Chapter011:日常
黒い風が世界を覆いつくした。
「お兄ちゃん、大好きだよ」
どこかで少女の声がする。
「ずっと、ずっと、いつまでも」
周囲を見渡しても、その姿が見えることはない。視界は全て黒い風に覆われている。
「大好き」
風が、燃え上がった。
「■■■!!」
幼い少年は何度も知らない名前を呼び続ける。
何度も、何度も――――
「おーい、カルタさん。朝だよう」
カルタはこぶしの効いた渋い低音の呼びかけで目を覚ました。
すっかり聞きなれてしまった声だ。
目を開ければ、同じくすっかり見慣れてしまった赤いパーマ頭をした白塗り顔のおっさんが心配そうにカルタを覗き込んでいた。
「カルタさん、学校は? 今日は月曜日だけど、お休みなのかな?」
「……まじかよ」
重たい体を起こして枕もとの時計に目をやれば、とっくに授業が始まっている時間だった。
「お休み?」
「いや、休みじゃない」
夢を見た気がする。
カルタにとっての夢は一つしかない。
内容こそ思い出せないけれど、それを見たのだといつも理解できる。
薬の反動以外で夢を見たのはいつ以来だろうか。
久しく記憶にない。
「お寝坊さんだね。珍しいなー」
「うるせー」
起きると決めた時間に起きられなかった事も久しぶりだ。
前回がいつだったかすら思い出せない。
からかうように楽しげなロナを一瞥して、カルタはベッドから降りた。
「急ぐ? 朝ごはん、用意できてるけど」
「あー、せっかくだから食って行く。もう授業始まってるし、急ぐにしても今更だろう」
「はーい。じゃあ用意するよう」
おっさん達と出会ってから一週間が経った。
それはそのまま、悪魔と遭遇してからの時間経過と同じだ。
今のところ何も事件は起こっていない。悪魔と戦うような事も怒らず、薬の反動なんてとっくに消えているハズだ。
それなのに、また夢を見た。
それも急にだ。
なんだか体がおかしい。
予兆のようなものは何も感じなかったのに。
全身の細胞を活性化させるように、カルタはゆっくりと大きく息を吸い込んだ。
鼻腔をくすぐるような甘い匂いがした。
ロングコートの上にエプロンを装備した姿のロナが台所から朝食を持って出てきた所だった。
「じゃーん。今日はフレンチトーストを作ってみたんだよう」
すっかり定着してしまった部屋の真ん中のちゃぶ台に皿が乗せられる。
皿の上には小さく切り揃えられたパンが盛り付けられていた。
卵の色味を染み込ませたパンの表面は薄いカラメルを伸ばしたように適度に焦げ付いて、甘い臭いにほのかな香ばしさを含ませる。
正直に言って食欲をそそられた。
「焼きたてだよう。食べて食べて!」
「いただきます」
ロナに急かされながら、カルタはまずは一口サイズのフレンチトーストをそのままで口に運ぶ。
歯を立てると、途端にトーストがとろけた。
表面を覆うサクっとした歯ごたえの内側に、ジューシーな甘味と香りが広がる。
香りづけのバターとシナモンは絶妙なバランスで、卵の風味を殺すことなく引き立てている。
それでいて香りの主張が強すぎる事もなく、甘味そのものをしっかりと閉じ込めているようだった。
噛む必要がないのではないかと思えるくらいの柔らかさは、まるで程よく溶けたチーズに近い。
表面につけられた焼き目によって何とかパンとしての形を保っているのだろうが、焦げ目は同時に歯ごたえのアクセントとしてもしっかりと機能しているようだ。
美味しい。
「どうかな? どうかな?」
一口目を堪能し、次はいつのまにか用意されていたメイプルシロップをかけてからいただく事にする。
透き通っているが少し濃い目のシロップが、トーストの上で黄金色に光る。
ゆっくりとしたたるその姿は目にも美味しいが、さっそく口へ。
一噛みと同時に口内に溢れるフレンチトーストの味と香りに、負けずとも劣らぬシロップの加減が絶妙だった。
合う。
果てしなく合う。
運命的だ。
「ど、どうかな?」
「…………おいしい」
「わーい! よかったー! やったー!」
カルタが素直に感想を述べると、ロナが諸手を上げて喜ぶ。
食事中に目をキラキラさせながらジイと見つめてくるロナにもカルタは慣れたものだ。
何せ毎朝の事なのだから。
料理の腕にはそれなりに自信のあったカルタだが、ロナの実力はそんなカルタが舌を巻くほどだった。
初めて食べた時はおっさんの見た目とのそのギャップに正直ビビった。
それもただ料理が上手なだけでなく、カルタの好みをしっかりと押さえてくる。
素直に褒めるのが少しだけ悔しいが、焦らしてみるものの結局は素直に白状してしまう。
今ではエプロン姿にも全く抵抗がなくなった。
その実力を知ってしまえばむしろそれが正装に見えるくらいだ。
「じゃあ制服持ってくるね」
「おう、サンキュー」
朝起きるとロナが朝食を作っている。
朝食を食べ終わると顔を洗い、歯を磨く。
その間にロナが制服を用意して待っている。
この一週間、毎日続いてきた朝の流れだ。
夜は夜でロナが夕食を作ってくれる。
炊事、洗濯、掃除まで何でもこなす家政婦状態だ。
ロナとコロネルは自分たちが居候状態である事は自覚しているらしく、家事などの手伝いをすると言ってきたのが事の発端だ。
実際にしているのはロナだが。
コロネルは情報収集などでたまにいなくなる。
特に朝は居ない。
悪魔が発生していないかを確認しているらしいが、どうやっているのかは教えてくれない。
ロナはずっとカルタに付きっきりで「私はカルタさんのサポートを任されているんだから!」と張り切っているが、今のところ家事しかしていない。
悪魔が出てこないのだから仕方がないが、さておき家事の腕前は見事な物だった。
「よし、行くか」
「あ、お弁当ー」
「おう」
ロナが持ってきた小さな箱をカルタのカバンに押し込む。
「斜めにするなよ」
「大丈夫だもん」
「じゃあ行くぞ」
「はーい!」
返事と共にロナが十字架に擬態する。
いつものように学生服の襟に隠すようにその十字架のネックレスをかけ、用意を終えてカルタは学校へ向かった。
この一週間、一度も悪魔は出ていないらしい。
水瓶も悪魔の気配を感じないらしく、九郎も「安定している」と言っていた。
西猫の死は隠蔽され、翌日の朝、急遽両親の都合で転校したのだと担任からクラスに伝達があった。
西猫の両親がどうなっているのかはわからない。
その日の放課後に訪れた西猫家はすでにもぬけのからだった。
そうしてまるで、何でもない日常が続いているかのように、毎日が過ぎている。
おっさん達が居なければ、悪い夢でも見ていたのだと、全部を忘れてしまえそうだった。
その一方で、カルタは自分の体に微かな違和感を覚え始めていた。
今まで起きていなかった事が起こっている気がする。
それは、良いことなのか悪いことなのか、今は未だ判断がつかなかった。




