非日常になる前の日常
蝉の声が聞こえた。
教室の外は七月の陽射しがあらゆる物を炙り焼きにしようと容赦なく照らしている。
ここしばらく連日の猛暑が続いているが、旗森高校は冷暖房を完備しているので、窓の外の灼熱地獄とは無関係に教室内は快適だ。
菊地原麗子は姿勢良く席に座り、女の国語教師が板書するラ行変格活用の例文をノートに書き写していた。活字のように端正な文字だ。
肩に零れた黒髪をかき上げる。腰まであるストレートのロングヘアは、一本一本に血が通っているのではないかと思うほど瑞々しく、艶やかである。
整った顔立ちに、切れ長の目。今どきの女子高生にしては古風な感じが漂う。品行方正な和風美少女だ。
ふと麗子は、目の前の空席に目をやった。シャーペンの尻を顎の先に当てる。
――月、火、水、木、金……今日でが五日――。
指を折って空席の主である赤羽根梨央が無断欠席している日数を数える。指折り数えるまでもないのだが、そうすることで日数の重みを感じたかったのだ。
梨央の欠席は珍しいことではない。出席日数が留年ギリギリなのは一年の頃からで、それは二年になっても変わることはなかった。
梨央は暴力沙汰や喫煙など目立った問題行動をする生徒ではないが、とにかく出席率が悪い。
成績は中の中。進学校である旗森高校で年間の三分の一を休んで平均点を取れるのだから、真面目に出席すれば上位の成績を狙えることだろう。本人には全くその気がないようだが。
梨央が一年の時、生活指導の担当教師が彼女を呼び出して、「お前あと十日休んだら留年するぞ」と脅したらびっくりした顔をして「そうなんですか、十一日だと思ってました。ありがとうございます」と答えて呆れさせたそうだ。留年しないようにちゃんと数えているのだ。
麗子は世話好きの性分が頭をもたげるのを抑え、再びノートを取るのに集中した。
授業終了のチャイムが鳴った。麗子が机の上を片付けていると国語教師の佐野が歩いてきて、彼女の横に立った。
「菊地原さん、ちょっといい?」
若い女教師は、顔色を伺うような、媚びるような笑みを顔に貼り付けて言った。
「教室ではちょっとアレだから、外で――」
麗子は溜息をつき、佐野の後に従い廊下に出た。
「何ですか、先生」
用件はだいたい分かっている。佐野は小柄な見た目の通り気が弱く、面倒があると真っ先に委員長である麗子を頼りにする。
「赤羽根さんのことなんだけど、もう五日も休んでるわよね。何か聞いてない?」
やっぱり。
「何も聞いていません。私親しくもないし」
「そうなの……ねえ、赤羽根さんの友達とか知らない? 情報集められないかしら」
「私がすることじゃないと思いますけど。そういうのは、先生が電話したり家庭訪問されるなりして、確認するべきなんじゃないですか?」
佐野の表情が曇る。廊下を歩く生徒達が、好奇の視線を向けながら通り過ぎていく。
「赤羽根さんのお父さんって、ものすごい放任主義でしょ。『高校生にもなったら大人として扱ってください。義務教育じゃないんだから、本人が判断するべきです』って、話が通じないのよ」
「それはお父さんの方が正しいと思いますけど」
「わたし副担任だから、生徒指導の先生とかからいろいろ聞かれるのよ。担任にはあれこれ言わないのにね。わたし臨時だから、言いやすいんだわ」
佐野は休職中の教師の代わりにあてがわれた臨時教員である。休職している教師の名は赤羽根マリア。姓が梨央と同じなのは偶然ではない。梨央の母だ。
マリアは昨年の九月、夏休み明けから休職しており、その期間はもうすぐ一年になる。
梨央の弟の療養の付き添いというのがその名目だった。梨央の出席率が悪くなったのは母が休職してからである。
