Chapter003:襲撃
彼は朝から落ち着かない様子だった。
そんな日の彼はいつも屋上に向かう。
やっぱり今日もそうだった。
作ったばかりの秘密の合鍵がさっそく役に立ってくれた。
隙だらけの背中が見えたから近づいてみると、彼は一人の女子の写真を見ているのだとわかった。
水瓶聖。
ついさっきまで一緒に授業を受けてたクラスのアイドルだ。
ショックだった。
恋愛沙汰とは無縁だと思っていたのに。
心臓がギュっと締め付けられるようだった。
しかし話を聞いてみると、どうやら早とちりだったらしい。
朝から彼が水瓶さんに、なんというか妙な視線を送っているとは思っていたが、関係なかったらしい。
普段はそういう素振りを見せないが、彼も年頃の男子だと言う事だろうか。
やはり彼は恋する男子にはほど遠く、それはそれで少しショックだ。
でもチャンスがないわけじゃないとわかった。
クラスのアイドルほどの美貌は持っていないし、彼女ほどおっぱいだって大きくはない。
けれど気持ちでは負けていないハズだ。
思い切って駆け引きしてみると、一緒にカラオケに行く約束を取り付ける事ができた。
いきなり今日の放課後だなんて、あんまり急だったから焦ったが、こんなチャンスを逃すわけにはいかない。
多分、これってちょっとしたデートだよね?
放課後に校門で待ち合わせをして、逃げるように教室に戻る。
最後の方は自分でもちょっと不審な挙動になってしまった気もするが、彼の事だから、きっとバレてなどいないだろう。
この汗ばんだ体にも、この熱い頬にも、うるさい胸の鼓動にも、きっと彼は気付かない。
それは少しだけ寂しいような、苦しいような気持ちだった。
だけど、それでも良い。
それでもいつか絶対に振り向かせてやるんだ。そう決めているんだから。
「放課後、楽しみにしてるからね」
最後に振り返って彼に告げようとした言葉は、けれど声にはならなかった。
その少女、西猫始の意識はそこで途絶えた。
そして、その意識が蘇る事は二度とない。
「……は?」
カルタはその光景を瞬時には理解できなかった。
空から降ってきた山羊頭の巨人が足の蹄でクラスメイトの頭蓋を粉砕した。
西猫始は死んだ。
今しがた交わした放課後の約束が果たされることはなくなった。
永遠に。
事実としてはそうなる。
その状況を飲み込めない。
いったい何が起こっている? なんて、間抜けな事を考えようと脳があがく。
「ヴェェェェェェ~……」
ひび割れた様な野太い声を上げ、山羊頭の視線がカルタを捉えた。
横長の不気味な瞳と確かに視線が交わった。
「カルタさん! 逃げて!」
赤いマリモの叫びに突き動かされるように、カルタは跳んだ。
入れ替わるように蹄が地面を叩いた。
一瞬前までカルタが居たコンクリートの地面に蜘蛛の巣のようなヒビが走る。
「言われなくても逃げるに決まってるだろ!」
言うよりも先に走り出していた。
屋上への扉は一つしかない。
それを目がけて走る。
「後で説明しろよ! 赤マリモ!」
「うん! 良いから今は走って!」
「わかって――うぉっ!?」
瞬きの狭間、カルタの眼前に突如として黒い線が走った。
線が走ったと思った時にはそれは急速に接近して来ていて、すぐにカルタの視界を覆いつくそうという大きさになった。
カルタはそれを仰け反り、まるでリンボーダンスの要領で避けたが、姿勢を崩して倒れ込んでしまう。
その僅かに頭上を黒い線が走り抜けた。
前髪の先端と共に切り裂かれた風だけが、少し遅れてカルタの顔面を撫でた。
「……尻尾か」
黒い鞭のようにしなるそれは山羊頭の尻から伸びていた。
ギュンと収縮し、次の瞬間には延伸力に任せて再び伸びる。
「やべっ……!」
カルタは倒れたままの体制だ。
起き上がるよりも、尻尾の動きの方が数倍早かった。
今度は叩きつけるように縦に落ちてくる。
寝そべっていては避けきれない。
「うおおおおお!」
起き上がることなどせず、カルタは体を丸めた。
