Chapter016:明滅
ドサリと、何かが倒れるような乾いた音がした。
風に踊る灰の欠片に巻き込まれるように、白い花弁が目の前を舞う。
それを掴もうと伸ばした手のひらをヒラリとすり抜けて、花弁は空に溶けるように消えてしまった。
「■■■……?」
誰かが誰かの名前を呼ぶ。
その名前は思い出せないが、それが何かは覚えている。
何か、とても大切なモノを失ってしまった時の記憶だ。
「あ、ぁ。」
その喪失感をずっと覚えている。
体の真ん中にポッカリと大きな穴が開いてしまったような気持ちがした。
隙間風がひゅーひゅーと鳴って、とても寒いと思った。
ぐらりと目の前の世界が歪む。
立っていられなくなってたまらず座り込んだ。
きっとこの世界の中心はもう壊れて歪んでしまったのだ。
誰かが言う。
「だから、全部壊してしまえば良い」
黒い風が吹き荒れた。
それは誰かの言葉と同じようにこの体からにじみ出る様に噴き出していた。
別の誰かが教えてくれた事がある。
炎とは、何かを糧にし続けなければその姿を保ち続ける事が出来ないモノなのだと。
明るく、温かく、だからこそ孤独な光の根源。
それは触れた物を全て焼き尽くしては燃え広がる、暴飲暴食の幽世の風。
「もう分かっているんだろう? お前は何も我慢する必要はなくなった。理由なんてたった今、全て失ってしまったのだから」
また誰かが言う。
「今、お前の中にあるその感情は、この時のために育まれた」
自分がどうするべきか、もう理解していた。
黒い風が、世界を覆う。
「さぁ、全て壊して楽になれ」
目の前の世界は光に包まれて、全てが燃えて消えた。
光の後には何も残らない。
「本当にそれで良いのかな?」
また別の誰かの声がする。
気が付けば、知らない場所にいた。
知らない建物の扉を開けて、その誰かが言う。
「今日からここが君の家だ」
中に居るのは知らない顔ばかりだ。
性別も、歳も、髪の色も肌の色も、着ているものもバラバラだ。
「何も心配はいらないさ。ここにいるのは皆、君の味方だ」
メガネをかけた男が言う。
夕焼けの赤さを反射するレンズの奥の表情は伺い知れない。
「そして君の家族だよ」
ただ、その声は温かい物だと感じた気がした。
「もう大丈夫だよ」
目が覚めると、カルタは少女を見上げていた。
小さな膝を枕代わりにしながらぼんやりとその声に耳を傾ける。
幼い少女の声はカルタが良く知っている声で、聞いているだけでとても心が安らぐ気がした。
白い小さな掌が、優しくカルタの前髪を撫でる。
「カルタさん、大丈夫?」
気がつけば、白塗りのおっさんがカルタを覗き込んでいた。
それはロナだ。
これで何度目だろうか、なんて変な事をなぜかその時は考えてしまった。
ロナはこの一週間、ずっとカルタの側にいる。
カルタより早く寝て、そして早く起きる。
だからいつも目が覚めると目の前にはロナがいる。
何度目だろか、なんて無意味な問いだ。
自分は、そんな無意味だと分かっている事をわざわざ考えるような人間だっただろうか。
なんて、それこそ意味のない問いかけだと自分で自分に失笑する。
混乱しているのだろうか。
周囲に目を向けて、とりあえず、おっさんに膝枕をされながら寝たのは初めてだという事は理解できている自分に安心した。
頭上に広がる空には闇の帳が降りており、校舎の屋上も月明りのみに照らされた薄暗い世界に変わっていた。
「俺は、また寝てたのか」
「うん、そうだよう。力の反動だよね? 大丈夫かな?」
ロナのわりと逞しい膝から体を起こすと、予想した以上の痛みが全身に走った。
「うごごっ……!」
「だ、大丈夫!?」
思わず妙な声が出てしまった。
ロナが心配するのも仕方がない。
「あ、あぁ、いつもの事だ……」
とりあえずいつもの強がりを言っておく。