「先生も大変なんでしょうけど、私は梨央に関わりたくありません。私、あの子嫌いなんです」
身長一七○センチ、すらりとした長身の麗子に文字通り上から目線で言われ、佐野はたじろいだ。
麗子は一見良家のお嬢様といった容貌だが、彼女の眼を見れば、誰もが温室育ちではない芯の強さを感じるだろう。優等生ではあるが、教師に尻尾を振ったりはしない。
「わ、分かったわよ、でも協力はしてよ。あなた顔広いんでしょ。休んでる間どこでたむろしてるとか、そういうの分かったら隠さず教えるのよ」
佐野はそう言い残すとそそくさと立ち去った。
麗子はまた溜息をついた。便利屋じゃないんだから、安易に私を頼るのはやめてほしいと思う。
麗子は、半年前にあった、あまり振り返りたくない過去を思い出していた。
☆
一年のときだ。賑やかだった文化祭も終わり、校内が落ち着きを取り戻した十月頃だった。
麗子は同学年の女生徒から相談を受けた。梨央にキスされそうになったというのだ。名は久美といって、梨央の数少ない友人の一人だった。
久美もクラスでは浮いている方で、はぐれ者通しで気が合ったのだろう。梨央と久美は昼休みを一緒に過ごす仲になった。
校舎の屋上で昼食を食べ終わり、午後の授業が始まるまでの間、いつものようにおしゃべりをしていた。
恋愛の話になり、お互い男の子と付き合ったことも、ましてやキスをしたこともないと、まるで修学旅行の夜のように包み隠さず話し合った。
「じゃあさ、予行演習しようか」
梨央がそう言って顔を近づけ、ふざけているのだと思ってこっちも唇を突き出したら、本気でキスされそうになったというのだ。
「梨央はさ、本気だったよ。あたしが顔を逸らさなかったら本当にキスしてた。ねえ、梨央って、レズなのかな? 別にそんなの自由だからいいんだけどさ~、あたしが全然ダメなのよね、女同士でベタベタするの……せっかく友達になれたのに、どうしようかと思って」
残念そうに久美は言った。そして、麗子に確かめてほしいと頼んだのだった。
☆
相談されたその日の放課後、麗子は梨央を生徒指導室に呼び出した。生徒会役員の麗子は、指導室を自由に使ってよい許可を教師から得ている。
さして広くはない部屋で、二人は事務テーブルを挟み差し向かいに座った。
麗子はいつもどおり姿勢良くしゃんと座っている。
対して梨央はというと、足を組んでパイプ椅子の背もたれの向こうに二の腕をぶら下げている。取調べを受ける容疑者のポーズだ。スカートが短いのでパンツが見えそうになっている。
「梨央……あなたさあ、せっかく可愛らしく生まれてきたんだから、もうちょっと愛想良くしなさいよ。そうやって睨んでると野良犬みたいよ」
梨央はクォーターである。母方の祖母がイギリス人で、その血が梨央の髪を金色に染めている。ちなみに母のマリアは絹のような美しい銀髪である。
和風な麗子とは対照的に梨央はアイドル顔だ。ちょっとだけ吊り上がった目がいかにも生意気そうな印象を与える。
「用件は何なのよ」
麗子の言葉を無視して梨央は言った。
梨央は垂らせば肩甲骨まである髪を高い位置でポニーテイルに結んでいる。長めの前髪はピンで留め、白い額を潔くさらしている。
髪型だけ見れば女子サッカーでフォワードでもやっていそうな快活な印象を与えるのだが、いかんせんその目つきが彼女の容姿を台無しにしていた。
「可愛いって言ってあげてんだから喜びなさいよ、女の子でしょ」
梨央は眉をひそめて睨みつけたままで、表情を緩めようとはしない。
