた時に寝汗でぐっしょりと濡れている事も、全身が筋肉痛に覆われている事も、慣れている。
カルタは全身の痛みに堪えながら、寝かされていたベッドから起き上がろうとした。
掛けられていたピンクの布団を捲って「おや?」と気付いた。
「あー、水瓶。俺の服しらないか?」
全裸だった。
ここは水瓶の部屋で、部屋にベッドは一つしかない。
つまりは水瓶のベッドに寝かされていたらしいという事になる。
全裸で。
何かいろいろと問題がある気がするが考えるのは止めておいた。
本人が気にしていないなら問題ないだろう。
ないハズだ。
多分ない。
「あ、今お洗濯してるところですよ」
「なんで!?」
平然と答えられたがそんなことをされたら着るものがなくなる。
全裸で帰れとでも言うのだろうか。
可愛い顔をして中々えげつない事を考えるものだ。
カルタは一人で勝手に戦慄した。
「いえ、その、すごく汚れていましたから……」
「あー、確かに……すごく汚れてた、かも……」
そこでやっと全身が悪魔の返り血塗れだったのを思い出す。
服どころかカルタ自身もだ。
慌ててベッドを見返したが、血の跡は無いようだった。
「あ、大丈夫ですよ。お身体はお流ししておきましたから」
カルタの考えを察したのか、水瓶が優し気な笑顔で教えてくれた。
寝汗はしっかり残してしまっているが、これは良いのだろうか。
野郎の寝汗など、自分だったら嫌だなと思った。
「そうか。色々と面倒かけたな」
「いえいえ、当然のことをしただけですから」
どうやら血塗れのカルタの体をわざわざ洗ってから寝かしつけてくれていたらしい。
この少女は天使か何かなのだろうか。
少しでも疑った一刻前の自分を殴りたい。
「それに、感謝するのは私の方です」
「え?」
感謝されるような事をした覚えはない。
午前中はずっとその豊かに実ったおっぱいを注視していたし、その後に至っては血まみれで登場したあげくに気を失っている。
自分で思い返しても迷惑極まりない。
そうでなくとも普通なら全身血塗れの男が目の前に急に現れた時点で逃げ出すと思う。
それが例えクラスメイトであろうと怖いに決まっている。
水瓶にはそんな状況でも物怖じしない度胸を優しさと一緒に兼ね備えているらしい。
やっぱり天使か。
しかし、なるほど。
この清純そうな少女、意外にも男の裸体というモノにあまり抵抗がないらしい。
自分の使っているベッドに全裸で男を寝かしたり、年頃の女子ならば普通はしない気がするが、まぁ良く分からないが平気なのだろう。
カルタは意識がなかったとはいえ、一度は一緒にシャワーも浴びているわけだ。
そうか。
だったら大丈夫か。
手厚く介抱までしてもらった手前、水瓶に余計な刺激を与えまいと気を遣って、というか常識的な配慮で隠していたが、その必要もないならばとカルタは全裸のまま堂々とベッドから立ち上がった。
筋肉痛による痛みはあるが、早めに身体を動かしてそれを解さなければ余計な凝りが残ってしまう。
まずはストレッチがしたかった。
「きゃ、きゃああああ!? 玄岸くん!? 前、前! 隠してくださいー!」
「えー!?」
思いっきりドン引かれた。
当然だが予想外の展開である。
「おいガキ、人様の家で寝起き早々ナニやってんだコラ?」
そしてヤクザが現れた。