実際には全然平気じゃない。
泣くほど痛かった。
「良かったよう。カルタさん、泣いてたから、嫌な夢でも見てたのかなって」
「は?」
言われて、油の切れたロボットのような動きで目じりに触れると、確かに濡れている。
「まじかよ」
涙を流したのなんていつ以来だろうか。
全く記憶にない。
自分にとっては寝坊よりも珍しい事だと思う。
カルタは筋肉痛程度で泣くほど子供ではないと自負している。
泣きたいほど痛いが、だからといって本当に泣いたりはしない。
そもそも、既に慣れた痛みだ。
確かに過去最高レベルではあるが、所詮は筋肉痛に過ぎない。
「確かに、夢を見てた気がするよ。でも、内容は覚えてないんだ。だから平気さ」
欠伸をする振りをして誤魔化しながら、カルタは体を起こした。
「……あの自称妹女は?」
「カルタさんが寝ちゃってから、すぐにどっか行っちゃったよう」
意識を失う間際の言葉から、なんとなくそうだろうと予想はしていた。
「あの子、悪魔を倒しに来たのかな?」
「だったら、なんで俺を襲うんだよ……」
カルタが意識を失っている間、代わりにロナが見張っていたらしいが、ロゼの大槌で爆散した悪魔はそれから再生しなかったらしい。
完全に消滅したと言う事だ。
「わかんないけど……兄妹ゲンカしたかったとか?」
「だとしたらケンカのレベル高すぎだろうよ」
結局、最初から最後まで意味不明な少女だった。
カルタを襲うなら、意識を失った時ほどのチャンスはない。
そんな気はないのだろう。
襲う事ではなく、戦うという事が目的だったという事だ。
戦っていた時のあの蕩けるような表情を思い出せば、それも納得できてしまう。
あれではただの戦闘狂だ。
「ロナ、ありがとうな」
カルタはゆっくりとストレッチを始めながら、背を向けたままにぽつりと呟いた。
「……ふぇ?」
「お前が止めてくれたから、俺は、今までの俺のままで居られる気がするよ」
ロゼと言う少女の事も含めて、意識が途切れるまでの記憶はしっかりと残っている。
体の奥底から渦を巻くように沸き上がってきたドス黒い感情の事も、制御が効かなくなりつつあった体の事も。
薬が切れかけたあの時、そのまま次の薬を補給していたなら、自分がどうなっていたのか想像できなかった。
ロゼに触れられてから、戦いの間ずっと理性はしっかりと残っていて、暴力への抑制心を失った事を除けば、表面上は普段のカルタそのものだった。
それでもその内側は暴力的である以上に、まるで別人に変わりつつあったのを感じていた。
「ごめんね、許可も取らずに。まかせてろって言われてたのに……」
「いや、助かったよ。良い判断だったさ」
本心からの言葉だった。
カルタにもあの状態での薬の過剰接種が危険な事は理解できていた。
そのうえで、体が止まらなかった。
「良かった! カルタさん、急に念話も通じなくなっちゃうし、知らない人の前だから声も出せないしで、すっごく迷ったよう」
「あぁ、そうだったのか。やけに静かだと思ってたんだ」
実際には、戦闘中はロナの事を忘れていた。
側にいるはずなのに、目の前にいるロゼという戦闘対象にしか意識が向かなくなっていた。
念話が通じなくなったのもそのせいだろうか。
「でも、ちゃんと元のカルタさんに戻ってくれてよかったよう。だって、あんなのカルタさんらしくないもん」
「俺らしさ、か……」
まだ出会って一週間しか経ってないというのに、まるで長年連れ添った家族のような事を言う。
このおっさんは自分の何を知っているというのだろうか。
カルタ自身、自分の過去の記憶を失っていると言うのに。
元の自分。
本当の自分。
そんなものは、カルタ自身にも分からない。
それでも、なぜか今はロナの言葉に嫌な気持ちはしなかった。




