Chapter021:白夢
「053番、前へ」
男の声が誰かを呼ぶ。
誰かは「はーい」と無邪気な返事をしながら真っ白な部屋に入っていった。
拘束台にちょこんと座り、目の前のガラスに笑顔で手を振って見せる。
「良いのか、勝手にこの失敗作を使ってしまって」
「どうせ処分されるんだ、構わないさ。失敗作でも何かしらのデータは得られるだろう」
「やらないよりはマシってか? バレたら、また上から大目玉だぞ」
「あの小言にはもう慣れたさ。それが上の仕事だろう。我々は寛大な心で受け入れようじゃないか」
「ま、それもそうか。全く、上はコイツらを一体造るのにいくら掛かってると思っているんだか」
「資金の管理はまた別の話だからな。価値観も違う。金なら無限に湧いてくると思ってるのさ」
男が二人、ガラスの向こう側で愚痴をこぼし合うのが聞こえるた。
一人は黒い髪にメガネをかけた姿で、もう一人は長い金髪の髪を後頭部に結っている。
「拘束具は良いのか?」
「相手はあの失敗作だ。それにただのファーストフェイズだからな。一人だけなら必要ないさ」
「それもそうか。んじゃ、始めるぞ」
金髪頭の方の男が何かを操作しているのが見えたかと思うと、突然、部屋の中に耳障りな音が響いた。
キーンと、鼓膜をじんわりと揺らすような超高音だ。
部屋にスピーカーらしきものは無く、音は壁そのものから発しているように思われた。
上下左右の壁に何度も反響し、脳を揺さぶるようだった。
誰かは頭を抱え込み、拘束台の上にうずくまる。
脳からは支離滅裂な信号が垂れ流され、今にも体が爆発しそうな気がした。
もう我慢できないと思ったその時、音は急に消えて無音になった。
「なんだ、これは……」
「どうした?」
それと同時、メガネの男が何かを見て、その瞳孔を開いた。
金髪の男がそれを覗き込み、同じように驚愕した。
「おぉ、すごい数値だ!」
「すごい、すごいぞ……!」
二人は小さなグラフを前に興奮した様子で手を合わせた。
「こいつは失敗作なんかじゃない! 実験は成功だったんだ!」
「やったじゃねぇか、これで世界が変わるぞ!」
体から力が抜けて、誰かの視界が暗転する。
「やっぱりおかしい」
同じ場所、違う日付、同じ時間。
誰かは拘束台の上で足をプラプラと揺らしながら、ガラスの向こう側に聞き耳を立てていた。
「なぜ053番にだけ感情が宿っている? 同じクローン体の筈なのに、こんな実験体は他にはいない……」
ガラスの先にはメガネの男が一人、何かをブツブツと呟いていた。
「なぜだ? なぜ053番にだけこんな事が起きている……?」
その意味は、誰かには何一つとして理解できない。
何事もなく静かに時間は過ぎて行き、誰かの視界は眠りにつくようにして再び暗転した。
「053番がまた脱走した」
再び同じ場所、違う日付、同じ時間。
誰かの見つめるガラスの奥には、たくさんの白衣姿が見える。
日を追うごとにその白衣の数は増えていったが、その中心に居るのはいつも変わらずあのメガネの男だ。
「053番は失敗だ」
「我々には053番を制御できない」
「今の053番は危険だ」
「すぐに053番の感情を消去すべきだ」
メガネの男に向かって何人もの男達が声を荒げている。
053番という名前は自分の名前だ。
それくらいは理解しているが、それ以外は良く分からない。
「053番の感情を消す事は出来ない」
メガネの男がたった一言そう言うと、周りの白衣たちがざわついた。
「何を言っているんだ、サンダース博士!」
「この年齢ならまだ、Dチームの感情管理システムが十分に効果を発揮する。逆に言うならば、チャンスは今しかないんだぞ!」
そんな周囲の言葉に、メガネの男は呆れたように大げさに溜息を吐いて見せた。
「そういう問題ではないのだ。感情は実験体の中でも053番だけが持つ特異点だ。我々の研究が成功するためのヒントがそこにあるかも知れないんだぞ? それを捨てるなんてとんでもない!」
「し、しかし……このままではいつ力が暴走してもおかしくないんですよ!?」
珍しく怒りを露わにしながら、それでも冷静にメガネの男はこう続けた。
「実験体とはいえただの子供だ。厳重に管理して教育を施す」
別の種類のざわめきが白衣たちに広がった。
「教育? まさか実験体を相手にですか?」
「冗談でしょう? 前例もない!」
信じられないといった言葉がメガネの男に殺到する。
「前例など我々が作れば良い。053番が我々に反抗することがないように教え込む」
「そ、そんなことが可能なのですか……? 相手は実験体ですよ!」
白衣たちからこぼれる「実験体」という言葉には畏怖の念が込められていた。
未知で、不確かで、常識など通用しない。
それが白衣たちに共通する実験体への印象だ。
この場ではただ一人、中心に立つメガネの男を覗いて。
「だが今はまだ、ただの子供だ。できない理由はない」
「し、しかし……!」
メガネの男は主張を曲げず、そのまま立ち去って行った。
「さっそく準備にかかる。それでは失礼するよ」
何人かの白衣がそれを追いかけるが、メガネの男はまるで相手にしていないように見えた。
「この研究は、いったいどうなってしまうんだ……?」
ガラスの向こう側からは、取り残された白衣たちの様々な感情が入り混じった視線が誰かを囲んでいた。
誰かはそれを気にすることもなく、拘束台の上で丸くなったまま再び眠りについていった。