「こんなとこ呼び出されて機嫌良くできるわけないでしょ。だいたいさ、何であんたに説教されなきゃならないのよ、教師でもないのに」
……まったく、本当に野犬みたいね……。
「そう噛みつかないでよ、聞きたいことがあるだけなんだから」
「もったいぶらないでさっさと言いなさいよ。どうせろくな話じゃないんでしょ」
「分かったわよ、久美から相談されたんだけど」
名前を口に出すと、梨央の眉がピクッと動いた。
「心当たりはあるようね。あなた、キスしようとしたんだって?」
小さく、聞こえるか聞こえないかくらいの音で、梨央は舌打ちした。
「あの子まだそのこと気にしてるの? ちょっとふざけただけよ。本気でする気はなかったわ」
「そうかしら、顔を逸らさなかったら絶対唇が触れてたって言ってたわよ」
「女同士でするわけないじゃない」
「それを心配してるわけよ。もし梨央がレズだったら、もう友達でいられないって言ってるの」
〝レズ〟という単語で梨央はまた反応した。
「変な誤解しないでほしいわ……あんたまさか、あたしがレズだってふれ回ってるんじゃないでしょうね?」
「誰が得するのよ、そんなことして。私はあなたがレズでも構わないと思ってる。要はノーマルな子に手を出さなければいいのよ。そういう約束をしてくれれば、久美には黙っててあげるわ。こんなことで友達を失うなんて、つまらないじゃない」
「あたしはレズじゃない。約束も何もないわ」
麗子は少し間を置いて、梨央の目を見つめた。不機嫌な表情は先ほどから変わらないが、ほんの少しだけ、動揺の色が見てとれる気がした。
「レズじゃないの? 本当に本当?」
「しつこいわね。だいたい、あんたが首を突っ込むような――」
「残念ね、私はそうなの。お仲間が見つかったと思ったのにな」
梨央の言葉をさえぎって、麗子はさらりと言った。
何か言おうとして口を開いたまま、梨央の動きが止る。驚きで見開いていた目が、ゆっくりと訝しげな視線に変わっていく。
「……〝そうなの〟って……レーコが……レズ?」
麗子は天気の話でもするように平然としている。
「そ。私嬉しかったのにな、梨央がレズかもって聞いたとき」
梨央の顔に警戒の表情が浮かぶ。
「嘘、カマ掛けてるんだわ」
「嘘じゃないよ」
「あたしにカミングアウトしてどうするわけ?」
「こういうのって、ずっと隠してると破裂しそうになるのよ。梨央なら秘密を守れると思ったの。四組の若菜知ってる?」
「知らない」
「あの子があたしの彼女」
「え! あの可愛い子でしょ! バスケ部の……」
「知ってんじゃない。いいでしょ、紹介してあげよっか?」
「…………」
梨央は黙った。ババ抜きでカードを引くときのような表情で、麗子の言葉を値踏みする。
「ねえ、梨央本当にレズじゃないの? 正直に言ってよ」
「……」
「もしレズだって告白してくれたら、キスしてもいいよ」
梨央は胸から感嘆符が飛び出したような顔をした。麗子は頬杖を突いて、じっと梨央の眼を見ている。
「……本気?」
「本気」
桜色の麗子の唇を見つめ、梨央は思わず生つばを飲み込んだ。
「……あたし、小さい頃は、男の子を好きになったり女の子を好きになったりしてたんだけど……最近は女の子ばっか好きになるの……」
餌に釣られて梨央がとうとう白状した。麗子がニッと微笑む。
「やっと素直になったわね。正直に言うとすっきりするでしょ? ふーん、梨央はそうなんだ。私女の子専門」
「……若菜は?」
「若菜も女の子オンリー。気になる?」
「……なる」
「じゃあ紹介してあげる。三人で遊びに行ったりしようよ。カラオケとかよく行くんだよ」
「そう……あのさ、そ、それより、や……やく……」
赤い顔をして梨央は口ごもった。