同時に腕を張り、丸めた体を送り出すように床を叩く。
要は渾身の前転である。
カルタは単純でありながら無駄のない動きを持ってして鞭のような尻尾の一撃からその体を逃がした。
尻尾はカルタの体の代わりに地面を打ち、強烈な破裂音を響かせる。
突風をともなうほどの衝撃に背中を押され、そのまま前転の動きで流れるように体を起こすと、カルタはその音に負けじと中指を突き立てて叫んだ。
「どうだクソ山羊! 秘密エージェントなめん……」
その時には山羊頭の異形の顔が目の前にあった。
カルタの頭蓋を噛み砕かんとして開かれたその口元からはとめどなく涎が垂れ流れ、草食動物らしからぬ鋭い牙に覆われていた。
「あ。」
どうしようもないタイミングだった。
どう動いても間に合わないと理解できるほどの至近距離。
思ってたより息が血生臭い。
どう考えても草食ってるやつの臭いじゃないよな、なんて思考も逃げ出すほどの絶望だけが目の前にあった。
死を覚悟した瞬間、カルタの視界がふわりと浮かび上がった。
次の瞬間にはその視界が黒に染まり、再び現れた景色は見知った教室の中だった。
「うぉおおおお!? おぶふっ!」
ガーン! と背中で大きな音がした。
同時に痛みが背中を襲う。
「えっと、カルタさん、生きてるかな?」
「……お、おう。なんとかな」
目の前、見上げる先には教室の天井があった。
周りには五線譜の走った黒板、良く分からない偉人達の肖像画が並ぶ窓際、まばらないくつかの机、大きな太鼓、ギターケース。
起き上がれば、カルタは割れたピアノの上に居た。
音楽室だ。
視界が浮いたのではなく、カルタが落ちていたらしい。
屋上の真下にこの教室があったようだ。
「お前の力か?」
「うん。私と一緒にカルタさんの体を透過したよ。急でごめん。こうでもしないと助からないと思ったから」
「あぁ、助かったよ。いてて……背中は打ったが死ぬよりは数倍マシだからな」
ロナが魔法とやらで助けてくれたようだ。
あまり口にはしないが今回ばかりは感謝する。
「アレ、ただの山羊……なワケないよな?」
「当たり前だよう」
「だよなー」
ただの山羊は空から降ってこないし、二足歩行もしない。
鞭のような伸縮する尻尾も悪魔のような羽も生えていないし、人を踏み殺したりもしない。
じゃあ何だ。
本当に悪魔か何かだろうか。
「アレは悪魔だよう」
本当に悪魔らしかった。
「そっかー」
そんなこと急に言われても、である。
悪魔なんて架空の存在ではなかったのか。
それともまた何処かの誰かが作り出しでもしたのだろうか。
「西猫、死んだのか?」
現実感がなかった。
ついさっきまで普段と変わらない会話をしていたクラスメイトが死んだ。
カラオケに行く約束をしたばかりだった。
何を感じれば良いのかも分からなくなる。
涙は流れなかった。
頭に急速に熱が昇るような、それとは逆にゆっくりと冷えるような、曖昧な感覚に陥る。
脳のどこかが現実を拒否しようと抗っているのを、別のどこかが冷静に感じ取っていた。
「うん。悪魔は聖杯から生まれる存在なんだ。だから早く聖杯を壊さなくちゃ大変なことになるんだよう」
何やら急に解説が始まった。
聖杯ってなんだ。
「待て、何が何だか全く分からん。つーか、アレまだ上にいるのか?」
「うん。居るよ」
「そうか」
カルタ達が一方的に逃げただけだ。
悪魔という名前らしい化け物が屋上に現れて、クラスメイトが殺された。
事件は既に起こり、未だ解決はしていない。
急に現実に引き戻されたような気持ちだった。
「そんなことより聖杯を探さないと」
「よし、決めた」
起こった問題は、誰かが解決しなければならない。
「うん。早く探そう」
「そうじゃない」
「……ふぇ?」
落下の衝撃で壊してしまったピアノから飛び降りると、カルタはパシっと胸の前で拳を叩いた。
悪魔だろうが何だろうが、もう関係ない。
「あいつ、ぶっ殺すか」
その瞳には確かな怒りが宿っていた。