「何?」
「……や、約束……」
恥ずかしそうに俯いてしまう。こんな可愛い仕草もできるのかと、麗子は意外に思った。
「あ、そうだね。ここでする? テーブル越しでいい?」
「……う、うん……」
麗子がテーブルの上に身を乗り出した。思わず目が唇に吸い寄せられる。
梨央は一度大きく深呼吸をして、同じようにテーブルに身を乗り出した。
息がかかりそうな距離で、二人は見つめ合った。麗子は余裕で笑みを浮かべている。
麗子は、慣れてるのかな……若菜と……。
梨央は初めてのキスだから、胸がドキドキしている。
顔が近づく。高鳴る鼓動を感じながら、梨央はそっと目を閉じる――。
「!」
唇ではない感触を口に感じ、梨央はハッとして目を開いた。麗子が手のひらで梨央の口を塞いでいた。
「はい、残念でした」
笑みの消えた顔で麗子が言った。梨央が弾かれたように椅子から立ち上がる。パイプ椅子がひっくり返ってガシャンと音を立てた。
「だ、騙したの!? ひどい!」
怒りに満ちた顔で麗子を睨みつける。火が出そうな視線を、麗子は臆せず受け止める。
「こうでもしないとあんた白状しないでしょ。これで分かったわ、あなたがレズで、それも肉体関係を求めてるってこと。いい? この事は黙っててあげるから、久美に手を出しちゃダメよ。あ、言っとくけど、若菜レズじゃないから」
梨央は両手を固く握り締め、ぶるぶると震えている。
「……ひ、人をバカにして……黙っててあげるとか、偉そうに何言ってんのよ! 卑怯者!」
「騙したのは悪かったわよ。でもあなたがもし久美に手を出して、それが噂で広まったら――」
「うっさい! どうでもいいわよ! もう、あったま来た! レーコ! 約束は守ってもらうからね!」
梨央は床を踏みしめるようにしてテーブルを半周し、麗子の前に立った。梨央の勢いにさすがの麗子もたじろぐ。
「え? 約束って……」
「キスするって言ったでしょ!」
「あ、あれは……」
「委員長でしょあんた! 言ったことは責任持て!」
「せ、責任?」
何だが梨央のほうが正しい気がしてきた。とはいえ麗子もキスは未経験なのだ。ここで奪われるわけにはいかない。
梨央が柔道の組み手のように手を伸ばしてきたので、麗子は後ずさって逃げ出した。
「わー! ダメ! ちょ、ちょっと、何か別のもので……」
狭い生徒指導室を走って逃げ回る。
「ノークレーム・ノーリターンよ! 決めたから! 絶対キスする!」
ノークレーム・ノーリターンという表現が適切かどうかは置いておくとして、梨央の決意は固いようだった。
二人はテーブルを挟んで右に左にぐるぐると回った。これではいつか捕まると思い、麗子はドアに向かって駆けた。
鍵を開けようと焦っていると、梨央がテーブルを飛び越え、タックルするように麗子に抱きついた。そのまま二人とも床に倒れてしまう。
「痛ーい!」
叫んだのは麗子だ。梨央は麗子に覆いかぶさり、マウントポジションを取った。
麗子が抵抗するより早く、頭に両手を絡めてしまう。麗子は首を横に向けることもできなくなった。興奮した梨央の顔が、目の前にある。
「り、梨央……ごめんなさい、許してよ……ファ、ファーストキスなんだから……」
怯えた顔で麗子は懇願したが、梨央は容赦なかった。
「覚悟して」
梨央はすうっと息を吸うと、麗子の唇に自分の唇を重ねた。頭を押さえている腕に力を込め、唇を強く押し付ける。あまりロマンチックとは言えないキスだった。
「ん……んん……」
うめく麗子に構わず、梨央は一分間にわたって唇を吸い続けた。
こうして麗子のファーストキスは、夢見ていたのとはほど遠い形で奪われたのだった。